虹色の孔雀
地上三千五百メートルの冷風が樹流徒の頬を切り裂く。季節は冬。余計肌に厳しい寒さだった。
遠くの空を見れば紫がかった霧が遥か天高くまで伸び上がっている。霧を放出している結界もまた同じ高さまでそびえているのだろう。その果てがどこにあるのか、見当もつかなかった。
詩織や令司と別れて単独行動を開始してからある程度時間が経っている。樹流徒はアジト(厳密にはアジト付近で鍵を使える場所)を目指して快調に飛ばしていた。今の飛行速度を保ち続ければかなり早く目的地に辿り着けるだろう。
もし仮に地上を移動していたらそうはいかなかった。きっと空を飛ぶよりも数倍の移動時間がかかっていたはずである。何しろ市内の乗り物が使えず陸での移動手段はほとんど徒歩に限られている。また、地上を徘徊する悪魔の数は空を飛んでいる悪魔に比べてずっと多いため、地上では樹流徒が戦闘に巻き込まれる回数が多くなる。戦闘が発生すれば当然ながら時間を浪費する。飛行能力が今後も樹流徒の大きな助けになるのは間違いなかった。
敵の襲撃に備えて前方に注意を払いつつ、樹流徒は下界の様子を眺める。もしここが数ヶ月前の市内だったら……などという想像が頭に浮かんだ。
白い雲、市内中心部に密集した建物、郊外の古い街並みや自然、そして太陽の光を浴びて輝く太平洋。それらを一望できただろう。きっと美しい景色だったに違いない。
現実は正反対だった。樹流徒の眼下を通り過ぎてゆくのは、真っ白な雲ではなく、異形の生物ばかり。町並みにしても「侘しい」の一言に尽きた。龍城寺市は妖しくも美しい魔都の姿を経て、現世に溢れ返った悪魔の破壊行為により、廃都化の一途を辿っている。
あと数週間もすれば、この土地には文明の跡すら残っていないかも知れない。そんな不安を抱かせる程に、街が、自然が、くたびれ切っている。樹流徒の妄想を儚くさせるには十分過ぎる殺風景だった。
地上三千五百メートルの薄い空気がそうさせたのか、それともすっかり温かみを失ってしまった町並みを目の当たりにした影響か、樹流徒は若干の息苦しさを覚えた。
彼は一旦高度を下げる。視界に映る街並みをクローズアップして、自分の現在位置を正確に把握することにした。
結果、目的地までの中間地点を大分通り過ぎていると分かった。アジト到着までもうひと頑張りと言ったところだろうか。
真下にはマンションが多く建ち並んでいる。鉄道や道路の高架が走っていた。その先には雄大な川が流れている。市内を縦断し海に繋がる大河だ。
その川を跨ぐ全長約三百メートルの吊り橋を渡ればオフィス街が広がっていた。中高層の建築物にしても高架にしても、限られた土地を最大限有効利用しなければならない都市・国の事情が垣間見える。都市機能の観点から見れば合理的だが、いかんせん無秩序な景観だった。
樹流徒は、昼の明るい内に見るビルの群れが、せせこましい感じがして余り好きではなかった。一方で、それらが闇夜に灯す無数の明かりはとても綺麗だと感じていた。勿論、魔都生誕以前の話である。
その、かつて美醜両面の顔を持っていた景色の入口に樹流徒は差し掛かった。
電気の消えたオフィスビルの間を縫って飛ぶ。背中の羽で隙間風をいっぱいに受けてから高度を上げた。
地上の景色がぐんぐん遠のいてゆく。動物の頭を持つ悪魔が一体、足を止めて樹流徒の姿を仰ぎ見ていた。羽を生やした人間が空を飛んでいることに驚いたのか双眸を真ん丸にしている。元々そういう目の形なのかも知れない。
上昇を続ける樹流徒の体は、辺りで最も大きな建物の頭を飛び越えた。これから地上三千五百メートルのフライトに戻る。
ところが、まだ樹流徒の体が上昇している最中。
彼はふと、妙な気配を察知した。遠くから刺すような視線を投げつけられた気がした。
反射的に顔を横に向けて、一驚を喫する。少し離れた場所に謎の巨大な物体が浮遊していた。それは、影も音も悟らせる事無くいつのまにか樹流徒に接近していた。
その正体は“鳥”だった。建物のように大きな孔雀である。派手な虹色の翼を広げ、尾の先から七色に輝く光の粒をばら撒いていた。えも言われぬ美しさを持つ幻想的な生き物だ。
偶然だろうか。出し抜けに出現した虹色の孔雀は、樹流徒の横にぴったりとくっついて飛んでいる。数十メートル間隔を一定に保っていた。
「悪魔だな」
樹流徒は独り言つ。その声は白い息と共に口から吐き出され、風圧ですぐに掻き消えた。
彼は巨大孔雀を警戒しながらも飛行を続ける。相手の出方を窺うために高度を上げた。
すると巨大孔雀も動きを合わせて上昇する。樹流徒と同じ高さに追いつくと、速度を増して彼の先を行った。一定に保たれていた間合いが離れてゆく。
間もなく、樹流徒の視界に映る悪魔の姿は、石ころ程度の大きさになった。
樹流徒は張り詰めていた緊張を緩める。虹色の孔雀がこのまま飛び去ると思って安心した。
ところが、彼が先を急ごうと羽を強く打ち下ろした途端―――
樹流徒は警戒心を取り戻す。勢いに乗って風を切ろうとしていた全身を硬直させた。
前方から大きな影が急接近してくるのに気付いたからだ。周囲に七色の光を散らしいるため、影の正体が巨大孔雀である事はすぐに分かった。
一度は去るかに見えた悪魔が、身を翻し、樹流徒の真正面から突撃を仕掛ける。
両者は互いに向かい合って高速飛行しているため、瞬時に接近した。樹流徒が危機を感じて方向転換を試みたところで、接触は免れなかった。
怪鳥は足の爪をいっぱいに広げる。両者がぶつかり合う瞬間、樹流徒の体を鷲掴みにした。更には飛ぶ勢いを緩めることなく、むしろ微妙に加速しながら降下を開始する。
樹流徒は軽い混乱をきたした。上空で悪魔に捕獲されて身動きが取れなくなるという初の状況に、少なからず狼狽した。とてもではないが、冷静になって脱出方法を考えられる状態ではない。
彼が正気を取り戻すより早く、悪魔が強烈な先制打を見舞う。樹流徒を掴んだ両足を前に突き出して、ビルに突撃した。
地味な破壊音と、それに似つかわしくない大きな煙が巻き起こる。砕けた外壁は細かな屑を飛び散らせ、風に吹かれて流されていった。廃都にコンクリートの雪が降る。
壁面に押し付けられた樹流徒の全身は悲鳴を上げた。肩と背中の骨が軋む。
巨大孔雀は獲物を離そうとしない。樹流徒の体に爪を食い込ませたまま、今度は急上昇した。
樹流徒が痛みから回復した頃には、先刻両者が接触した高度に達する。
息つく間もなく、悪魔は三百六十度を出鱈目に飛び回った。樹流徒の脳が上下前後左右に激しく揺れる。視界もだ。方向感覚はすぐに失われた。
また、巨大孔雀が急旋回を行う度、樹流徒の全身に食い込んだ爪がますます深く突き刺さる。彼の傷口を容赦なく広げた。
それが数分にも渡り続いた後、悪魔は急降下する。捉えた獲物を再び建物の壁面に叩きつけようとしているのだろうか。
ここで樹流徒はようやく反撃に出る。並の人間であればとうに意識は無かっただろうが、彼は冷静に狙いを定めて攻撃を放つだけの余力を残していた。マルコシアスの炎を撃つ。
三連射で飛ぶ青い炎の玉が、至近距離にいる怪鳥の腹に全弾命中した。
キェッと甲高い叫び声が空を裂く。
樹流徒の自由を奪っていた足が開いた。彼は空中に投げ出される。
巨大孔雀は青い炎を身に纏ったまま、ビルの壁面スレスレを垂直上昇した。衝撃波で窓ガラスを次々と破壊する。そして屋上にしがみつくと、翼を暴れさせて己の体に叩きつけ始めた。必死に炎を消そうとしている。
一方、敵の拘束から解放された樹流徒は、羽を操って空中で体勢を立て直した。別の小さなビルの屋上に着地する。
見上げると、相手はまだ体に火種を残したまま暴れ回っていた。
樹流徒は地面を蹴って素早く飛び立つ。別の建物に移って悪魔との距離を縮めると、火炎弾を発射した。
小さな炎の塊は、彼が狙った通りの軌道を描く。
しかし、虹色の翼がいとも簡単に攻撃を跳ね返した。さも人の手が埃を払うかのように。
そうしている内、巨大孔雀の腹で燃え盛っていた炎が消滅する。
悪魔は離陸した。上空に舞い上がり、大きく旋回する。
続いて漆黒の瞳をギョロと動かして人間を見下ろすと、またも鋭い角度で降下した。
樹流徒は屋上に留まり迎撃態勢を取る。宙に逃れるという選択肢もあったが、空中にいる間は姿勢が多少不安定になる。その多少が、遠距離攻撃の射撃制度を著しく狂わせてしまう。だから、敵を迎撃するつもりならば体を固定できる地面に残った方が良い……という判断である。
彼は、向かってくる敵に再度火炎弾を放った。一発目は跳ね返されてしまったが、翼以外の部位に当たれば効果があると確信していた。
しかし悪魔は飛ぶ軌道を殆ど変えない。華麗なきりもみ落下を披露して攻撃を回避した。
両者の距離が縮まる。互いの声が届きそうな位置にまで近付いた。
樹流徒の集中力は否が応にも高まる。
巨大孔雀は宙に静止した。獲物に向かって嘴を開く。威嚇のつもりだろうか、噛み付かれた獣みたいな奇声を上げた。
かと思いきや、直後、口内から謎の気体を吐き出す。真っ白な煙だった。
それは初めて見る敵の攻撃だったが、樹流徒は落ち着いて対処する。これまでの戦いの経験から、離れた悪魔が少しでも妙な動作を見せた場合、遠距離攻撃を撃ち込んでくると考えた方が良いという常識を持ち始めていたからだ。
お陰で、樹流徒は相手の喉が見えた段階で既に回避行動を取っていた。
ただ、それでも完全に回避できたわけではない。敵の攻撃が予想以上に広範囲だった。怪鳥の口内から大量かつ勢い良く噴射された謎の気体が、屋上の床にぶつかるなどして拡散したのである。結果、微量の気体が、樹流徒の羽や靴に触れた。
樹流徒が背中に軽い重みを感じたのは、数秒にも満たない後だった。
違和感の原因を素早く確認してみると、羽が灰色に変色してカチコチに固まっていた。石になっている。見れば靴も石化していた。
恐ろしい事に、虹色の孔雀は、物体を石に変えてしまう特殊な息を吐くらしい。
今までに無い厄介な能力を目の当たりにして、樹流徒は固唾を飲んだ。