それぞれのプロローグ:ルース
その晩の事は、よく覚えている。
冬に向かう時期独特の、大気がぴぃんと張る様な寒さが印象的な夜の事だった。昼間、秋晴れで雲一つなかった空は夜になっても変わらず、満天の星空に3つの月がすべて浮かんでいた。
満月が3つ揃うのは5年ぶりの出来事だという話をしたのは、相棒がこの世界へ来てからちょうど5年経ったからだった。
「覚えてるよ。この世界に落ちてさ、最初に空を見たら満月が3つあったんだ。だからすぐに分かった――ここが、〈チキュウ〉じゃない何処かなんだろうって」
「その〈チキュウ〉には月がないのか?」
「ううん、月はあるけど、1つだけなんだ。だから、あの天体の名前が3つとも全部同じ『月』だって聞いてびっくりしたけどね」
白い息を空に向かって吐きながら、相棒のクォントは遠い目をした。
その視線の先にあるのは、郷愁なんだろうか。
出会った頃は元の世界へ戻る方法を模索していたクォントだったが、いつしかその話題を出さなくなった。それは諦めたからなのか、それとも胸の奥に大事に仕舞い込んでいるだけなのか。俺には判別がつかなかったけれど。
寒くなるだろうと予想して相棒と二人、早めに宿へと引っ込んで夕食をとっていた時だった。この地方独特の豆のスープから、苦手なアスパラを取り除いて相棒の皿に移していくという、慣れた作業の真っ最中。
大気を充たしていた〈光素〉に、一連の波動が駆け抜けた。
鋭くも広範囲に亘るその波紋は、感覚からいって大陸中、もしかすると海を越えて世界中に響き渡ったのではないかと思うほどに安定した波紋だった。
俺にはそれが、壮大な鎮魂歌に聞こえた。誰から誰に宛てたモノなのか知れぬ慟哭が世界全体に響き渡ったようだった。しかし、例えば、別の人間には歓喜の序曲として届けられたらしいし、またある人にとっては慈愛に溢れた揺籃歌であったという。
後世に『歌姫の帰還』と呼ばれるようになったあの夜、少しでも〈光素〉を感じる素養があれば、その『音』に必ず気づいたはずだ。最も、そんな鋭敏な感性を持つヤツはこの大陸中を探したって何十人といないだろうが。
少なくとも、こんな辺境の地の宿では俺一人の筈だった。
それなのに、一切〈光素〉の素養がない筈の俺の相棒がその瞬間にぱっと上を見上げたのだ。
カラン、と皿に落ちるフォークの音が妙に響いたのを覚えている。
後で聞いた話によると、俺の相棒には、はっきりと自分の姉の声に聞こえていたらしい――それも、自分の名を呼び、探している声に。
そして、相棒は虚空に向かって返事をした。
「リーネ、こっちだよ。オレはここにいるよ」
夕食の途中だったというのに、相棒のクォントは叫ぶなり突然立ち上がり、宿の外へ飛び出していってしまった。
他の客に、騒がしくしてしまった事を詫びて頭を下げ、すぐに相棒を追いかけた。
「……ったく、何事だっつーんですか」
駆け出してしまったクォントを追って宿の扉を開け放つと、宿の中庭で空を見上げた相棒が天に向かって両手を広げているところだった。
数え切れないほどの星に埋められ、満月が金銀赤、合わせて3つ張り付いた、美しい夜空に向かって。
そして、ソレは唐突に現れた。
「なっ……!」
眩いばかりの〈光素〉に包まれ、両手足を折りたたむようにして身を縮めた小柄な少女。短くそろえた黒髪に、あどけないと言ってもいいほど幼さを残した顔立ちは、確かに出会った頃のクォントの面影がない事もなかった。
光を纏って天から降りてきたその女の子を、クォントはしっかりと受け止めた。
とても愛おしいものを抱くように、クォントはゆっくりとその女の子の黒髪を撫でた。何度も何度も、存在を確かめるかのように。
……まるで、何年も会っていなかった恋人と再会でもした雰囲気なんだが、これは一体どうした事だろう。
存分にその少女の感触を味わったらしいクォントは、最後に少女を強く抱きしめ、その髪に頬を埋めるようにして震える声で呟いた。
「リーネ」
クォントの声に惹かれるように、彼女はゆっくりと目を開く。
大きなその眼に嵌まり込んだ黒曜石のような深い色の瞳に、思わず目を奪われた。
黒い髪に、黒い瞳。非常に珍しいその容姿に、俺は悟ってしまったのだ――この子がいったい何処から来たのか。
彼女は何度か瞬きをした後、大きな目をさらに大きく見開いてクォントをまじまじと見た。
「クーちゃん?」
その声を聴いたクォントは、見た事もないほどに相好を崩して笑った。
お前、そんな顔も出来たのかよ。割と付き合いの長い俺でさえ見た事のないような笑顔だぞ。
ところが、リーネと呼ばれたその少女は、眉間に皺を寄せてクォントの頬を両手で挟み込んだ。額の触れそうなほどに近くまで顔を寄せて、首を傾げる。
「何で? クーちゃん、髪の色どうしたの? こんな真っ白になって……不良になっちゃったの? 声も低いし、それになんだか大人っぽくなってる」
「姉さんは変わってないね……5年前に、別れた時のまんまだよ」
「5年?」
少女はぽかんと口を開けた。
まるで何を言っているか分からない。そんな表情だった。
「リーネと別れてから5年経ったよ。オレは今、19歳だよ。でも、もし姉さんがまだ16歳なんだとしたら、うん、オレの方が年上になっちゃったかも」
にこにこと笑うクォントに、少女の方は絶句している。
それはそうだろう。俺は頭を抱えた。
クォントとそれなりに付き合いの長い俺は、今までの一連の流れで状況を把握できたが、普通のヤツには無理だ。何しろクォントはいつでも、絶望的に説明が足りない。
仕方がないので、感動の再開に口を挟むことにした。
「おい、クォント。ちゃんと最初から順を追って説明しやがれですよ。そっちの子だって混乱してんだろ? 一度、宿に戻って……」
「うわあ、王子様だ!」
俺の姿を見た少女は開口一番、そう叫んだ。
じぃっと見つめる目は大きく見開かれ、心なしか頬が紅潮している。大きな目とバランスのとれた顔立ちは素直に愛らしいなと思った。クォントに埋もれるほど小柄で、どことなく小動物のような印象を受ける。
仏頂面のクォントとは似ても似つかない。
「……お前、何で俺が王子だって分かんだよ」
クォントの知り合い(らしい)とは言え、軽く警戒しながら尋ねた。3年前に王政が倒れたから正確には『元』王子だが、俺のその素性は隠している筈なのに。
「えっ、だって金髪で碧眼で、背が高くてすらっとしてて、美形で、白いコートなんて着てたら、王子じゃないの? 心なしか後光も差してる気がする」
「見た目だけじゃねーですか」
言葉の内容、口をぽかんと開けた表情。コイツはお世辞にも頭がよさそうには見えない。
いや、はっきり言おう。
コイツ、阿呆っぽい。
相棒のクォントは楽しそうに笑いながら――普段なら絶対に見せない表情だ――腕に座らせるようにしてリーネを抱き上げた。
「リーネ、このヒトは相棒のルースだよ。オレと一緒に旅をしてるんだ。そうだなあ、でも確かにここは寒いから、中に入ろう。姉さんに話したい事がたくさんあるんだ!」
リーネ、と言うのが『りー姉』という呼称だったと聞いたのは後の事だった。
この日、3つの月が昇る夜空から落ちてきたのはクォントの姉のリーネット。
白髪に赤茶の瞳の弟と、黒髪に黒目の姉――まるでちぐはぐな姉弟だった。
しかし、姉は取り乱す事もなかったし、クォントもこれまで見た事のないような穏やかな笑顔を浮かべていた。
二人の間に確固たる信頼関係が築かれているのはそれだけで分かったが、無条件のその信頼に対し、何となく嫉妬のような感情を覚えないでもなかった。
その嫉妬の矛先がいったい何処に向けられたものなのか、当時の俺には全く分からなかったけれど。
宿の扉を閉じる時、背後の満月は3つ揃って俺を見下ろしていた。
兄弟月と言われる、金色の月と銀色の月。それぞれ、雷神と風神の名がつけられた二つの月。そして最も大きく、赤い光を放つ月は、炎神の名を冠している。
その光を最後に目に焼き付けて、扉を閉じた。




