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第五話 学都《羅季》

 奇妙な異邦人との邂逅、その翌日、早朝。

 二十年間変わらない日課通り、毎朝行う朝の巡回へ繰り出すべく装備を調え、守護兵専用の学園敷地外への出入り門の閂に手をかけたその瞬間、不意に背後から陽気な声が飛んできた。

「よぉよぉ聞いたぜ若人、お前涼しい顔して女連れてきたんだって? 文機(ふみはた)が喚いてたぞ、『どうしてこの忙しい時にあの子まで問題を拾ってくるんですかッ』ってな!!」

 はっはっは! 快活に笑いながらばしばしと背中を叩かれて悠凪(ひさなぎ)はほんの少しだけ眉根を寄せた。『あの子まで(、、)』という言葉には自分も問題視されているという意味が込められていることを棚に上げた発言である。この声の主は、残留兵士の中では比較的まともかもしれないが、仕事の効率面だけに言及すれば文機が最も頭を悩ませているであろう人物なのだ。自分の拾ってきた少女の素性は確かに大きな問題かもしれないが、それをこの男にとやかく言われるような筋合いはない。あくまで無感情に相手を振り返ると、悠凪よりも頭二つ分背の高い長身の男はにぃと悪童のように笑った。

「そう怖い顔すんなって悠凪、軽い冗談じゃねーか! 色々真に受けてると疲れちまうぜ? 人生もっと気楽に行かなくちゃァならんだろ!!」

「……貴官は楽観的に過ぎると思われるが、(れん)。こんなところで何をしている。貴官は今の時刻、自主訓練生徒の監督指導員の任務を与えられていたと記憶しているが」

(あかり)が代わってくれたんだよ。お前さんと巡回任務なんて行きたくないってさ! ったく、我儘なこった。振り回される中年オヤジの身にもなれっつーの」

 ぐい、と両手を頭上に突き上げて伸びをしながら、蓮こと学都《羅季(らき)(しち)番守護兵はうんざりしたような言葉とは裏腹に爽快に笑む。元より、訓練中の生徒を眺めては時たま指導するだけの監督指導員としての職務よりも、外回りの巡回任務のほうを好むのがこの男だ。燈との任務の交換は彼には何の不利益ももたらさないから、むしろ燈の申し出を有り難く思っているに違いなかった。……勝手に仕事を交換されては有事が起きたときに面倒なことになる、という点は完全に頭にないらしいが、それを注意する気はめっきり失せてしまった。

 少し褪せた色合いの亜麻色の髪は、まともに櫛を入れていないことが一目瞭然なほど雑にあちこちが跳ねてしまっていて、まるで寝起き同様である。朝風に踊った彼の右横髪は明るい黄色に染められていて、何のつもりか髪飾りなど付けている。男が付けていると悠凪にとっては違和感しか喚起されないのだが、霞柄(かすみえ)に言わせれば「年が年だからああいうの付けて少しでも若く見せたいのよ。中年のお洒落心って奴を分かってやんなさい」とのことらしい。

 蓮の服装は悠凪と共通点の多い守護兵用の軍服であるが、悠凪と大きく異なるのはその「ゆとり」だ。悠凪を始めとした多くの守護兵の軍服は動作の邪魔にならないよう身体に沿わせる形で縫われているため、その後ろ姿に無駄なゆとりはない。だが、蓮の物は上衣の袖や履き物の裾に丸みを帯びた「ゆとり」が設計されているのである――同じ剣を扱う者として「邪魔ではないのか」と聞いたことがあったが、「こっちの方が緩くて動きやすいんだよ」と返されたのみで、他に理由があるのかどうかは知らない。

 蓮は守護兵の中でも、かなり特殊な立ち位置にいる男であった。

 その理由はその軍服の選び方でもなければ、砕けていて礼儀のなっていない言動でもなければ気楽に過ぎる楽天主義でもない。よく回る口でもないし高い身長でもない。

 「中年オヤジ」なる彼の言葉そのままに、彼が他の守護兵のように少年少女、青年淑女の、十代前半から二十代後半にかけての年齢層とは大きくかけ離れた、齢三十九歳(、、、、、)の守護兵であることに起因する。

 守護兵は文機や悠凪の例を見れば分かるように、守護兵としての任務を帯びたその日にとある特殊な術式を体内に埋め込むのが儀礼だ。それは俗に、成長停止の術と呼ばれる。守護兵はその魔術の効用によって、外見上、加齢することが無くなるのだ。だから悠凪も外見こそ十代後半の少年であるが、実年齢だけで言うのならば蓮と対して変わらない年齢になってしまう。……以前、会話の場で順当に加齢した場合の年齢の話題が出た際、主に女性兵からかなり手痛い制裁を喰らったので口にすることは出来ないが、「見た目通りの年齢でない」というのはそういうことだ。

 さて、悠凪たち守護兵はほぼ全員が、この《羅季》を卒業したその日に守護兵としての責任を獲得し、成長停止術をその身に受ける。それぞれ卒業した年齢は個々の成績や事情により異なるものの、ほとんどはどんなに遅くとも二十代後半までに術式の恩恵を受ける為、守護兵は若者がほとんどだ。彌島全土にいくつかある同じような都市の守護兵も同様である。蓮のような年齢の兵士は、限りなく零に近い程に希少なのだ。

 ではこの男は《羅季》を卒業するまでに三十年近い年月を費やしたのか、と言うと、そういうわけでもない。――彼は、それこそ彌島でたった一人かもしれない「卒業生でない採用者」なのであった。

 彼は三十九歳までの間をごく一般的な家庭で育ち、家を出て、剣士として戦場を巡り稼いでいた口だった。ある折りに行われた剣武大会で優勝したのがきっかけで《羅季》の守護兵に任用されたという、驚くべき経歴の持ち主である。つまりはそれだけ剣技に冴える実力者、ということだ。

 年齢が異質にして、経歴も異質な男――だがどこか間の抜けた雰囲気の漂う男。それが、悠凪の知る蓮という男であった。

「嫌われたもんだなぁ悠凪。後輩にこうも嫌われてんじゃぁやるせないってモンだろう? ちったぁ原因考えた方がいいんじゃねぇの?」

「……ぼくには原因など思い当たらないし、あったとしても今のやり方を変える必要性を感じない。人の感情など曖昧なものだ。簡単に熱され冷める上、あっさりと心変わりすることもある――嫌われていようと疎まれていようと、ぼくは任務を遂行するまで」

「……へいへい、達観した坊主だぜホント。そういう風に枯れちまってんのは勿体ねーと思うけどね。人生張り詰めて生きてたってしゃぁねぇのに、どいつもこいつも馬鹿げたこった」

 ひょい、と軽薄に肩をすくめて、蓮は呆れたように言う。だがまるでその発言を取り消すかのような性急さで以って、蓮は新たな話題を提示した。

「んじゃ、巡回任務に出動致しますかねぇ。燈から聞いてねーんだけど、今日はどの巡回順路の日だ? 下町巡回?」

「現在の《羅季》警備の薄さを案じ、文機からは全街区巡回をするよう指示が出ている。これを機と見ていつ敵衆があるか分からぬからな、厳重警戒を敷くように、とのことである。また効率化の為分散しての巡回を行うようにと指示も出ているが」

「うげっ、だだっぴろいじゃねーかそれ! しかも単独行動!? 朝からなんつー重い仕事を……!」

「付け足すと、巡回任務は只今から二時間以内で終了するように、とのことである」

「悠凪それは無茶ぶりって言うんだぜ、断るべき仕事だぜ……二時間でこんなにデカイ街いっこ回れるわけねーだろバカ野郎……中年オヤジを何だと思ってんのよ……」

 心底嫌そうにがくりとうなだれる蓮。だがそもそも、勝手に仕事を交換したのは蓮と燈であって、文機はこの交換を予測していた訳ではないのだから致し方ない事だろうと思う。守護兵の中でも機動力を重視した力を持つ悠凪と、狙撃兵という役目ではあるが移動能力は標準以上の燈ならば、無茶ぶりという段階ではない――それに、残留兵の中で一番「若い」のがこの二人なので、人選は的確と言えた。蓮は機動力はあまり重視しない能力を持つため、こういった迅速行動の必要とされる任務は苦手とする傾向にある。だからこそ、文機は蓮に監督指導員の仕事を割り振ったのだろうに。

 言ってしまえば、自業自得。そう判断して、悠凪は閂を開いた。

「ぼくは東全域の担当である。貴官には西地区の巡回を担当してもらいたい」

「うおっ、西地区!? よっしゃ、あっちにゃ美味い飯屋があるんだよなぁッ! 安くて美味くてついでに言うと可愛い嬢ちゃんが……あ」

 言いかけた蓮は口を噤んだ。悠凪のじとっとした非難の視線を受け取ったからである。居心地悪そうにそっぽを向いて「若いねーちゃんは男の原動力なんだよ」とさも当然のように呟いたが、その蜂蜜色の瞳はぐるぐると泳いでいた。……良くも悪くも、分かりやすい男である。


■ □ ■


 巡回終了、異常無し。端的にそれだけを報告して学内へ舞い戻ってきた悠凪は、未だ蓮が帰還していないことを確認してから機関室へ向かった。朝の巡回任務に要した時間は一時間と四十五分、そこそこ上出来な記録である。基本的に朝は早い生活を義務付けられている生徒たちは既に起床し、ちょうど朝食の時刻だ。

 悠凪たち守護兵は加齢することはないが、食物を経口摂取することは必要とするし、当然ながら睡眠時間も必要とする。魔術で身体をいじられていようと「人間」であることに変わりはないからだ。通常の人間と比べれば摂取量が少なくても栄養素が偏っていても活動に支障を及ぼすことはなく、また睡眠時間がたとえ十分に満たなくとも一切問題はないが、それでも「食べている」「眠っている」ということ自体が大切なので、守護兵は基本その習慣を欠かすことがない。……だからといって全員が、食事も睡眠も極力控えているかと言えばその限りでは無く、特殊な事情で慢性的に眠気に襲われている詠科(よみか)などは暇さえあれば眠りこけていることもあるし、蓮はよく食べる男だ。最低限度は同じだが普段の生活に個人差は存在する。

 ゆえに、守護兵は生徒が朝食を摂りに集まってくる食堂で食事を摂ることが多かった。

 数千人に及ぶ生徒を収容する大広間に所狭しと並べられた長机。級友たちと朝から元気に笑い合う生徒。時には盆をひっくり返した音や、眠気に勝てなかったのか机に突っ伏して寝息を立てる者もいる。学都《羅季》はその日中の大半が規律に則った静寂に満ちる。朝、昼、夜の食事時には、羽目を外す生徒も多いのだった。

 悠凪は大食堂の壁に沿って人の間を縫うように進んでいった。無機質な材質でしつらえられた白壁は、この学都にある多くの部屋の例に漏れず何の装飾も施されていない。殺風景なだけの壁は賑やかなこの空間においては異様な存在感を放っているが、それすら気にしない程生徒たちはこの時間に夢中のようだ。娯楽の少ないこの学都において食事は有数の娯楽である、と考えればこの騒々しさにも納得がいくかもしれないが、悠凪はまず「娯楽が少ない」と考えたことさえほとんど無かったので、正直よく分からないところだ。

 大食堂に入って五分弱が経過した辺りで、いつも守護兵が集まる所定の長机に辿り着いた悠凪は、そこに先に腰を下ろしていた人物を三人視認した。こちらに背中を向けて座っていた筈のひとり、詠科はこちらの気配に気がついたのかくるりと振り返り、それから依然眠そうに目を細めながら、よぉと片手を緩慢に上げた。

「……お、はよ、悠凪。朝、だよー。朝ですよー、ぽっぽー、ぽっぽー」

「……言われなくとも知っているが、なぜ鳥の鳴き真似などしている?」

「んー。なんと、……なく? ふあぁぁ」

 大きな欠伸をひとつしてから、詠科はまた机に向き直った。そしてその横でこちらを振り返り、瞬間、露骨に顔をしかめたのは言うまでもなく燈である。うわ朝から嫌なのと出くわした、と小声で呟き目線を逸らすその姿は、誰がどう見ても悠凪のことを快く思っていないのが分かるほどだった。これがもし『今』でなければ舌打ちすら漏らしそうな勢いだ。それまで上機嫌だったらしいが機嫌を急降下させて食事に向き直った燈にため息をつきたくなったが、それは無駄なことだと考え直して、悠凪は大人しく燈の横を通り過ぎ彼の正面に座った。

 詠科の正面、つまり悠凪所定の席の隣に座っていた(いのり)は、悠凪を見るなり同情めいた視線を送りながら「朝からガン飛ばさなくたっていいのにね」などとうっかり囁いて、燈に睨まれている。どうもこの異邦人は危機管理意識が足りていないらしい。悠凪は無表情に忠告した。

「……君、気をつけたまえ。あまり馬鹿なことを言うと、そのうち本当に撃ち殺されるぞ」

 燈はやりかねない男である。やると言ったらやる奴なのは悠凪もよく知っている。だからこその忠告の言葉に祈の表情が凍りついたのと同時、燈は芝居がかった動作で肩をすくめて眼光を鋭くした。

「はっ、そんな抵抗の一つもできないような小娘相手じゃ面白くないな。だったらアンタにしてやろうか? そのムカつく澄まし顔に風穴開けてやったらさぞ気持ちいいだろうね」

「ほう、君に出来るというのならぜひともやってみたまえ。そのあと何が起きようがぼくは知らないがな」

「殺られる前に殺るっての? 上等。だったら決闘の準――」

 備を。

 燈が挑戦的な態度で以って発言し、食堂の一角で一触即発の火花が散らされる。祈が突然始まった不穏な空気に目を白黒させ、周囲の生徒たちが騒ぎに気付いてうんざり(、、、、)した表情になりながらも固唾を呑んで見守る――そんな展開になりつつあった次の瞬間、燈は続く言葉を言う事すら出来ずに、

 豪快で爽快な打撃音と同時にばんっと派手な音を立てて机に突っ伏した。

「……え?」

 祈の間の抜けた声が、生徒たちが一斉に吐き出した溜息に交じり合って溶け消える。

 周囲の生徒、というかこの食堂にいる人間で、事態を把握していないのは祈ただ一人だ。誰もが何が起きたのか理解していた。え、え、え? と狼狽する祈に今更ながらに気付いた生徒の「あの子誰?」という囁きは、ぱん、ぱん、とのんびり打ち鳴らされた詠科の掌の音によって打ち消された。

「もー……何回、やれば……気が、済むのかなぁ。……悪い子には、……お仕置き、だ、よ……? ふぁぁぁ、眠い」

 間延びした口調で、一切緊張感なしに詠科は言う。険しい表情をすることはなかったが、欠伸交じりの言葉にはほんの少し非難の響きがある。いつもなら数秒とせず顔を上げる燈はしかし、今回ばかりはそうも行かなかったらしい。両手で咄嗟に後頭部を庇いながら痛みに呻いた彼の金色の瞳、その淵には、痛みによる生理的な反応で涙が溜まっている。いったぁ、と呟いた燈の学習能力のなさに、思わず悠凪は呆れ半分に言葉を投げかけていた。

「毎日同じことをしているが、燈、いい加減に諦めたらどうだ。ぼくは君の奇妙な趣味に付き合うつもりなどないのだが」

「うぐ……っ、うっさいなぁ、アンタが毎朝ここに来るのが悪いんだろ……ッ! っていうかちょ、詠科、いつもより痛くない……!?」

「い、い、……いつも? え、待って、いつもって何!?」

 目の前で繰り広げられる漫才めいた問答に耐え切れなくなったらしい祈が、極めて信じ難いという表情をありありと浮かべて、大声でそう問うた。あまりに大きな声だったもので、事の成り行きを見守っていた生徒数人の肩がびくりと跳ねる。守護兵でもなく、また生徒でもない祈が守護兵の普段使う席に座っているというだけでも目を惹くというのに、この大声は誤魔化しようもなく目立った。訝しむような視線がぐさぐさと祈に突き刺さることに気付き彼女はちょっとばかり居心地が悪くなったようではあったが、未だ後頭部の激痛に涙目の燈の姿がよほど衝撃的だったのか、口をはくはくさせるばかりである。魚類のような有様は少女としてはどうなのかと口にするよりも早く、詠科が解説の台詞を口にした。

「うん。いつも、だ……よー。……燈、毎朝、……悠凪と、喧嘩するの。ていうか、……一方的に喧嘩売って、……るの。だから、……いつも、詠科が、仲裁。これが、一番……早い」

「あーうん早いね、うん、物理的にね!? 喧嘩を仲裁する速度的にも手の動き的にも早いね!? 詠科ちゃんそんな早く動けたんだむしろびっくりだよ!? 全然見えなかったよ私!?」

「……甘い、ね。……朝ごはんを、食べたいなら……この私を、越えて行け……なきゃ」

「そんな高すぎるハードルを設定されちゃったら私は餓死するしか道がないよ詠科ちゃん!! この素人に何を求めてるの!? 無理だよ無理無理絶対無理!?」

 祈の口調はかなり砕けたものになっていた。一日も経たない間にこうまで慣れた調子になっているのは良いことなのか悪いことなのか悠凪には判断がつかなかったが、まぁ関係良好ということで恐らくは良いことなのだろう。

 ――そう。今の燈と悠凪のやり取り、及び燈の末路は、これまで十四年にわたり散々繰り返されてきた「いつも」のことなのだった。

 毎朝毎朝飽きもせず突っかかってくる燈を悠凪が適当に流し、それに過剰反応した燈を詠科が殴って黙らせる。最終的に被害をこうむるのは燈だけ、という、まったくもって生産性のない不毛なやり取りを毎度毎度儀式の如く繰り返す発端を作る燈には、正直悠凪は困り果てているところだった。詠科自身は燈の反応を見て楽しんでいるので何ら問題は無いらしいが、別に悠凪はこれが楽しい訳ではない――楽しいという感覚はよく分からない。こういうやり取りは時間の無駄、と切り捨てるのが恐らく一番正しい。だから、困っていた。

 それに悠凪にとってこの時間で何より理解しがたいのは――何を隠そう、燈その人なのだった。

「……ま、い、いいけどさ……それだけちゃんと反応してくれたってことなんだし……詠科の一撃と思えば別に痛くもかゆくもないし……はっ、手加減しなくていいと思うくらいには親しくなれたっていう解釈もできる……!?」

 詠科には聞こえないように彼がぼそりと呟いたその言葉は、悠凪だけでなくしっかり祈の耳にも届いたようだった。いよいよ「有り得ない」と言いたげに目を真ん丸に見開き、え、え、と戸惑いの呻き声を漏らす。だが祈の様子に気付いているのかいないのか、詠科は卓上に並べた自分の分の朝食をさっさと平らげると、「……それじゃ、先、……行くね」とだけ告げて席を立った。

 ぽかんとする祈を置き去りに詠科が立ち去ると、周りの生徒たちはちら、と憐れむような視線を燈に向けては見てはいけないものを見たと言いたげに視線を逸らしていく。毎日繰り返されるこの恒例行事に未だ耐性がないのか、うわあ、と言いたげに顔をしかめている女子生徒も何名か見受けられた。ちなみに言うと祈もその一人である。ひく、と口元を引き攣らせて、彼女は呆然自失の体で燈に尋ねる。

「ね、ねぇ、ちょっちょっとあんた」

「は? 何。何でそんなに気持ち悪い顔してんの?」

 どもり気味に言葉を発した祈に対する燈の切り返しは、昨日の尋問室で会話したときと何ら変わらぬ、面倒そうで冷たい響きのままだ。だが今の不遜な表情はいつものそれよりも少しばかり緩んでいる。どころか悠凪や祈達は、ばっちり目撃してしまっていた――鈍器で後頭部を思い切り殴打されたような衝撃と痛みを、『詠科の一撃だと思えば痛くもかゆくもない』などと言い切ったその時、彼の表情が常の冷めた表情とは裏腹に実に嬉しそうに(、、、、、)弛緩していたのを。

 まぁ百歩譲って、彼の嬉色に満ちた表情などほとんど見られないので、年相応に無邪気なその顔を見られたのは良しとする――だが悠凪にとって理解し難いのは、その顔になるのが決まって『詠科に殴られた後』だというその事実である。詠科と話した後()比較的和やかな雰囲気でいることが多い燈だが、こうまではっきり笑むのは詠科に殴られたその直後のみ。燈が十四年前に守護兵になってから毎日こうだ。そろそろ頭の細胞が死滅して、抜けてはいけない螺子(ねじ)が抜け始めているんじゃないか、とこれを目撃した当初霞柄は言っていたが。

 悠凪は次の祈の言葉に、思わず勢いよく首肯したくなった。

「……あんたにだけは気持ち悪い顔って言われたくない」

 詠科に殴られた後のきみの顔の方が、正直正視に堪えぬ。

 言葉にはしなかったが、祈よりも相当酷い言葉を心の中で密かに呟く悠凪だった。


■ □ ■


 燈も食堂を去り、朝食を食べ終えた生徒がぱらぱらと立ち上がる姿を横目に朝の栄養摂取をしていた悠凪は、不意に横の祈の手が止まっていることに気がついた。

 というか、彼女は悠凪が来てからというもの、一度も目の前の食事を口に運ぼうとしていないのであった。見れば一口も減っていない。む。目を眇めた悠凪に気がついたのだろう、祈はちらっとこちらを見上げると言い訳がましく弁解した。

「いやだって未知の場所で出された物食べるのってどうなのよ……詠科ちゃんが用意してくれたって言ったって、もももももしかしたらその身体に合わなくて毒になるとかって可能性だってあああああるでしょ、だからその、ね、あああもう食べるから待ってよ、心の準備をさせて頂戴!」

「……ぼくはまだ何も言っていないが」

「食べないのかって言いたげじゃない! お腹空いてるし食べるけど、……食べるけどっ」

 と言いつつ食指は動かない。異邦人なら無理かとも思っていたのだが、驚いたことに彼女はその右手にしっかりと箸を持って、目の前の料理をしげしげと眺めていた。彌島以外の民は箸を使えない者が多いと聞いていたが、どうも彼女はその限りでは無いらしい。むしろ慣れた様子で構えていて、持ち方にも一切の乱れがなく綺麗だ。なんだか多少、意外である。

 悠凪は盆に乗った彼女の朝食を見た。内容は詠科が食べていた物と同じだし、悠凪からすれば何を警戒する要素があるのか分からない。汁物、煮物、玄米飯の三点はここ彌島では至って一般的であるし、特に毒々しい色合いをしているわけでもない、至って地味な青菜と茶色の取り合わせしかないほど簡素なものなのだが……もしや彼女の故郷ではこういった類の食物は扱われていなかったのか、と思い至ったところで、だが祈は予想を裏切る反応をした。

「……ていうかなんで和食が異世界にあんのよおかしいでしょ……何のご都合主義なの、よくある世界観すぎる……この分ならジェットコースターとかあるんじゃないの……誰か世界観考えようよちゃんと……」

「……む? わしょく……じぇっとこーすたー……?」

「あー、いや、ジェットコースターは気にしなくていいわ。えっとね、和食ってのはつまり……こういう料理の事なんだけど。ていうか箸もなんであんのよ!? ここは普通スプーンとかフォークとか出てくる感じの純ヨーロッパ系ご飯じゃないの――ってあぁ、まず名前が日本人っぽいんだった……」

「……」

 何が何だかさっぱり分からず悠凪が目を白黒させる。呻くような彼女の声に周囲の生徒がぎょっとした視線を向けてくるのだが、それよりも目の前の料理についての疑問の方が先決のようで、祈は小難しい顔をして料理を睨みつけている。どうも言葉の内容を察するに彼女の故郷にもこういった料理や箸があったらしいが、……だがそれでどうして頭を悩ませる必要があるのだろう? 見慣れた物であるなら、それは幸運と思うべきではなかろうか。異文化過ぎる物に接するよりは余程ましなのでは? そう疑問を口にしかけたところで、悠凪は不意に口を噤んだ。

 それは、前方から祈の疑問に答える様な声が飛んできたからである。

「んー、まぁ古代文献の中には、君の故国とこの世界には懸け橋がある――なんて一文もあるしねぇ。もしかしたらそっちの文化がこっちに流入したのかも……まぁその逆もしかりだけど、さ。へぇ、食事に共通点か、面白いわね」

 言葉通り面白がるような軽い口調で言いながら、祈の対面に腰かけたのは霞柄(かすみえ)だった。長い横髪が鬱陶しかったのか、流れる様な動作で髪を耳にかけた彼女は、盆を卓上に置くなり紙片と筆記具を取り出して、にこにこ笑顔で祈を見つめた。

「あ、えっと……霞柄、さん」

「あら、名前覚えててくれたの? そりゃ嬉しいわぁ。私の名前覚えづらいってよく言われんのよねー、失礼しちゃうわよほんと」

 呆れた仕草で肩をすくめる霞柄だが、言わせてもらうと彼女の名前はこの彌島において決して覚えづらい分類には入らない。というかむしろ覚えやすい分類だ。ゆえに、別に誰からも「覚えづらい」なんて言われたことはないだろうと悠凪は推測している。霞柄は、会話を円滑に進める為の虚言が上手い女であった。喩え知らないことでも知ったように語れる彼女のその性質は、ある意味彼女の兵士としての性質がよく現れた結果でもあるのだけれど、事実を知っている者とそうでない者とが居合わせての会話ではなかなかに気まずいものがある。霞柄は事実を知る第三者を気遣うような性格ではないため、こういった場合、悠凪は居心地が悪くとも沈黙を貫くことに決めていた。

「食文化の共通って言うのはかなり興味深い点ね。人間食べなきゃ生きてけないワケだけどさ、それぞれの生きている場所の気候や土壌、人口なんかで食べ物ってまるで違うから。遠く遠く遥か彼方の君の故郷の食べ物がここにもあるって言うんなら、やはりそこには何かしらの繋がりがあると見るべきでしょ」

「繋がり、ですか……?」

「そ。さっきの、其方と此方を繋ぐ懸け橋って話はまぁ嘘っぱちにしても、もしかしたら記録に残ってないだけで君みたいな異邦人が大昔にはいたのかもしれないし――あるいは、こっちの人間が向こうに行ってたのかもしれない、っていうただの可能性のお話。もしそうだったにせよ確かめる方法はあんまり無さそうだから証明はできないけどねー、なにせ数百年、数千年経っちゃってるだろうし」

 その異邦人が造った遺跡でも残ってれば話は別だけど。

 そう付け足して、霞柄はひらひら片手を振った。彼女は朝にそこそこ強いからか、詠科のように眠たげに目を細めることはないが、少しばかりだるそうに肩を回し始めた。ぱき、ぱき、と小気味いい音が微かに聞こえて霞柄は「……やだ年かしら」と消え入りそうな声で呟いた。実際、肉体的に加齢することはないのでそんなことは有り得ないのだが、女性からすると気になる問題、らしい。

 祈はそんな霞柄をしばし呆気にとられたような顔で見つめた後、急に我に返って、それから早口に問うた。

「あ、あの……霞柄さんって歴史、詳しいんですね。ここじゃそれって普通なんですか?」

「いーえ、普通って訳じゃないわよ? 例えばなぎーはまるで歴史に詳しくないもの。そこそこ座学で点数は取ってたけど、君、古代史はまるで頭に入ってないでしょ。せいぜい失黎明期(しつれいめいき)に入ってからじゃなきゃ覚えてないんじゃない?」

「……」

 あっさり言い当てられて悠凪は口を引き結んだ。失黎明期――彌島の起源から第一次変革時代を超えた後の、およそ二千年にわたる黎明の時代が幕を閉じた、現代から三百年ほど前の時代を指す言葉だ。学都《羅季》はあまり座学の授業に積極的ではないが、戦争の歴史を辿るという意味で重要視されるのはこの失黎明期時代からの為、それ以前は影が薄い。ゆえに悠凪の記憶も薄かったのである。己の不勉強を責められたような気分になったが、霞柄はこちらを気にした様子もなさげに続ける。

「私はこう見えても歴史座学の特務教員だからねぇ。歴史は詳しくって当たり前よ」

「……特務教員……? えっと、つまり、歴史の先生ってことで?」

「まぁ間違ってないわ。特務教員っていうのは、敵襲もないのに兵士やってるだけじゃ宝の持ち腐れだし、せっかく得意分野があるのにそれを生徒に教えないってのも勿体ない話だってことで、この学都《羅季》で採用されてる制度のこと。私たち守護兵が教師の代わりをするの」

「へぇー! ……え? じゃあ、」

 祈がこちらに視線を向けた。その目には「こいつも?」という言葉がでかでかと書かれている。一切遠慮のないその視線に霞柄は苦笑しつつも、「そうよ」と短く肯定した。

「私が歴史座学教員で、なぎーは魔導機関の管理責任者。あかりんは初等科指導員、兼、狙撃科教員。よみちゃんは初等科のお世話番」

「残り二名、まだきみが顔を合わせていないと思われる残留兵が在籍する。また八名の朋輩は西の戦場に遠征に出ているため、実際に顔を見るのは一か月は先のことになると思われるが、在籍している。彼らもまたそれぞれ特務教員としての任を帯びている」

「……えっと、つまり特別指導の先生ってことだね……? へぇ……先生もやって兵士もやるなんて、大変ですねぇ……」

 キャパオーバーで鬱になりそうな仕事量だなぁ、と彼女は感心したように呟いた。きゃぱおーばー。またしても悠凪たちの知らない言葉だ。地球と彌島とでは、食文化に共通点はあれど言語文化には差異が生じているらしい。はて、きゃぱおーばーとはどういう意味の言葉なのだろうと思考を巡らせ掛けた直後、霞柄はからっと笑ってとんでもないことを言い出した。

「慣れればなんてことないわよー? ほら、上手く人に押し付けるやり方さえ学べば、の話だけど! 私なんて仕事の大半他の奴に投げちゃってるし! 案外手抜きできるから楽な職場よ、」

「……霞柄、それ以上の発言は虚言であっても公共の場では控えるべきでは」

「あれ? あ、あらあら危ない、ついうっかり本音が。職務規定違反になっちゃうとこだったわ。ありがとなぎー」

 本音だった。

 もういっそ職務規定違反で謹慎でも喰らえばいいのでは。

 複雑な心境でひとつ頷いた悠凪はため息を押し殺して食事を再開した。箸で玄米飯を摘み口に運ぶ。朝の巡回はそれほど体力を使うわけではないものの、良い運動にはなるため腹はちょうどいい具合に空いている。自分がこの調子では蓮はどうなることかと思いながら、少し弾力のあるそれを咀嚼したところで――悠凪は危うく噎せ返りそうになった。

 理由は単純。

 祈が唐突に霞柄に問うたからだ。

「ところで霞柄さん、質問なんですけど……燈くんって詠科ちゃんに惚れてるんですか?」

「ん? ああ、そうなんじゃない?」

 しかもあっさり肯定した。

 至極どうでもよさそうに。

 気管に物が詰まりそうになって咳き込みかけた悠凪をよそに、祈の瞳がきらりと輝く。面白い話題を見つけた、と言わんばかりの表情に、悠凪はこの後の話の肴が燈にとっては最悪の物になるであろうことを察して、また心の中で黙祷を捧げることしか彼には出来なかった。

「恋ですか! ラブなんですね!? あ、あたしその手の話題大好きなんですっ!」

「らぶってのはよくわかんないけど、まぁ色恋沙汰なのは確かじゃなぁい? あかりんって何かとよみちゃんに過保護だし、殴られた後気色悪い顔してるし。あれは構ってほしいってことなのかしら。お子様よねぇ」

「ま、まさかこんなところで恋愛の噂を聞けるなんて……! あの、もうちょっと詳しく色々教えてもらってもいいですか!?」

 祈の興奮に比して上がっていく声の大きさに気付いたのだろう、いつの間にか周囲の女子生徒は聞き耳を立てる動作に入っていた。そういえば、いつだか同僚の一人が話していた覚えがある――『女子は年齢など関係無しに色恋沙汰の話題が好きなのだ』とか、何とか。

 自分がここにいるのは場違いだと悠凪は勘づいて、手早く料理をかきこんでから席を立った。その間にも霞柄と祈とは実に生き生きした表情で何事か語り合っている。……悠凪には霞柄の生き生きしている理由は、ただ単に燈への嫌がらせの種を植え付けられていることに対する底意地悪い喜びの発露にしか見えなかったが、まぁ当人同士が良いのなら良い……の、だろうか。

 燈を不憫に思う気持ちは、確かに悠凪の中にあった。

 だが燈の詠科に対する気持ちを理解することは、この時点の悠凪では不可能なことだった。

 彼は――恋情も愛情も、理解できない少年なのだった。

 

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