葛藤
すっかり慣れたはずの店内の空気が、やけに重たく感じた。
樹流徒が悪魔倶楽部を訪れるのはこれで何度目になるだろう。最近では一番の常連客に違いない。
しかし今、彼は薄氷を踏む思いで店の中にいた。初めて悪魔倶楽部を訪れたときよりよりもずっと緊張していた。知らず知らず表情も硬くなる。
理由は他でもない、令司を連れているからだ。悪魔の仇敵・天使の犬を魔界に連れ込んだのである。火事場にガソリンを運び込むような行為だった。
悪い事に、こういう時に限って客席の椅子は八割方埋まっている。いつ火種がガソリンに引火するか分からない。この上なく危険な賑わいを見せていた。
すでに黄色信号は灯っている。樹流徒は悪魔たちの中から殺気を感じていた。今までよりも一段と強烈な憎悪が込められている気がするのは、ただの勘違いだろうか。
そんな生きた心地がしない状況の中、樹流徒にとって唯一の救いは詩織の存在だった。
樹流徒が店内に現れた時、少女は白い布を片手にテーブルの上を拭いている最中だった。店の扉から最も近い席である。救いは、樹流徒のすぐ目の前に立っていた。
「あ……。相馬君」
詩織は布巾をテーブル上に預けると、樹流徒に近付く。ほんの数歩で彼の元に辿り着いた。
「伊佐木さん。良い位置にいてくれた」
樹流徒は心の声を一語一句違わず口にする。
その言葉に要領を得なかったのだろう。詩織は丸い瞳を二回ほどぱちぱちさせた。
「その人は誰? 大分傷付いているみたいだけれど」
彼女は当然の疑問を唱えながら、令司の顔を覗き込む。
樹流徒は詳しい事情を説明できなかった。カウンターの向こうで仁王立ちしている店主バルバトスに話を聞かれたくない。
もし“天使の犬を救うために悪魔倶楽部を利用した”などという事がバルバトスに知られたら、今後一切店への出入りを禁じられてもおかしくない。それだけならまだしも、令司の身を危険に晒す恐れ、詩織まで店に居られなく展開も十分に有り得る。樹流徒としては何としても避けなければいけない事態だった。
故に、樹流徒はバルバトスを欺く行為に良心が痛んだが、今は事実を隠さねばならないのである。
可能な限り迅速に店を去りたい樹流徒は、やや早口で詩織に問う。
「説明は後でする。それより今、君の鍵はどこと繋がっている?」
「それは、私が悪魔倶楽部の鍵を現世のどこで使用したか……という質問?」
「そう」
「中央公園前の民家よ」
「中央公園……あそこか」
何故、彼女はそんな場所で鍵を使用したのか? 本来の樹流徒ならば多少不思議に思って尋ねていただろう。ただ、今はそれどころではなかった。何も起こらない内に悪魔倶楽部を出たい。そして詩織の鍵を使って少しでも組織のアジトに近づければ良い。目下その二つだけが重要なのである。
「頼む。君の鍵を使って僕を現世に連れて行ってくれないか?」
「え。それは構わないけれど……何故? 理由を教えてくれるのも後?」
「済まない。本当に急ぎだ」
「そう……。分かった」
詩織はそれ以上樹流徒を追及せず、店の扉を開く。
向こう側に広がる漆黒の空間に、彼女の鍵を挿した。
闇が揺らめいた瞬間、樹流徒は令司を抱えて走る。バルバトスに対する後ろめたさから逃れるように、空間の中へ飛び込んだ。詩織も後を追う。
行き着いた先は、詩織が言った通りの場所だった。樹流徒たちは民家の中を移動してリビングに入室する。座卓やテレビなどが置かれたごく普通のリビングだった。ソファがあったので、そこに令司を寝かせる。それで樹流徒はようやく人心地つくことができた。
窓から外の様子を覗いてみると、道路の向こうにだだっ広いだけの市営公園が見える。地元住民からは中央公園の名で知られる広場だ。以前、樹流徒と南方が会話をした場所であり、詩織が悪魔たちと現世旅行を締めくくった場所でもある。そして現在では“霧下岬から一気にアジトへ近付いた場所”と表現することも出来る。
さて。悪魔倶楽部の客から襲撃を受けるという最も恐れていた事態を回避できたはいいが、胸を撫で下ろすのはまだ早い。
このあと令司をどうするか、それを決めなければいけないのだ。令司を担いでアジトまで運んでゆくか。それともこの場に残してゆくか。樹流徒は二つに一つを選択する必要があった。
令司を担いで移動すれば、当然ながら樹流徒の移動速度は遅くなり目的地に到着する時間も遅くなる。しかも道中で敵に襲われた場合、令司を守りながらの戦いになる。悪魔の数や種類にもよるが苦戦は必至だ。さらに令司はまだ目を覚ましていない。医学の心得が無い樹流徒でも、意識を失った負傷者の脳を激しく動かすのはよろしくないことくらい想像できた。悪魔との戦闘になれば否応なしに激しく動き回ることになる。その際令司の体に致命的な負担がかからないか心配だった。
一方、令司を民家に残してゆけば、樹流徒は単独行動が可能となる。目的地まで素早く移動できるし、悪魔に襲われても自由に戦える。ただ、その間ずっと令司は無防備だ。悪魔に襲われたらひとたまりも無い。加えてもう一つ問題があった。こちらの方法を選択した場合、再び悪魔倶楽部を経由して令司を移動させなければならないことである。
どちらの道を選んでも一長一短。悩みどころだった。
樹流徒は外の景色に視線を置いたまま、考え込む。
アジトには移動せず、八坂が回復するまでこの民家で待機すれば良いのでは?
いや。駄目だ。そのせいで手遅れになったらどうする。何のために危険を冒してまで近道したと思ってるんだ
脳内で自問自答を展開する。
「相馬君。考え事の最中みたいだけれど、そろそろ事情を聞かせて貰っても良い?」
詩織が心持ち静かな声で話し掛ける。
樹流徒は我に返り、すぐ背後で佇む少女を振り返った。そして令司が寝ているソファをちらと見る。
「あの男、八坂っていう名前なんだが、組織の人間なんだ」
「やはりそうだったの。どうりでアナタが慌てて店から出るわけね」
「ああ。バルバトスに知られたら不味いからな」
「けれど、マスターに嘘や隠し事をするのは気が引けるわ。正直に話して、謝った方が良いと思うのだけれど」
「謝って許してくれるなら勿論そうする。だけど……」
いや。許して貰えなくてもいい。最悪、悪魔倶楽部の利用禁止を言い渡されても構わない。ただ、自分の行動が原因で伊佐木さんまで割を食うのが嫌だ。
樹流徒はそう言いたかった。
されども実際口には出来ない。そのような事を伝えたら、詩織は自ら「悪魔倶楽部を出る」などと言い出しかねない。
彼女はそういう人間だ、と樹流徒は半ば確信していた。魔都生誕以降、伊佐木詩織の言動を見てきて、彼女という人間の性格が多少なりとも分かってきたのである。
故に、今すぐ魔界へ引き返してバルバトスに事情を説明することも、本音を詩織に伝えることも、樹流徒は容易に実行できなかった。
組織の人間に対しては悪魔倶楽部の存在を隠し、逆にバルバトスに対しては天使の犬を悪魔倶楽部に入れた事実を隠し。今度は詩織に対してまで本音を隠している。
必要に駆られての判断とはいえ樹流徒は気が晴れなかった。詩織の言葉ではないが、嘘を吐くという行為はそれだけで気が引けるものである。
よっぽど気持ちが顔に表れていたのだろうか、樹流徒が黙り込んでいると、詩織は小さく頷く。
「分かったわ。私は何も知らないことにしておくから心配しないで。マスターには全てが終わった後で謝りましょう」
彼女からそう言ってくれたのが少し意外で、樹流徒は思わず詩織の顔を見つめた。そのあとすぐに頷き返す。
「そうか……。ありがとう」
「じゃあ、話を戻しましょう」
詩織は首から上だけを動かして令司を見る。
「彼が組織の人だという事は分かったわ。それで?」
言って、再び樹流徒に視線を移した。
「見ての通り、八坂は酷い怪我をしている。一刻も早くアジトに連れ帰りたい」
「彼をここからアジトまで担いでいくの?」
「問題はそこだ。僕が彼を運ぶべきか、それとも彼をここに置いてゆくべきか」
「そういうこと……。アナタが何を考え込んでいたのか、概ね理解したわ」
「僕はどうすべきだと思う?」
樹流徒は、詩織の意見を仰ぐ。迷っている時間すら惜しいが故の行動だった。
「それなら私に任せて貰えない?」
「え。任せるって?」
「アナタは1人でアジトへ向かって。その間、私が彼の様子を見てるから」
「だが、君が悪魔倶楽部にいないと意味が無い」
令司をこの場に残してゆく方法を選択した場合、再び詩織の鍵を借りることになる。彼女には店にいて貰わなければ困るのだった。
「分かっているわ。でも、私が数分置きにこの家と店を往復すれば問題ないでしょう?」
「この家に悪魔が侵入してきたらどうする? 八坂だけでなく君まで危険な目に遭うかもしれない」
「その時は彼と一緒に悪魔倶楽部へ避難するしかないわね」
「……」
店に逃げ込んだ後はどうするのだろうか。樹流徒は不安だった。やはり自分が八坂をアジトまで運んだ方が上策かも知れない、と思えてくる。
それを言葉にしようとすると、一寸早く、詩織の口が開いた。
「じゃあ、アナタは一刻も早くアジトへ向けて出発して」
「いや。悪いけどまだ君に任せると決まった訳じゃ……」
「大丈夫よ。何とかするから」
「何とかって……」
樹流徒は反応に窮しつつ、心の片隅にちょっとした懐かしさを覚えた。ほんの少し前にも今回と似たようなやりとりを詩織と交わしたのを思い出す。
それは、詩織が樹流徒に代わって女性悪魔を現世旅行へ連れてゆくと言い出したときだった。あのときも彼女は「何とかする」と曖昧なことを言って、半ば強引に決定を下したのである。
結果はどうだったか。彼女は見事に有言実行を果たした。
当時の回想を終了した樹流徒は、ふと、考えが変わった。詩織の言葉を信じてみようという気になった。
「分かった伊佐木さん。今回も君の力を貸してくれ」
それを伝えると、例によって詩織は微笑と表現するのも控え目な微笑を口元に浮かべる。
「ええ。お互い頑張りましょう」
声音には幾分弾みがあるように聞こえた。
「八坂は目を覚ましても動く事は出来ないだろう。けど、万が一体が動いたら、きっと自分一人の力でアジトまで帰ろうと無茶をするはずだ。出来ればそれを阻止して欲しい」
「そう……。分かったわ。何か手を打っておくから心配しないで」
「じゃあ僕は行く。もっと詳しい話はまた後で。特にメイジの事を話さないとけない」
「メイジって……もしかして籠地君の事?」
「ああ。アイツと会ったんだ」
最後にそう言い残すと、樹流徒は窓を開いて黒い羽を広げた。
初見の詩織はあっと呟き声を漏らしたが、樹流徒の飛行能力に関しては既に承知していることもあって、然程驚いた様子でもなかった。
「気をつけて」
彼女が声をかけた時、樹流徒は既に床を蹴って上昇を始めていた。