キルトト(1)
目的の街まではあと1時間もあれば到着するだろうか。
懐中時計と腹具合、それから天頂を過ぎていく太陽を確認して、あくびを一つ。
轍のある山道を馬で行くだけの旅路というのはどうしてこうも退屈なのだろう。下草を刈り、枝打ちされ、丁寧に手入れされた見渡す限りの杉林。山に入ってから全く変わりない景色と一定のリズムを刻む蹄の音に、もう一度あくびをかみ殺した。
ようやく春らしい風を感じるこの季節、軽食後のこの時間帯は本当に眠気を誘ってくる。
一人で馬に乗れないという理由から、しぶしぶ背中側に乗せてやった少女は、先程から俺の背に頭を預けたまま穏やかに寝息を立てていた。
この野郎、誰のせいで相棒と別行動してると思ってんだよ。
「リーネット……リーネット!」
肩越しに声をかけると、寝息が止まって、背に預けていた頭をもたげた感覚があった。
が、すぐにまた背中に戻ってきた。
イラっとして思わず悪態をつく。
「ふざけんな、リーネット。今、一回起きただろ。何、二度寝しようとしてんだよ。俺の背中はお前専用の枕じゃねーですよ。振り落されてーのですか、お前は」
「いいじゃん。無駄に広い背中なんだから、枕にするくらい許してよ」
「ったく、嫁入り前の娘が簡単に男の背中に頭を預けてんじゃねーですよ」
「リーダーのコートはさ、素材がいいから手触りがいいんだよ!」
リーネットはそう言いながら、頬を背中にぐりぐりと押し付けてきた。年下の女の子と言うよりかは、まるで警戒心のない小動物に懐かれたようで悪い気のしない自分はもう駄目だと思う。
しかし、いくらコイツの弟と俺が親友で相棒同士とは言え、俺とリーネットは赤の他人なのだ。頼むから、年頃の娘相応の恥じらいを持ってほしい。
百歩譲って俺とクォントはいいとして、他の男にもこんな態度をとっているかと思うと冷や汗が出る。主に保護者的な感覚で。
そもそも俺はお前より3つも年上なんだから敬え、と言いたい。
「……あと1時間もあれば到着するから大人しくしてるならそれでよかですよ」
ここできっちり叱っておかないと、調子に乗ってしまう気もするが、どうにも俺はこの姉弟に甘いのだった。
「大丈夫、この辺りは露頭もなさそうだから、止めてなんて言わないよ」
「河原やら崖やらを見る度に足を止められるこっちの身にもなってくれ。そのせいでクォントだけ先に行くことになったんだからな!」
「はぁーい、分かってるよ。ごめんなさい」
くすくすと、妙に嬉しそうに返事をするリーネット。
「なに笑ってんですか」
「なんだかんだ言ってさ、リーダーもクーちゃんも付き合ってくれるよね。本当に優しいなと思ってさ」
「置いてく、って言ったら諦めるんならそうするっつーの……」
俺は大きくため息を零して、ついでに肩も落とした。
ちくしょう、俺は本当にこの姉弟に甘い。
「……リーネット。次に行く街の名前は覚えてるか?」
代わりに、取り留めない質問をしてみた。
「えっとねえ、『キルトト』だったと思うよ」
のんびりとした返事が返ってきた。
「キルトトの町で最近、変な病気が流行ってるって噂があるんでしょう? だから、クーちゃんとリーダーはそれを調べに来たんだよね」
「その通り」
コイツに俺たちの目的は話してある。
俺とクォントは一応、辺境へと派遣された〈ハーヴァンレヘティ共和国〉中央議会直属の役人だ。
この国は3年前に〈ユハンヌスルス王国〉による王政から共和制へと移行したばかり。その影響を受け、綻びが様々な箇所に生じている。だから、各所に設置された国営のギルドを通して依頼を受け、困っている人々の問題を解決するのが仕事――なのだが。
背中に張り付いたこの少女にとっては、俺たちの仕事などどうでもいいのだ。大事なお仕事なんだよ、と言葉で何度分かりやすく説明してやっても全く理解してもらえなかった。
クォントが『つまりリーダーは〈ミトのコーモンさま〉なんだよ』などと、よく分からない説明をしたら、おお、と手を打って納得していた。彼らの故郷では有名な大衆演劇の登場人物らしいが、俺の知らない、そのミトのコーモンさまとやらに感謝だ。
ついでに言うと、クォントは〈ヤシチ〉でリーネットは〈ハチベエ〉という配役らしい。本人たちが気に入っていたようだから、きっとそれなりにいい役所なんだろう。
「今回も全部、俺とクォントが解決するから、リーネットは勝手に動かない事。絶対に! 勝手に! 行動しない事!!」
「分かってるよ。だってリーダーはコーモンさまだもんね」
「本当に分かってのかよリーネット。行く先々で事件を起こしやがって。面倒な二つ名をつけられて困るのはお前自身なんだぞ。聞いてんのか、リーネット!」
「聞いてるよー」
背中から返ってくるのは気のない返事。
あの寒い夜に出会ってから半年、相変わらず俺の背中に張り付いている小動物は、どうしようもなく図太い神経の持ち主で、俺の言う事など一切聞かない。本当に聞かない。びっくりするほど聞かない。
また、弟であるクォントが輪をかけてリーネットに甘いから、ますます増長する。
俺は、この姉弟と関わるようになってから格段に増えたため息を、また一つ落とした。
と、その時、リーネットは不意に頭をあげた。
まるで警戒を深めた小動物のように、耳を澄ましてじぃっと一点を見つめる。
「リーダー、何かいるよ」
と、その瞬間、警戒の為に張っていた網に何かが引っかかるのを感じた。
同時に、馬が甲高い嘶きと共に暴れ出しそうになる。
手綱を強く引いて落ち着けながら、咄嗟に叫ぶ。
「掴まれ、リーネット! 光化種だ!」
小さな手が腰に回るのを確認し、即、右手小指に嵌めた指輪のキーを解除した。
「<エルル>!」
解除と同時に、展開された半自動プロセスにより白塗りの梓弓が具象化される。
透明な体をした魚のようなモノが甲高い悲鳴を上げながらこちらに向かって木々の隙間を縫うように飛んでくる。
この辺りでは珍しくない、中型の光化種だ。木の葉型の半透明な体に、ひらひらと鰭を靡かせているのが特徴の発光生命体。体長は小柄なリーネットの身長ほどもあり、全長の半分ほどある口で、簡単に人間の身体を喰い千切ってしまう凶悪な生命体だ。大きな口の真上に左右3つずつついている目玉も、拳ほどの大きさがある。
林業を営む人間でも襲ってきたのか、大きく開かれた口にずらりと並んだ牙には血痕が残っていた。
敵から離れるように道に沿って馬を走らせながら手綱を離し、きりきりと狙いを定める。
泳ぐ魚のように森の木々を縫うように空中を飛び回る光化種を仕留めるのは非常に難しい。
が、落ち着いて一匹の目玉を打ち抜いた。
甲高い悲鳴のような光素の波紋が周辺を駆け抜け、鼓膜を貫いた。脳髄を揺らすような不快感に思わず眉を顰める。背に張り付いていたリーネットからは苦悶の声が漏れた。
慣れないうちは、波動のような悲鳴が非常に厄介なのだ。
「大丈夫か、リーネット」
「……うん、平気」
コイツも、こういう健気な態度の時は可愛らしくもあるのだが。
本来なら近寄らず、6つある目玉を全部打ち抜いて倒すのが定石だ。が、それではリーネットの耳に負担がかかってしまう。
「仕方ねーな」
先程具象化した梓弓のプロセスを強制終了。
目を潰された一匹と、もう一匹。進行方向から同時に襲い掛かってきた二匹の光化種に向かって、手を振り上げた。
「クォントと二人で新しく生成したプロセス、使ってみるか!」
正直言って、リーネットの為と言うよりは自分の実験の為だが。
新しく創ったモノがきちんと動くのか確認したくなるのは光術士の性だ。
つい先日完成したばかりのプロセスの起動に入った。
「<エルル>!」
プロセスキーの解除コードを叫ぶと、腕輪に嵌め込んだ宝石のうちの一つが光り出した。赤の輝きは薔薇輝石。三斜晶系に属する希少石だ。
目の前に光化種が迫る中、早口で起動詠唱を行った。
「<嵐に泛び、微風の道を、月の上、陽の下を、大熊星の肩を経て、ついにもの憂きサリオラの丘、ポホヤの湯殿に至りしが、尾を引ける犬は吠えず、番犬共は鳴かざりき――イルマリネン、不滅の匠!>」