第四話 二人の残留女性兵
「君は馬鹿なのかなぁ悠凪?」
惚れ惚れするほど満面の笑顔。丁寧にしつらえられたと一目でわかる背もたれの豪奢な木椅子に腰かけていた身体を少しばかり浮かせて向きを変え、正面にあった机ではなく悠凪たちの立つ扉に視線を固定して、彼女は一切の曇りもない笑顔でそう言った。
さらりと彼女の動きに合わせて長い紫赤の髪が揺れる。たったそれだけの動作でさえ、ここにいるのが悠凪や守護兵でも、ましてや羅季の生徒でもない一般的な少年であったなら目を奪われるような雰囲気を纏っていた。白磁のように白い肌によく映えるその髪色は、羅季においては――最近においてはあまり見ない珍しい色だ。外見年齢は悠凪の三つ上にあたる十九歳であるはずの彼女だが、守護兵の規定上着に膝下丈の裳を履いていて、どう贔屓目に見ても二十歳過ぎの妙齢の女にしか見えない容姿をしていた(無論老けているという意味では無い。大人びている、という意味だ)。幼さは既に微塵もなく、その表情や仕草には自堕落にして抗いがたい大人の魅力が秘められている。美人、そう言って過言でない彼女に、悠凪の後ろに立っていた祈はすっかり気圧された模様であった。
彼女は初対面の人間の心を奪うのが得意なのだ。その妖艶な容姿や振る舞いで同性からは憧憬と嫉妬を、異性からは熱情を引き出してしまう。あっさりと誰であれ手玉に取れてしまうその手練手管は同僚の間でも恐れられている技術――いや、才能だった。
……とはいえど、悠凪は彼女と既に二十年も仕事をしている同僚である。今更その色香にくらっと来たりすることなどなかった――そもそも悠凪に「色香に惑う」ことなど有り得ないのだけれど、このことは悠凪に限らない。先も述べた通り、守護兵も学生も、彼女を少しでも知る者なら誰も、彼女をただの美女扱いなどしない。
その欠片の容赦もない辛辣な性格を知る者ならば。
「いやいやいやいや、地球とかそんなお伽噺をなに真に受けてるのなぎー? 君は確かに学生時代、あまりに素直すぎるきらいはあったような気がするけど、それは私もよく知ってると思うけどさァ――にしたってこれはないでしょ、これは。ン? この仕事辞めたくなったにせよもっと手はあったんじゃない? お望みなら今ここで首を圧し折ってあげましょうか?」
花が咲いたような笑顔で彼女――守護兵肆番を冠する古参兵、霞柄は毒を吐いた。眉は吊りあがっていないし切れ長の瞳のまなじりも剣呑さは浮かべていない、突然吐き出されたその暴言さえなければ文句のつけようがない完璧な笑顔である。だが悠凪には、彼女は激怒していることがひしひしと伝わってきた。
唯一分かりやすく、霞柄の目はまったく笑っていなかったのである。
「……霞柄。ぼくはこの仕事を辞める気などないし、地球がお伽噺であるという思想にも一切異論はない。この侵入者は我々に保護を求めている――ここまで連れてきたのはぼくと燈では手に余ると判断したからだ。あいにくと文機は顧問会議の最中であるゆえ、貴官に判断を委ねようという結論に至ったのみ」
にこにこと表情を崩さない霞柄に、やはり悠凪も一切表情を変えずに冷静に述べてみせた。その態度に更に霞柄の眼差しが厳しくなるが、悠凪は涼しい顔で言ってのける。
「無論、危険があると見なせば切り捨てる事に異議はない。ぼくはあくまでも侵入者の身柄を確認することにより、今後襲来する可能性のある脅威を排除するための情報を得ようとしているまでである」
「……なぎーってば屁理屈よぉそれ。地球人かどうかなんて確かめなくたって分かるでしょ、嘘っぱちだって」
「ならばそう思ってもらってもよい。どちらにせよ、ひとつ解析を頼みたいのだ。それさえ済めば恐らく事実は明らかになる」
「解析ィ?」
悠凪の言葉にたったの一瞬で笑顔をかき消し「うわ面倒くさい」と読み取れる表情になった霞柄は、胡乱な目つきで祈を眺めた。相変わらず霞柄の美貌に気を取られていたのか、もしくはその容姿からは想像もつかない毒舌に度肝を抜かれたのか、こちらの話をまともに聞いていなかったらしい彼女と霞柄の視線が交錯する。紫水晶に喩えられることもある輝きを放つ霞柄の猜疑に満ちた視線を受けても、祈は一切目を逸らそうとはしなかった。燈とのやり取りの際も思ったが、肝の据わった異邦人である。
数秒間ざっと祈の身体に目を走らせた霞柄は、はぁ、と聞かせる為のため息をついて肩をすくめた。投げやりにすら聞こえた次の言葉には、もう怒気は感じられなかった。
「解析。解析ね。その首飾りのことでいいの?」
「ああ、そうだ。ぼくには解析できない術式が三つと呪術がひとつ。詳細を確認してもらいたい」
呪術という言葉に霞柄の目が一瞬だけ猫のように細められたように悠凪には見えたが、それは気のせいだったのかもしれない。面倒なこと持ってこないでほしかったなぁ、と嘯きながら、霞柄はひょいと手を差し出した。首飾りを寄越せ、という暗黙の合図である。
先程燈に対してもそうだったように拒むかと思いきや、祈は少し戸惑った後に大人しく首飾りに手をかけた。少々意外に思った悠凪の心中を見透かしたわけではあるまいが、小声で祈が弁解の言葉を口にする。
「……また銃向けられるのはヤだし」
不本意そうに唇を尖らせて、まるで子どもが拗ねたような表情になる祈。悠凪はただ目を細めた。そういう割には銃口を突き付けられても挑発的な言動をしてみせたのはどこの誰だ、と言ってやりたくなったのだが、それは現在の本題とは逸れた話題である。事を滞りなく進めることを主義とする悠凪は黙したままでいることにした。
首飾りを受け取った霞柄はそれを手にした途端、ほー、と感嘆の声を上げた。
「なかなかよく出来てんじゃない、コレ。よくある魔導道具に見せかけてあるけど、本来もっと希少価値の高い物だわ」
「希少価値?」
「そ。これは占星術の道具の一種よ」
「占星術……?」
霞柄は首飾りの組紐をつまみ上げて自分の眼前にぶら下げながら、悠凪の訝しげな呟きに首肯した。それから不意に面白がるような笑みを浮かべ、首飾りを卓上に置いて拡大鏡で観察しながら解説する。
「正確に言うと、魔法細工のある一門が作ったと言われている占星術の道具の一種、ってこと。普通の占星術師はこんなもの使わないし、魔法細工師も作ったりしないわ。なぎーも聞いたことない? 西の《神詠み》、陶字の噂」
「西の神詠み……? いや、知らない。占星術などぼくは興味がない」
「占星術に詳しくなくても有名なんだけどねぇ……まぁいいや、うんとね、二十六年前に行方不明になった占い師がいるのよ。占いの的中率は驚異的なことに百発百中、一度も占いを外したことがない。その占い師は《西の神詠み》と呼ばれるくらいに高名でね、いなくなった当時は大騒ぎになったのよ? ……あ、でもそっか、二十六年前じゃまだ君は守護兵じゃないわね。あんな田舎生まれじゃ知らなくても当然か。で、その占星術師、陶字の奥さんが魔法細工師の家系の人だったんだけど、その人が旦那の為に作った、奥さんと旦那しか作り方を知らない幻の占星術道具があるの。これはそれと同じ製法だわ――込められた魔力の質は違うみたいだけど」
霞柄の口調は、占い師とその妻しか知らないはずの製法をまるで知ったように語っていることには敢えて触れず、悠凪は問い返した。
「魔力の質が違う?」
「うん。本物の占星術道具には占星術魔術、つまりは〈運命詠み〉を基盤とした派生魔術が組み込まれていたんだけど、これは違うわ。基盤が解除魔術〈泡回帰〉に成り変ってる……占いの道具じゃなく、何かを解除する道具として役割を与えられている。つまりこれ自体に占星術を手助けする効能はないけど、逆に何かを解除する効能はあるってコトよ。その子の話が本当なら、解除術式と一緒に組み込まれた転移術式だの呪術だのはオマケね」
「……付属品で呪術とは物騒だな」
と言葉を返したものの、それに対する応えはない。霞柄はこちらの反応など知らないと言わんばかりに首飾りの検分を始めていたのだ。その目には爛々と輝く好奇心の光。
悠凪よりも魔力の扱いに長け、また情報解析術式に手慣れている霞柄であれば、恐らく首飾りの謎の術式について答えを出せるだろうと踏んで首飾りを持ち込んだのだが、どうやらそれは正解だったようだ。同僚の半分が西の遠征に出ている現在、残留した同僚でこの手の技術に詳しいのは霞柄ひとりである。悠凪はざっと魔術の種類のみを解析したので五秒で済んだが、霞柄は詳細まで解析するはずなので所要時間は約二分程度だ。
と、ここで、それまで押し黙っていた祈に気まぐれに目を向けた悠凪は、忙しなく視線を泳がせながら身体を縮こまらせている祈が不安そうに目を瞬いては室内を見渡していることに気がついた。銃口の前で見せた強気な態度はもうどこにも見受けられず、未知の場所とこれから起こることにただ怯えているように見える。
妙な娘だ、と悠凪は思った。場面によってまるで言動がちぐはぐなのだ。ごく普通の一般人めいた立ち振る舞いを見せたかと思えば、やけに馴れ馴れしくなったり、或いは好戦的な様子を見せたり。多重人格という言葉は彌島において形骸化していたが、もしかするとそういった類の病でも患っているのではないか、と思ってしまうほどに言動に一貫性がなく矛盾に満ちている。もし万が一にも彼女の素性が地球であるとするならば、地球人は皆こんな風なのだろうか。いや全員が全員こうも奇妙な人格を持つならば、それはまず社会を築くことすら困難かもしれない。となれば彼女はやはり故郷でも特殊な立ち位置にあったのか。
あまり意味のない憶測を巡らせ掛けたところで、不意に声がした。
《ねぇ、あの、あれ何……?》
――の、だが。
少女の発した言葉を聞き取り、意味を理解することは悠凪には出来なかった。
なぜなら彼女の言葉は初対面のそのとき発された謎の言語であったからである。
悠凪は突然の言語の変化に驚いて目を瞬いた。祈は悠凪の驚愕に気が付いていないのか、霞柄が首飾りを検分しているその卓上付近を指差したまま、こちらを伺っている。どうやらこの様子では自分の発する言葉が切り替わっていることに気が付いていないようで、それが一層悠凪を困惑させた。たじろいだまま何も言わない悠凪に不満を覚えたのか、祈はもう一度口を開く。
《だから、あのメモの山はなんだって言ってるんだけど! 尋常じゃない量よあれ。何、あの人メモ魔なの? いくらなんでもメモしすぎじゃない?》
やはり意味が理解できなかった。
恐らくは卓上付近の何かを指して質問をしているのだろうが、分かるのはその語調が多少苛立ったということだけ。正確に何を指しているのかは分からない。悠凪はとりあえず視線を霞柄の作業する机へと向け、その周囲を眺めた。
もう二十年も一緒にいる同僚の机の周辺で妙なもの。悠凪の感性に照らし合わせて誰かにその物体の正体を確かめたくなるものは、彼が思いつく限りたったひとつ――机周辺の至るところに散乱した、大量の紙片のみだ。
あるものは壁に縫いとめられ、あるものは貼り付けられてはいるが、全て掌大の紙片で一面をびっしりと文字が覆っている。そしてそれが机を中心として、まるで呪符か何かのように散らばっているのだ。二十年前から紙片は減るどころか増える一方であり、悠凪が初めてこの光景を見たときよりも不気味さは倍増ししている。ああ、確かに初見の人間が見ればあまりに異様な光景だ。
無論この光景には霞柄の特殊な事情が絡むきちんとした理由があり、それを説明することは悠凪にとって難しいことではない。だがそれよりもまず、彼には確認すべきことがあった。
念のため一言一言を区切るように気を使いながら、悠凪は祈に尋ねた。
「君の言葉が聞き取れない。気付いているか? それは、どこの言語だ」
《……え?》
はっとしたように口元を押さえた祈は悠凪の言葉を聞きとることができたようだった。だが祈の小さな驚きの声ですら、悠凪の知る発音ではない不明瞭な響きに変化している。祈は顔を青くしてもう一度口を開いて何事か言ったようだったが、やはり悠凪に理解できる言葉ではなく。
――悠凪の言葉は祈に通じている。だが祈の言葉はついさっきまで通じていたのに、今は通じない。
この奇妙な状況に悠凪の眉間の皺は深まり、比例するように祈の表情が絶望的なものになっていく。言葉の通じない恐怖というものは悠凪は体験したことがなかったし、想像しようとも思わなかったが、祈にとってこれが致命的な事項であり早急に解決すべき緊急事態であることは察せられた。
悠凪は血の気を失くした祈が大きく口を開けたところで片手を上げ、それを制した。思考は回転速度を上げる。言葉が通じたり通じなくなったりすることには何かしらの理由が存在するはずだ。通じていた時とそうでない時の差異は何か。恐らくはそれがこの状況を打破する手掛かりに――、
「はいはい慌てないの、ったく、いちいち怯えないでよ面倒ねぇ」
悠凪が答えを見つけるよりも早く、霞柄の声。そしてほぼ同時に祈に首飾りが投げ渡された。突然飛んできた首飾りを危なげに受け取った祈に、霞柄はひらひらと手を振りながらきっぱり言った。
「君――えっと、祈ちゃんだっけ? それは手放さないほうが賢明よ。それがないと君はこっちの人間とやり取りできなくなるから」
「へ……? あの、どういう意味、ですか」
「言葉通りの意味よ? その首飾りには翻訳術式が組み込まれてる。君の言葉をこちらの言葉に自動翻訳してくれる優れ物の術式ね――こんなのあるなんて聞いたことないけど」
「翻訳術式……? なにそれ、……ってアレ!? こっ言葉が解るんですか!?」
自分の疑問に霞柄が自然に受け答えしたことに驚愕し、祈が慌てて尋ね返せば、霞柄はその声量が不愉快だったらしく目を細めた後、結局文句は言わずに苦く笑う。
「今言ったでしょ、翻訳術式よ。こっちからすると君がようやくこっちの言葉を喋ってくれたって感じなんだけどさ」
状況理解が追い付かない、と言いたげに目を白黒させる祈と、その横で顔には出さなかったが困惑しきっていた悠凪とを見比べ、霞柄は気だるそうに首飾りを指差した。灰色と水色の混ざり合った奇妙なその色が部屋の明かりに反射して鈍く輝く様は、相も変わらず悠凪の中の不安を揺り起こすような気持ちにさせた。その首飾りを見ていると胸がざわついた。理由など知りようもないが、あまり見ていたくないなと思った。
「解析の結果、その首飾りに仕掛けられていた三つの未知の術式と呪術の詳細が判明したわ。未知の術式のひとつは、今言ったように翻訳術式。祈ちゃんの言葉を彌島の言葉に置き換えて発声する魔術ね。これを持っていないと祈ちゃんの言葉は私たちには聞き取れないってワケよ」
なるほど。合点がいった。言葉が通じる時と通じない時との差異は、首飾りがあるかないかだったのだ。そうすれば初対面の際言葉が通じなかった理由、もとい最初彼女の声が出なかった理由も、悠凪には芋づる式に理解できた。
魔術は発動するためにある条件を課されることがあり、その条件を満たしていない場合は当然魔術が発動しない。だがこの際稀に、発動条件を課された魔術が作用する部位に悪影響を及ぼし、短時間ながらその部位の働きを阻害することがある。祈の首飾りの翻訳術式は、恐らくだが『彌島の人間を認識する』と発動するという発動条件が課せられていた――そして翻訳術式はその魔術の特性からして、彼女の声帯に作用する魔術だ。だから悠凪を彌島の人間であると翻訳魔術が『認識』するまで、彼女の声帯は悪影響の波を受けて声を発せられなかった。直後に彼女が向こうの言葉を発せられたのは、その瞬間が悠凪を『認識』するまでの言わば空白の時間で、翻訳術式の悪影響からは解放されたが魔術自体は作用していなかったから。――そして悠凪が彼女の前に立った時に発せられた眩い閃光は、悠凪を彌島の人間であると認識した証拠。だからその直後には、彼女の言葉は彌島の言葉に置き換わっていた。
霞柄の言う通り翻訳術式なるものは悠凪も知らなかったが、そう考えれば辻褄は合う。
「で、もうひとつはこの首飾りに込められた魔術の基盤、〈泡回帰〉の解除魔法。これが解除する対象は何かに掛けられた抑制術式であることは分かったんだけど、その何かに至る深部までは解析できなかった。……ちょっとあまりに難易度高すぎる魔術だし複雑怪奇にも程があってさ、こりゃ私にゃ無理よ。多分小姫でも無理じゃないかな。ただし危険がないのは間違いない」
「そうか。小姫でも不可能、か」
今はいない拾伍番兵、つまるところ守護兵でも最も新米であり、そして守護兵の中で最も魔術に秀でた後輩でさえ不可能だ、という言葉に多少驚きながら悠凪は繰り返した。表情は一切変わらなかったが、霞柄は彼の心の僅かな機微を察したらしく念を押すように断言する。
「うん、ひめちゃんじゃ無理ね。ひめちゃんより格上の魔術使いとなると結構数は限られてくるけど詮索は後にして、もうひとつはまぁ、説明がめんどいから省くけど特に危険はなし……呪術もただの自爆用。何のために持たされてるのコレ、祈ちゃんドカーンで終わるだけで何の騒ぎも起こせないわよ……で、なぎー、私は前言を撤回することになりそうだわ」
「……? なんだ、霞柄」
「うん。結論から言うとね、この子正真正銘異界人だわ」
拍子抜けするほどあっさりと、霞柄は断定した。
基本的に曖昧な物言いを好まない彼女の断言に目を白黒させる(表面上はそう驚いているようには見えなかったらしいが悠凪としては最大級の驚愕である)。悠凪の頭にあった祈の正体に関するいくつかの可能性の内、最も突飛なものが肯定された形となったのだ、驚かない方が無理があるだろう。
一方祈もまさか信じてもらえるとは思っていなかったのか、戸惑うように目を泳がせた。
「この首飾りに込められた魔術、全部祈ちゃん用に術式をいじくりまわしてあるみたいなんだけど……いくつか私も知らない物質が混入してるわ。こっちじゃ存在できないような、有り得ない構造の物ばっか! それにここまで改造されてると、肉体組織の構造上この世界の住人には魔術が正常に適応されなくなっちゃうの。座標固定も転移術式も全部途中でぶっ壊れて、身体がバラバラになってるはず……だけど祈ちゃんは五体満足でしょ?」
「……そうだが」
「にわかには信じ難い話だけどね。でもま、こうして解析結果が出ちゃったんだからそうなんでしょ」
先程散々その可能性を否定していたことなど忘れたかのように涼しい顔で霞柄はそう言い放ち、それから祈に綺麗な笑顔を向けた。
それは表面上素晴らしい笑顔だったが、どこか含みのある妖しい笑顔だった。
「祈ちゃん。ようこそ、我らが学都《羅季》へ」
■ □ ■
「……こんなあっさり、いいのかなぁ」
霞柄の研究室を出てしばらく歩いたところで、不意に祈はそう呟いた。霞柄の判断に基づき既に縄を解かれていた彼女だが、当然未知の場所なので勝手が分からず、ちょこちょこと悠凪の後ろをついてきていた最中のことである。振り返るほどのことでもなかろうと前を向いたまま「なぜそう思う」と問えば、祈は困惑を隠し切れない調子で言う。
「だって異界人だよ……? 普通有り得ないでしょ、そんなの。しかも地球ってここじゃお伽噺扱いみたいだし……なんかこう、もっと怪しまれて、そのあと何かの実験の実験体になっちゃうのかと思ってたんだよねぇ。なのにこうも簡単に解放されちゃっていいのかな」
「確かにきみが実験の被験者に成り得る可能性はあるが、それを決めるのは霞柄でもぼくでもない。それにきみの身柄は自由になったのではなく、捕虜でなくなったというだけだ。きみの処分を最終的に決定するのは壱番兵である」
「壱番……?」
怪訝そうに尋ねてくる彼女に、悠凪は眉ひとつ動かさず応じた。
「我々はこの学都《羅季》を守護する任務を与えられた兵士である。総数は十四名。その中で最古参、かつ最も実力に秀でた壱番兵が、こういった例の対処に当たるしきたりだ。……現在彼女は西の遠征へ出ている為、しばらくの間きみの身柄に関する最終決定は保留となると思われる。壱番兵以外にきみの処遇を決める力は無い」
「へ、へぇ……、……ん? えっ? ……彼女?」
「うむ。学都守護兵壱番兵は名を珠希という。生物学的には女性に区分されるはずだが」
「……女の人なのに兵士なの?」
「きみが先程会った霞柄も肆番兵だが? 守護兵選定に性差は加味されぬ。実力のあるものが採用されるだけだ。現状、守護兵には五名の女性兵士が配属されている」
淡々と告げると、少々呆気にとられたように立ち尽くしていた祈は依然驚きを隠す訳でもなく「女性進出進んでるんだ……」とよく分からないことを言う。もしかして彼女の世界には、大昔に廃れた男尊女卑の傾向でもあったのだろうか? だとすれば相当遅れている、と悠凪は密かに思う。少なくとも兵士としての実力において性差は何の差も及ぼさないというのが、軍事国家たる彌島の数百年前からの常識だ。喩え女性であろうと、男性に勝つ術など今の時代はどこにだって転がっているのだから。
すたすたすたすた。慣れた仕草で廊下を歩いて行く悠凪の後ろを、歩幅の差のせいで半ば必死に追いかけて早歩きする祈からまた質問が飛んできた。
「ねっねぇ、それで、この後私どうなるの? ていうか今どこに向かってるの? いやもっと言うとこの場所について、私なんにも知らないんだけど……!」
「恐らくきみは今後は我々の監視下に置かれることになると考えられる――捕虜に限りなく近い客人とでも言うべきか。期間は最終処分が下されるまでの間だ。ある程度自由行動が許可されるが、守護兵の誰かと行動を共にしてもらうことになる。この間、ひとりでの出歩きはどのような理由であれ認められないので決して行わぬように」
悠凪は長い注意事項を、やはりこなれた様子でさらさらと口にする。それは彼が守護兵の任務についてから――だけでなく、それ以前の学生時代から聞いていた決まり文句だったからだ。どころか彼自身も、現在では同僚である守護兵にこれを告げられてこの《羅季》へとやってきた口なので相当に馴染み深く、もう条件反射のように言葉が出てくるようになっていた。諳んじるのは容易い。
「そして現在向かっているのは初等科だ。同僚にきみのことを報告に向かう」
「……しょ、初等科……? えっと、あれのこと? 私立の学校とかにある小中一貫校の小学校のこと?」
疑問の台詞の八割は悠凪にとって聞き覚えのない単語だった。言語の端々にあらわれているが、向こうとこちらとでは文化面において相応の違いがあるらしい。祈の名乗った「みょうじ」も、この彌島では馴染みのない習慣だ。異文化の人間に接する機会の少ない悠凪は多少戸惑いながら(ただし一切顔には出ていない)問い返した。
「……しりつ、しょうちゅういっかんこう、しょうがっこう……とは?」
「あっそうか分かんないんだっけ……あーこれ不便だなぁ」
それはこちらの台詞であると返すと、祈が顔をしかめる気配がした。だが悠凪たち彌島の人間からすれば異質なのは祈ただ一人であるし、向こうがこちらに合わせるのはともかくこちらが祈に合わせる必要などない。自分で説明しろ、という意味を込めてちらと後ろを振り返れば、祈は面倒くさそうにため息をついた。
「あっと、要はあれ、六歳くらいの子どもから十二歳くらいまでの子が勉強する場所かってこと。こっちだと小さい子が通う学校を小学校って呼ぶの。ちなみに私くらいのから二つ年上までは高等学校ってとこに通うのよ」
「……なるほど、学術施設のことか。ならばきみの言う事は正しい。初等科は齢四歳から十歳までの幼年児が収容されている学部である」
「四歳から!? へー……六歳でもちっちゃいのに四歳から勉強なんて大変ね、こっちの子。……あなたもそうなの?」
興味津津、と言った具合の祈の問いに悠凪は緩く首を横に振った。
「ぼくは違う。学都《羅季》に入学したのは十三歳である。よって、初等科課程は受けていない。白兵学部課程のみだ」
「……はくへい?」
「歩兵のことである。移動手段を自らに限定し戦闘を行う兵士を指す呼称だ」
「……せんとう? ……へいし?」
「……戦闘とは主に異国から襲来する侵略者との、」
「うぉいちょっと待ってストップストップ! あっ英語通じないんだっけ、いやあの、ちょっと待って!」
祈はなぜか慌てふためいた様子で制止の言葉を口にすると、ささっと悠凪の正面に回り込んだ。その顔にはアリアリと疑惑の色が浮かんでいる。焦燥感溢れるその行動に、悠凪は眉根を寄せて足を止めた。まさかこの異邦人は悠凪の説明が理解できておらず、あらゆる言葉の意味を一から解説しなければならないのだろうか? それほどまでにこちらと地球とでは文化に差があると……? だとするならば言語は通じても、その意図を正確に伝えるのは至難の業だ。骨が折れる作業になると簡単に予想した悠凪だが、祈が口にした言葉はまたしても彼の意表を突いた。
「まさかここ……、《羅季》って、戦争するの!? っていうか四歳の子戦ったりするの!? いやもっと言うと――あなたも戦うの!?」
「……何を当たり前のことを。この学都《羅季》は戦争徴用、及び国土防衛のための軍人を育成する施設であるゆえ、外部との戦闘行為は将来的に免れぬ。四歳で実戦に駆り出された例は今のところないが、最年少記録は六歳だ。そして先程述べたと思うがぼくは学都守護兵――兵士である。学都の防衛、あるいは生徒・住人の守護が職務。戦闘行為は当然のこと」
そう、ここは軍事施設だ。戦闘行為は訓練としてだけでなく、場合によっては実戦として、生徒たちが直接体験する場でもある。悠凪達からすれば「勉強」とは軍事行動に関する基本戦術知識や戦闘知識のことを指し示すことであり、民間の学術施設が行うような普遍的な座学は主軸に据えられていない。中にはそちらを学びたがる学生もいる為にそちら向きの学部も存在するが、戦闘を主とする他学部に比べれば圧倒的に数は少なく、また隆盛しているとは言い難い。唯一目立つのは魔導専門学部くらいだが、それも戦闘に応用する魔術を研究する学部であって戦う事が前提だ。
戦う事が前提であり当然の施設である。
戦闘行為と学都《羅季》は切っても切り離せない。
真顔で呆気なく、むしろ呆れたような響きさえ伴って祈の言葉を肯定した悠凪を、質問した本人であるはずの祈はぽかんとした表情で見上げた。信じられなさそうな驚愕に満ちた表情は目を合わせた数秒の間に苦虫を噛み潰したような顔になる。理解はしたが納得はしていない、そんな表情だった。そのままぼそりと聞き取れない程小声で何かを呟く。
「……軍事施設か……なるほど、じゃあ、ここが……そりゃ強いよね……」
「なんだ」
「いや別になんでも、こっちの話。そっかぁ、軍人さんの施設か」
悠凪は歩みを再開した。
祈を最初に尋問室に連行してから二時間と経っていないが、閑散としていた廊下は少しずつ人通りを増しつつある。悠凪の向かう初等科は広大な《羅季》の施設内では比較的小規模な部類に入るものの、初等科に常駐している守護兵の性質上、専門学部からわざわざやってくる学生も多い。専門学部棟から初等学部棟に移動した悠凪たちは、廊下を歩む生徒たちの関心の的になっていた。
悠凪は普段あまり初等科に顔を出さないから、初等科の生徒には珍しい人を見たと言う視線を向けられ、また上位学部の生徒には何でこんなところにという顔をされる。加えて今は、服装が明らかに民間人でない祈を伴っているのだ。目立たない方がおかしい。祈は向けられる好奇の目に多少居心地悪そうに身じろぎしたが、悠凪は涼しい顔をして通り過ぎた。
幾度か廊下を折れ、階段を下りたたところで、二人は広間に出た。
地上一階、初等科の各特別教室に繋がる、いわば初等科の玄関広間である。軍事施設ゆえ特段壮麗な見目をしているわけではないが、頭上三階分の天井をぶち抜いた吹き抜け構造になっていて、頭上の明かり取りから紅色の西日が射し込んでいた。時刻は既に夕刻に迫っていたが、全寮制のこの学都には完全下校時刻など存在しない。自主訓練に打ち込む生徒も、決して少なくはないのだ。
それまで狭い廊下続きだったせいか、吹き抜けに出た途端祈の表情がぱっと明るくなった。悠凪はそうとも思わないが、生徒や同僚曰く、この狭苦しい《羅季》という施設において広大な空間は――戦いの絡まない空間は、癒しにも似た感覚を与えてくれるのだという。威圧的な緊張を纏った特別教室や廊下とは違う、清浄に近い空気の漂うこういった類の場所は好きだと言う者が多かった。
悠凪は思わないが。
そもそも、戦闘に絡むぴりぴりした空気を不愉快だと思ったこともなかったし――癒しという感覚も、理解しがたいものがあるのだが。
理解できないのだけれど。
まぁ多くの生徒にとって必要らしいこの空間を、悠凪は極めて無感情に横切った。何を思うでもなく、冷たい顔をして、ただ横断する。悠凪にとってこの空間はただの通過点であってそれ以上でも以下でもないのだ。興味の範囲外であり、関心の範囲外であり、感情が動く範囲では無い。
その感覚は、平和ボケした生活を送ってきた人間にとっては普通でも、日夜戦塵にまみれ心身を疲弊させる兵士にとってあまり普通ではないということを、彼は未だ理解していなかった。
向かった先の特別教室は、初等学部棟の最南端に位置する円状の構造の部屋だった。
『魔術元素操作訓練室』と無機質な表札のぶら下がる部屋の扉を何度か右拳で叩く。こちらの来室を知らせるための行動であったが、直後室内からその音を掻き消すような、どぉんっという轟音が聞こえてきて背後の祈がびくりと肩をすくませた。
「えっ、何、今の」
当然放たれた困惑気味の言葉に悠凪は端的に返した。
「いつものことである」
「……いつものことなの?」
「ああ。日常茶飯事だ」
そんな日常イヤすぎる、という切実かつこの世界での常識をまるで無視した祈の台詞を聞かなかったことにして、悠凪は部屋の扉を開けた。
――直後、目と鼻の先を斧の切っ先が通過した。
ぶんっと凶悪な風切り音を残して悠凪の眼前を通過した刃は、その風圧で悠凪の前髪をぶわりと舞い上げて、そのまま一切減速せずに弧を描き遠ざかる。祈が漏らした「ひっ」という小さな悲鳴とほぼ同時、部屋の扉の目の前を軌道としたまま旋回していた刃は重苦しい音を立てて床に落着した。
この部屋の床はその使用用途上非常に丈夫な材質で造られていた筈だが、微かに凹んでいるように見えるのはきっと悠凪の幻覚では無い。それもまぁ、致し方ないことだろう――なにせこの部屋は七十年近く前からほぼ毎日、幾多の武器が振るわれた場所なのだから。
そして今日新たに床の耐久度を下げた一撃を放った得物である斧の持ち主は、こちらを見るなりぱち、と一度だけ瞬きをして、次に首を傾げた。
「……珍しい。悠凪が、こんなとこに、来るなんて」
祈がその姿を見て、「へ」と間抜けな声を上げた。
耳より下の位置で二つに結わえられた赤毛の混じる黒髪が、首を傾げた動作に伴いさらりと揺れた。悠凪の胸元より少し下程度にしかない低身長と、細く白いせいで過度に華奢に見える身体つき。その身にまとうのは燈と同じ、三本枠の入った短い上着と――膝上丈の、女子専用の真っ黒い䙱。
年齢はどう贔屓目に見ても十代前半。小柄さと細さのせいで事によっては幼年児たちと同じくらいに見えてしまう、十三歳の学都《羅季》陸番守護兵――詠科は、その矮躯にひどく似合わない彼女の身長の倍はあろう巨大な斧を携えて、眠そうに緋色の瞳を細めていた。
「どうし、たの……? お菓子、は、持って……ないよ……?」
「ぼくがきみに菓子を要求したことなどなかったと記憶しているが。……詠科。せめてもう少し奥で修練に励むべきではあるまいか? ここでは死者が出かねんぞ」
「……でも、悠凪、……避け、た」
「全員が全員ぼくだと思うな。もしも生徒だったらどうするのだ」
「それも……そう、か、な? ……ふわわぁ」
呑気に欠伸をひとつ漏らして詠科は踵を返した。ずりずりと重い音を立てて斧を床に引き摺っているが、実際然程重くもなさそうに彼女は振る舞う。実際問題、詠科からすればあの程度の重さは何てことないらしい。燈は年端もいかぬこの少女に膂力において敗北していることを悔しがっていたが、それぞれ特化した技術を持つ守護兵の中で単純かつ驚異的な長所を所持する彼女と狙撃主である自分とを比べる方が愚かしいと悠凪は思う。
詠科の特化点は『怪力』。大の大人も振り回せない鈍重な斧を、まるで羽毛同然というように軽々と振り回してしまう豪力の持ち主なのだ。
魔術で己の腕力や握力を強化することに長ける彼女と、狙撃兵の燈とでは、そもそも全く系統が違うのだ。燈本人も分かってはいるのだろうが、それでも男が力で女に負けるのは不甲斐なさを感じる点ではある、らしい。正直悠凪にはよく分からない気持ちだ。
詠科の周囲に目を向けると、そこには各々武器を手にした七歳程度の子どもたちが集まっていた。修練の際に着る白色の道着姿でこちらに目を向けた少年少女はみな、詠科同様魔術を使った身体強化を学ぶべく集まった子どもたちである。名前だけ聞くと身体強化など単純そうだが、使いこなすには案外に精密操作が必要で独学で習得するのは至難の業。そういうわけで詠科に教えを乞うているのだ。
――しかし以上の事情を知らない祈は、武器を手にした子どもと凶悪な輝きを放つ斧の存在感にすっかり気圧されてしまったようだった。ぴたっと石像か何かのように動きを止めて目を泳がせ、額には汗を浮かべている。銃よりもより即物的な危険を感じさせる刃物は、彼女の思考回路を止めるに十分すぎたらしい。
とりあえず武器を下げさせるべきかと口を開いたそのとき、移動を終えた詠科がくるりと振り返った。
「そ、れで。……その子の、紹介に、来たの?」
「ああ、そうだが」
「そう。さっき、燈、から……連絡、来たから、ふぁ……知ってる」
ぼそぼそ言い終えると詠科はおもむろに片手を上げ、それから緩慢にその手を下ろした。武器を下げろ、という意味の号令だ。途端即座に子どもたちは武器を収め、それを見届けた詠科は満足そうに薄く笑んだ。何をするにものんびりしていて、急ぐと言う言葉を知らないかのような詠科は「笑む」という動作ですらも緩く遅い。せっかちな者からすると苛立ちすら感じかねない鈍間さで、詠科は祈に目を向けた。
「はじめ、まして。……詠科、です。多分しばらく、あなたの、面倒を……見る。なんでも、分からないこと、聞いて、ね」
「えっ!? あ、うん、えっと、祈です! よよよよろしく詠科ちゃん……?」
困惑から未だに立ち直れないままではあったが慌て気味に祈が頭を下げると、詠科はまた欠伸をした。彼女は常に眠そうにしている。それはやはり特殊な理由あってのことだったが、のんびりした仕草と欠伸とは何となく日向ぼっこをする子猫を連想させるところがあった。……その攻撃力を鑑みると山猫というべきかも知れなかったが。
祈を詠科の元に連れてきたのは、現状残っている守護兵の中で一番まともで、祈の面倒を見られそうな人材が彼女しかいないからだった。五人の女性守護兵のうち三人は西の遠征へ出ていて、残ったのは霞柄と詠科。だが霞柄は基本的に人の面倒を見るような性格ではないし、面倒くさがって何もしないに決まっている。男性守護兵が面倒を見るのはまずい気がした。よって、普段から(子ども相手とはいえ)人の面倒を見るのに慣れている彼女に頼もうと思っていたのである。どうやら燈も同じことを考えたのか、一足先に連絡が入れられていたようだ。
もはや守護兵の間では、霞柄に誰かの身柄を預ける事の危険性が認知されているのだった。
……まぁ詠科ならば大丈夫だろう、と結論を出したところで、不意に思考の波に沈んでいた悠凪は我に帰る。女性陣二人を見れば、どうやら斧を担ぎ上げ詠科が握手するべく手を開けようとしたとき、持ち上げた斧の刃先が祈にかすったらしい。顔を真っ青にして短い悲鳴を上げた祈に、「あ、……ごめ、ん?」と疑問形で謝罪する詠科。ただし懲りた様子は無い。
「……」
……本当に大丈夫だろうか。思わず片眉が上がってしまったのは致し方ないことだろう。