序 或る冬色の少女の失敗
「っは、ちょ、それは無いと思うんだけどッ」
少女は半ば悲鳴に近い呻き声を上げながら疾駆していた。
背後からは十人以上はいると容易に知れる軍靴の足音が迫り、少女の駆ける狭苦しく複雑に交差した地下通路に反響して少女の耳朶を打った。その音をまるで増幅するように響く銃火器の衝突しあう音や金属鎧の擦れる音がひどく耳障りで少女は眉根を寄せる。まだ少しだけ余裕そうな含みを残した彼女だが、その額には現状の厳しさを示すように冷や汗が浮いている。こんな風に切羽詰まったのはいつ振りだったかしら、漠然と思いながら少女は決して足を止めない。
まだ足を止めてはならない。足を止める、それは少女にとってすなわち死を意味する行動だ。
事前に頭に叩き込んでおいた最短経路を辿ることしか彼女が救われる道は無いと思われた。本来の少女の実力であれば、彼女の行く手を阻む石材の壁を破壊して突き破る程度造作もないのだが、いかんせんそれをするための時間を追手は与えてくれそうもない。世界一堅牢だと呼ばれる赤いヒグレア石材を破る為に少女が必要とする時間は三秒と長すぎるのだ。走りながら準備をすることもできないわけではなかったが、集中力の欠如した状態で放ったそれが失敗した場合の危険性は今の倍に跳ね上がる。少女は奥歯を噛み締めるようにしてただ走った。
「――逃がすな! 一斉射出用意!」
十字路に差しかかったところで不意に左方から聞こえた号令に、右へ曲がりかけていた少女の表情が険しく歪んだ。嘘でしょ、と口の中で呟いて無理矢理軌道修正、踏み出していた足に無茶苦茶な指示を出して前方へと踏み込ませる。身体の体勢を斜めに崩しながらも何とか転倒を免れ正面通路に逃げ込んだ直後、背後で真っ赤な閃光が舞った。
刹那、耳を劈く破砕音と瓦礫が崩落する轟音が響き渡った。ついで怒号。射出系炎上魔術〈咆火〉だ。ちらと十字路を振り返った少女は、通路を塞いでしまいそうなほどの瓦礫が積み上げられているのと、その向こうから幾つもの銃口がこちらを向いていることに気付きいよいよ顔を蒼褪めさせた。
「嘘でしょ嘘でしょ、ちょい待ってそれは危ないっしょ、人命って大事だよ? ねぇねぇ銃殺だけは縁起でもないからやめてほしいんだけどなぁ!」
冗談じみた言葉を選びながらも少女の本音が口をついて出る。しかしそれを掻き消すように複数の発砲音が重複し、少女の真横を弾丸が通過していくのが見えて肝が冷えた。馬鹿なことを言っている暇はない。思い直して更に加速すれば今度は水色の閃光が炸裂し、少女は空間中の空気を凍結させた霜の音にヒュウ、と口笛を吹いた。一切速度を緩めずに通路を染め上げた白銀の冷気から逃れつつ呟く。
「へぇ、やるじゃん……氷霜系凍結魔術、〈降霜〉」
まぁわたしほどじゃあないけれど、と言う台詞は呑みこまざるを得なかった。なぜなら少女の右前方にあった壁が突然粉々に砕け、そこから白と橙の入り混じる灼熱の球体が飛び出してきたからだ。……先ほどと同じく射出系、ただし威力は段違いで高い〈崩火〉。
「ってうぉう!? っぶな……!」
慌てて飛び上がり転がるように前方へ逃れ、僅かな隙を殺すように立ち上がって再び疾走する。直後轟音と共に壁が崩落する音に心臓が縮みあがった。この通路全域を完全に記憶している少女だが、こうまで次々に攻撃を喰らっては正直ひとたまりもない。久し振りに自分の強化された身体能力に感謝しながら逃れる彼女は、ふと自分の意識の片隅に置いたままの術式を思い出す。
今彼女が潜り込んでいるこの施設は、ともすれば死することすら有り得る、一度侵入すれば生存確率が著しく低い武装研究施設だ。くれぐれも気をつけるように、と同僚たちからは散々言い遣っていたし、彼女とてどこが仕事先でも油断するようなヘマは犯さない。あらゆる可能性を検討して準備をしてここに潜り込んだ。ではなぜこんな死に物狂いの逃走劇を演じる羽目になっているのかと言えば、数多あった未来の可能性のうち最悪なものが実現してしまったからなのだ。断じて少女に非があったわけではない。
少女は自分の任務失敗を悟っていた――正確に言えば、彼女はここで手に入れるべき情報を既に手中に収めてはいるのだ。後は逃げるだけだった。その逃走に移る段階で、こちら側にいたはずの間諜がいつの間にか相手方に丸めこまれていたことに気付けたから良かったものの……もしあのまま騙されていれば今頃彼女は八つ裂きだったろう。自分の観察眼の鋭さに乾杯だ。
さて。少女は逃げながら黙考する。
正直任務が失敗した今、死にたいとは言わずとも死んでも仕方がないか、と少女は思っていた。齢十四歳程度にしか見えない少女の心算としてはあまりに乾いて達観した考えだが、そもそもにして彼女は戦士である――戦うべくして戦っている人間である。そして彼女は見た目通りの年齢ではなかった。何度も生死に関わる場面に遭遇してきたし、何度も自らの命に見切りをつけてきた。そのたびに何の因果か助かってしまうのが彼女の悪運の強さを物語ってもいるのだが、今回ばかりは多分無理だと少女は予測した。彼女は未来予測と現状把握に長けた観察眼を持つ。この予測は、ほぼ確実に的中してしまうだろう。
彼女には信頼できる友人であり、同僚であり、そして戦友である者が全部で十二人いる。
これまでの危機のいくつかは彼らが救出に駆けつけてくれたり、機転の利いた助け舟を用意してくれたことで切り抜けられたものだ。彼女とは違う方向性でそれぞれ特技を持つ戦友たちなら或いは、この状況を突破できたことだろう。
例えば弐番を背負う苦労性の大先輩であれば、攻撃力が高く殺傷力も高い貫通性に長けた魔術と鍛え抜かれた槍さばき、そしてその明晰な頭脳でこの危機を乗り越えたはずだ。
例えば肆番を背負う気まぐれな自由人なら、まずこの危機に陥りはしなかっただろう。なにせ街ふたつ分のあらゆる状況を把握できる何より索敵に長けた人材だ、突破口を見つけるのは容易い。
例えば陸番を背負う幼くして怪力の幼女なら、何も考えずに追手を全て斬り倒してしまったかもしれない。彼女は考えることが苦手だから、邪魔もの全てを須らく倒してしまったことだろう。
例えば柒番を背負う努力家の熱血中年であれば、その軌道の読めない剣技によって敵を翻弄して上手く立ち回ったはずだ。彼の複雑怪奇な剣戟を把握するのは、彼女であっても至難の業であった。
例えば――彼女とひとつ違いの拾参番を背負う勤勉でいて繊細な少年であれば、神風と称された俊敏かつ無駄のない疾駆により敵を振り切り、無事に任務を完了させただろう。
言っても詮無いのは分かっているし、そうは言ってもこの任務に最適だったのは自分であることも彼女はよくよく理解していた。仲間内で誰より魔術に長けた自分でなければ、今回の任務の目標である機密情報に掛けられていた複雑な封印魔術を解除することは叶わなかっただろう。それをきちんと理解したうえで、同僚は最大限の敬意を以って彼女を送り出してくれたのだ。その敬意と信頼には答えたかった。この任務は出来れば失敗させたくなかった……の、だけども。
今現在、戦友たちは皆西の大きな戦に駆り出されている。助けが来るなどと言うのはひどく甘く現実味のない考えだ。自分だけでどうにかするしかない。
「……どうにかなればいいんだけどなぁ」
彼女の頭の片隅に浮かぶ術式は、忘却術式と言った。
仲間たちにも内緒で彼らに埋め込んできたそれは、彼女にもし万が一絶命するようなことが起きた場合、もしくはそれに類する、生還不可能だと思われる程の何かが起きた場合、仲間たちの記憶から自分を根こそぎ削除する魔術だった。
いなかったことにする魔術。
存在を葬る魔術。
誰も彼もから忘れられる魔術。
それはすなわち、死だ。忘却されることは死である。
そう、少女にとってはもう、足を止めようが止めまいが大した差はなかったのである。逃げるのをやめて捕まれば即座に斬首されるだろうし、逃げ続けてもとてもではないが逃げ切れまい。となれば致命傷を負ってそのうち死ぬか、身動きが取れなくなって結局死ぬか。どう転んでも彼女は自分が死ぬだろうと予期していた。万が一にも死なないにせよ、死んだ同然のことになって当分は動けないだろうなぁと冷静に判断している。そして奇跡的な確率で死なないまま仲間の元に帰ったとしても、仲間たちは彼女のことなど忘れてしまっている。
自分で執り行った背水の陣のつもりだった魔術が完全に裏目に出ていた。
できれば、この任務で得た情報だけでも渡してしまいたかったのだが――それも叶うかどうか。
しかし、そんな風に考え事をしていたのが悪かったらしい。彼女は不意に自分が走る通路が少し様子を変えたことに気付いた。赤かった石材がいつの間にか色彩を変え、真っ白になっているのだ。何だか嫌な予感がして引き返そうかという考えが一瞬脳裏をよぎるが響く軍靴がそれを許さなかった。どうあれ生存が最優先だ、と迷いかけた心に言い聞かせるようにしてまた一歩を踏み出したそのとき、ブォン、と鈍い音が足元から鳴った。
「――っ、しまっ」
落とした視線の先、通路の床に彼女の足を中心として展開された術式紋様に一瞬目を疑う。誰にでも出来ることではないが、幸か不幸か人より優れた観察眼を持つ彼女はその術式がなんなのかすぐに理解できたのだ。それまでは形だけでも存在した余裕綽々の表情は一秒とせず崩れ去り、少女はカッと目を見開いた。
深く、所々淀む青色の両眼。そのうち右目が、まるで十字架のように金色の模様を刻んだ。その目は術式を映し、解析し、そして予感は確信に変わる。この罠は殺傷力ピカイチ、起動確率九割九分九厘。誘発型爆発魔術、〈最期の花火〉!
「嘘でしょ……あぁもう最悪すぎるッ!」
思わず叫んだ彼女はそのまま、脊髄反射のように左手首へ右手を伸ばした。そこに嵌めている白銀色の腕飾りに手をかざした瞬間、少女の周囲に水色と灰色の混ざったような冬色の光が乱舞、背後から追ってきていた兵士が突然の閃光に目を焼かれ苦悶の声を上げた。所詮は時間稼ぎにしかならないが、その時間稼ぎは大切だ。少女の得意とする氷霜系凍結術式、〈霧霜〉。先ほど敵の使った〈降霜〉より高位に位置する中範囲攻撃魔術――威力は通常さほど高くないが、彼女の魔力にかかればそれは必殺の呪文に成りえる。だがこれはせいぜいが六人程度の敵を想定したもので、敵の数が多すぎてはあまり意味を持たないゆえ、十人を超える追手がいる現状では時間稼ぎにしかならない。
視界に映った魔術式に相反する魔術を即興で織り上げてしまうのはあまり良い顔をされない反則技だが、命が懸かっているんだから勘弁。誰に言ったのかも分からない言い訳を並べつつ、少女は口を開いた。この罠は少女の得意な系統の魔術ではないが、彼女がここから逃げ出す上で必要な転移呪文の下敷にするには十分だ。一から魔術を組み直すより断然早いと判断した彼女は、他の誰にもそう簡単には出来ない芸当である「魔術式の書き換え」を行うべく朗々と紡いだ。
「魔術変換! 我暗闇に潜みし奪命の魔術の理を分解す。求めるは空間の奔流、その流れに乗りて遠地へ飛べ! 解し捻り砕く、其の魔術の名は〈彼方に飛び去る翼〉――」
「させるか! 魔術細分、〈弾き飛ばせ〉!!」
詠唱を終える寸前で突然飛んできた詠唱阻害の呪文に少女は目を瞠った。その呪文は予期せぬ類だった――詠唱阻害系呪文の中でも最高難易度にあたるそれを唱えられる人間が敵勢力にいるだなんて聞いていない!
次の瞬間少女は妨害呪文によって、足元の術式紋様が変化したのを視認した。茜色の〈最期の花火〉の魔術式であることを示す術式紋様が少女の介入により〈彼方に飛び去る翼〉の冬色に染まりかけていたのに、そこに阻害呪文が更に加わって、青と緑の入り混じる奇矯な色合いへと転じている。少女は全身から血の気が引くのを感じた。罠である〈最期の花火〉は罠にかかった人物を『繋ぎとめ』て『押し潰す』種類の魔術であり、彼女が唱えたのは『引き離』して『飛び上がる』魔術だ。そこに両者を妨害する魔術が介入したら――何が起こるかは、誰にも分からない。
と、刹那。
「……う、あ、嘘ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
足元の術式紋様が一際に眩しく輝いたかと思えば、次の瞬間少女は『落下』していた。
直前まで確かに踏んでいたはずの地面が綺麗さっぱり消失し、少女の細身な身体が漆黒の闇へと突き落とされる感覚。まるで天高くから放り出されたかのような浮遊感と加速感覚に頭が酩酊するのを感じた。まずい、と頭が大音声で警鐘を鳴らしたが対応は何も間に合わない。少女は薄れ行く意識の中で、自分の片隅にあった忘却術式が眩く輝き脈動するのと―――、
眼下に、見たこともない高層の建物が立ち並ぶ異様で奇妙な街並みが広まっているのを見た。