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Butter-Fly

作者: 浅井 朝

 蝶は美しい。

 ひらひらと宙を舞うその姿は、緩やかな子守唄のように僕の心を満たし優しく包み込んでくれる。

 今までの悩みがまるで嘘のように消え去り、落ち着いていくのを感じた。

 穏やかな気分だ。

 僕は右手に花束を、左手に祖父との約束を握り締め、深い森の奥に立っていた。

 そして今、僕の目の前には一匹のクロアゲハが翔んでいる。

「翔べるようになってよかった」

 このクロアゲハを初めて見つけたのは、この場所でのおよそ一ヶ月前のことだった。

 大きな木々が立ち並び、綺麗な花々が咲き誇る。木の根は幾重にも盛り上がり、数々の昆虫が辺りを飛び回っていた。

 そこで僕は見つけた。

 綺麗な模様の羽が裂けた、一匹の黒い蝶々を。

「…………」

 ああ、こいつはこんなに綺麗な羽を持っているのに、それを羽ばたかせることなく死んでいくのだろうか。

 そいつを見た時、僕はそう思った。

 僕は蝶に特別愛着を持ってはいるが、一匹の蝶が死ぬのを目の辺りにしたくらいで心を痛める程ではない。それなのに僕はその時、その羽の裂けた黒い蝶に心惹かれていたのだ。

 心惹かれていたというのは間違っているかもしれない。

 僕はこの蝶にどこか似たところを感じとったのだ……大切なものを失うということを。

 大切なものを失った。

 それはさらに半年前に遡る。

 生まれ故郷、相当な田舎で僕は両親と祖父母と過ごしていた。

 ある日僕はいつものように秘密の場所へ向かっていた。蝶の集まる不思議な場所だ。

 そしてその帰りの道中、僕は道の脇に多くの虫の死骸が落ちていたのを見た。その異様な光景は不吉な何か、よくないことの起きる前触れのように思えた。

 その感覚は正しく、家へ着いた僕は病に倒れ床に臥せる祖父を目にした。母が言うにはどうやらあまり長くないらしい。

 僕は祖父の眠る布団の横に立ち尽くし、悲しみのあまり言葉を失っていた。

 そもそも祖父は僕にとって存在が大きすぎたのだ。僕のような最悪な子供なんかに大きな優しさをもって、大きな愛情を与えてくれた。

 しかしそんな大事な祖父を置いて僕と両親が都会へ引っ越しをするという話があがった。

「引っ越ししたら昆虫眺める場所なんてないわよ?」

 そう母に言われたが、僕もこの時はまともな子供だったのだろう、両親と離れることが何より恐ろしかった。

 さらに祖母がいたこともあり、僕は祖父のいるこの実家に残ることもできたがそうはしなかった。

 しかし僕に自然や昆虫、中でも蝶についての魅力を教えてくれた祖父。

 その人を選べなかった。

 その人を捨てるようなことをしてしまった。

 それが僕を壊してしまったのだろう。

 僕はこの日を境に『標本』に手を伸ばした。

 祖父からきつく言われてきた言葉……昆虫、ましてや蝶は翔ぶ姿こそが美しい。人間の勝手で虫を殺し、針で刺す。これは最低な行為であり、絶対にやってはならないことだ、と。

 この時の僕は都会に行き、蝶を見ることができなくなることを想像するだけで耐えきれなかったのだ。

 だからせめて標本をと思ったのがいけなかった。祖父の言葉は頭から抜け、自分のためだけに夢中で標本づくりに没頭していった。

 やがて引っ越しの日がやってきた。

 僕はその日が生涯での別れの日だとなんとなく理解していた。そして祖父もそれをわかっていたのだろう。

 祖父は朝早くに僕を呼び出すと、絶対に無くすなと少し錆びて色褪せている小さな懐中時計を手渡した。

「その懐中時計は止まってはいるが壊れてるわけではない。この懐中時計はお前を導くためだけにあるのだからの」

 そう言って祖父は僕を部屋から急かすように追い出した。

 引っ越しはすぐに始まった。僕が祖父と会話していた時からトラックにはすでに荷物が積み込まれていたのだ。トラックが走り出すのを見送りながら、僕たちも車へ乗り込んだ。

 そして祖母の見送りの中、僕の乗った車が走り出した。ガタガタと車体を揺らせながら田舎道を走る。

 僕はこの時、なんとなくだが、最後の会話の時には祖父は僕の悪事に気がついていたのではないかと思った。それは確認できず、これからも確認できることはないのだが……。

 長い間車に揺られた気がした。

 唯一車へ持ち込んだ荷物、蝶の標本。車に乗っている間は常に目にしていた気がした。

 その度に置いてきた祖父を思い出し、その祖父の言いつけを破って標本を作った罪悪感が僕を襲った。

 なぜ標本を作ったのか、引っ越し当初の僕は後悔してばかりだった。

 やがて新しく住む家にたどり着いた。

 実家とは違い窮屈な感じだったが、綺麗な家だったというのが第一印象なのは覚えている。

 学校に行くようになった。あまりの人の多さに驚いたりもした。走る車の数にも驚いたし、空気の悪さにも驚いた。

 すべてが新鮮で楽しかった。

 しかしクラスには馴染めなかった。そう、都会の子供にとって蝶は昆虫の一種でしかなく、彼らは標本であろうと昆虫を気持悪いものとしか見ていなかったのだ。

「キモチワルイ」

 そんなクラスメイトたちの容赦ない言葉が僕に突き刺さった。

 そして、さらに追い討ちをかけるかのように、祖父が他界したという報告が届いた。

 引っ越し前からこうなることはわかっていたはずだったのに、実感が湧いていなかった。

 そして僕は迫り来るよくわからない焦燥感に駆られ、クラスメイトの視線の中心で標本を叩き壊した。

 自分に殻をつくり、その中に昆虫……蝶を閉じ込めたのだ。

 そうなったら最後、祖父の葬式に行くことすら耐えられなくなっていた。

 あんなにも大好きだったはずなのに。

 あんなにも良くしてくれたのに。

 この思いが僕をさらに苦しめた。悪循環という恐怖が僕を壊したのだ。

 祖父の幻影を見るようになった。

 祖父が怖くなってしまった。

 それなのに、僕を支えるのは祖父が残した時を刻まない懐中時計、ただそれだけだった。

 やがて耐えきれなくなった僕は両親に何も告げず一人電車を乗り継ぎ、歩き、歩き続け秘密の場所へ向かった。

 それが今から一ヶ月前のことだった。

 その綺麗な羽が裂けたクロアゲハを見て僕は死ぬのだろうかと思った。しかし僕は死なせたくないとも思った。

 簡単なことだったのだ。

 僕はやっぱり蝶が好きで、どうしようもなく馬鹿で、ここから離れられないのだ。

 僕はそのクロアゲハをそっと拾いあげると、急いで祖母のいる我が家へ帰った。

 気づけば、黒い綺麗な蝶を見つけたのは懐中時計の指し示す日、時間と一致していた。

 そして治療をした。

 治療をし続けた。

 その蝶を生かすことが祖父へのたむけにならないかと考えたからだ。

 そして一ヶ月がたった今、僕は秘密の場所にいる。

 目の前には綺麗な黒い羽を羽ばたかせる蝶々。

 右手には花束を。

 左手には約束を。

「おじいちゃん、遅くなってごめん。花を添えるのは墓じゃないけど、おばあちゃんが黒い蝶はあの世へと渡るって言ってたから、このクロアゲハを放つここにしたんだ」

 ごめんなさい。

 いろんな意味を含め、そう黙祷をする。

 ひらひらと舞う黒い蝶々に思いを乗せて。

 僕はすがすがしい、穏やかな気分になっていた。

 今なら言える。

 今までの僕は言ってはいけなかった。言うのにふさわしくなかったのだから。

「お前は美しいな」

 久しぶりに笑った気がした。

「帰らなきゃ、みんな心配してる」

 そう呟いた僕の心はいつになく晴れ晴れしていた。

 最後に振り返って黒い蝶を見る。

 さあ。

 もっと高く。

 もっと遠くへ。

 翔べ。

 お前は何より美しいんだ。


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