不敵
思い返してみれば、現世と魔界が接触したのは樹流徒とメイジが一緒に下校をしている最中の出来事だった。上空に現れた巨大魔法陣から降り注いぐ黒い光が市民たちを深い眠りに就かせたのである。
数時間後。樹流徒が目を覚ました時、隣にいたはずの親友は何処かへと消えていた。
メイジは樹流徒よりも早く意識を回復していたらしい。その事実は、詩織の供述により判明した。彼女は未来予知の力で、メイジが樹流徒の傍から立ち去る瞬間を視たのである。
魔都生誕が発生して以降、市内は徐々に悪魔の巣窟と化していった。今や普通の人間が一人歩きできる状態ではない。それだけに、樹流徒は友の生存を望みながらも、心のどこかではその可能性を諦めていたかもしれなかった。
ところがメイジは死んでいなかった。異界の生物がはびこる封鎖都市の中で命を繋いでいた。
果たしてこれは奇跡と呼んで良いのだろうか。期せずして親友と再会した樹流徒の全身を、微弱な電気が駆け抜けた。
「オマエ……樹流徒か。少し久しぶりだな」
黒衣を纏ったメイジがニヤリとする。彼は特に大袈裟に喜んだりもしなければ、驚く様子も無い。味気ないくらい落ち着き払っていた。しかしその態度こそが、樹流徒にとっては非常に見慣れた親友の姿であった。
「相馬の顔見知りなのか?」
令司が先ほどと似たような質問をする。
樹流徒はメイジを正視したまま「大事な友達だ」と答えた。
「なあ、そのサムライ野郎はダレだ? オレに代わる新しい相棒ってとこか?」
メイジは初対面の令司に双眸を向ける。好戦的な表情をより挑発的に歪めた。
「彼は仲間みたいなものだ。それより、お前が生きていて良かった」
樹流徒は、メイジの足下まで伸びる赤い絨毯の上を歩き出した。
かたや令司は刀の鮫皮を握り締めたたまま姿勢を固める。
「オレも嬉しいぜ親友。まさか餌を撒いたらオマエが釣れるとはな」
黒衣を纏った青年はクックッと声を上げ肩を揺らして笑った。
「餌?」
樹流徒は通路の真ん中で動きを止める。
「そう。餌だ。負け犬がニ匹逃げ帰って来ただろ? それとも奴らはお前と無関係か?」
そう言うとメイジは懐に手を忍ばせる。何かを取り出して樹流徒の足下めがけ投げ捨てた。
メイジの手から放れた物体は緩やかな弧を描いて宙を滑り、外の光を反射して瞬刻輝いた。絨毯の上に落下するとカタンと小さな音を鳴らして一度だけ低く跳ねる。
樹流徒は目を落とした。見れば、メイジが放り投げた物は眼鏡だった。レンズの片側が割れている。
すぐにピンと来た。仁万が掛けていたものではないかと気付く。
「この眼鏡を持っているという事は、まさか渡会さんに重傷を負わせたのは……」
はっとして顔を上げた。
「ワタライ? あぁ……あの茶髪の男か」
メイジは大儀そうな動作で腰を上げる。教壇の上に立つと、胸に掌を当てた。
「そう。ヤツをやったのはオレだよ」
そしてあっさりと己の凶行を自白した。
樹流徒の脳天に衝撃が走る。彼の知る籠地明治は、お世辞にも品行方正な青年とは言えなかったが、反面、決して無意味な暴力を振るうような人間ではなかった。あまつさえそれを平然と語るような人物ではあり得なかった。
もしかすると、いま目の前にいる人物はメイジの姿形を借りた全くの別人なのではないか。そのような疑念が生じるほど信じられなかった。
だが同時に“こちらのメイジこそが本来の彼に近いのではないか”という気持ちが、樹流徒の頭を擡げた。
随分前の話になるが、メイジは中学時代の途中から性格が変わり始めた。元々は誰よりも明るく活力に溢れ、学校ではクラスの人気者だったが、いつからか徐々に口数と笑顔が減ってゆき、教室の中でも目立たない存在になっていった。
今の彼からは、性格が変わる以前のメイジに近い雰囲気を感じるのだった。他人を暴力で傷つけたという点さえ除けば、以前の彼そのものと言っても過言では無かった。
樹流徒は不思議な懐かしさを覚える。幼い頃の親友と対峙している錯覚に襲われた。
だがその幻想はメイジの冷酷な言葉によって粉砕される。
「眼鏡の男はワザとトドメを刺さずに逃がしてやった。そうすれば仲間を連れてここに戻ってくると踏んでな」
彼は挑発的な笑みを絶やさない。ほとんどけんか腰だった。
「貴様」
令司が勢い良く抜刀する。メイジに刃を向けた。ふくら(刀の先端の曲線部分)に水色の光が走る。
「メイジ。一体どうした? 僕と別れてからお前に何があった?」
「放課後トークなら後でゆっくりしてやるよ。オレらの街にはもう朝も夜も無いからな。時間は腐るほどある」
メイジは黒衣を翻して教壇から飛び降りる。片足の爪先から綺麗に着地すると、静かな足取りで樹流徒の正面まで歩み寄った。
「けどその前に、そっちの殺気立ったサムライ野郎を黙らせねーと」
そして不敵な笑みを令司に向ける。
「望むところだ。来い」
令司は当然の如くメイジの挑戦を受けて立った。戦いの場を移すべく外へ向かって駆け出す。
喧嘩を売ったメイジは不敵な笑みを浮かべると、樹流徒の肩を叩いて彼の横を通り過ぎる。引き続き緩やかな足運びで令司の後を追った。
樹流徒は振り返ることが出来ない。背後から伸びる人影が消え去るまで、その場で棒立ちになっていた。
令司とメイジ。二人の青年が、背景の教会を挟んで対峙する。
樹流徒は駆け足で建物の中から出てきた。扉の前で足を止め、決闘の立会人になる。彼には二人の戦いを止める事が出来なかった。仮に止めに入ったところで、どちらの青年も言う事を聞くような玉ではない。
樹流徒に出来るのは、戦いの勝敗が決した時、敗者が致命傷を浴びる前に体を張って阻止することぐらいだった。もっとも、死によって雌雄が決すれば手遅れである。
「何故渡会を攻撃した? 貴様も人間ではないのか?」
戦いを始める前に令司が問う。それは樹流徒の疑問でもあった。普通の人間であるはずのメイジが、どうやって渡会と仁万を退けたのか? という謎も気になるが、先ずは彼が二人を襲った理由が知りたかった。
メイジは「さぁ?」と答えて、首を傾ける。やや血色の悪い唇から舌を覗かせた。答えをはぐらかす気すら無いようだ。
その態度がいよいよ令司の逆鱗に触れたらしい。戦いの火蓋が切って落とされる。
開戦の合図も掛け声も無いまま、令司が動く。彼はその場で刀を振り下した。三日月状に輝く光の刃が地面の草を刈りながら飛翔する。
メイジは動かない。もしくは意外な攻撃を前に動けなかったのだろうか。気だるそうに肩と腕をぶら下げて棒立ちになっている。
結果、先攻側が放った一閃は青年の左半身を肩から足首まで真っ直ぐに引き裂いた。
「ぎゃああッ」
メイジが激しい叫び声を上げる。それ以上に派手な鮮血が飛び散った。
「畜生! 痛てェ!」
彼はその場で両膝を突くと、悲痛な叫び声を上げて背中を折る。傷口を抱え込んで体を丸めた。
交戦開始から僅か十秒足らず……凡そ誰の目から見ても勝敗が決した瞬間である。
余りにも呆気ない幕切れに、令司は少し拍子抜けした様子だった。
「何故仁万と渡会はこの程度の敵に敗れたんだ?」
もっともな疑問を漏らす。
一方、樹流徒は冷静な観察眼で親友を見ていた。
メイジが大袈裟な言動を見せる場合、それはほぼ確実に“演技”である。樹流徒はそれを承知していた。伊達に子供の頃から何十回、何百回と親友の悪戯に付き合わされてきたわけではない。
メイジの傷口から滴る赤黒い液体が、草を濡らす。相当な出血量だ。偽者の血には見えなかった。
それでも樹流徒は確信する。彼は戯れているだけだ。きっと何かを隠している……と。
「八坂、まだ終わってない」
故に、令司に対して注意を促した。
「まさか。あの傷ではもうまともに戦えないはずだ。手当てでもしてやったらどうだ?」
刀を握り締めた令司は異論を唱える。相手が悪魔ではなく人間だけに、とどめを刺す気は無いようだ。
メイジが尻尾を出したのは直後だった。
彼は体を小刻みに振動させる。頭と肩を交互に揺らし、腹を抱えて蹲ったまま笑っていた。
樹流徒は内心で「やはり」と呟く。一体これから何が起こるのかは不明だが、メイジはこれっぽっちも追い詰められてなどいない。今までの展開は彼の余興に過ぎなかったのだ。
「何がおかしい? 痛みと恐怖で正気を失ったか?」
令司は顔をしかめる。
「いや。流石に相棒はオレのことをよぉく分かってると思ってな」
メイジの表情は嬉々としていた。段々と興奮を高めている様子だ。
「だが……たとえ樹流徒でもオレの全てを知ってるわけじゃない」
続いて意味深な台詞を吐く。同時に彼の身に異変が起こり始めた。
メイジの全身はみるみる血色を失った。かと思えば、肌の色が蒼白を通り越して濃い緑に変色してゆく。
続いて全身にストライプ柄の細い亀裂が入った。亀裂に赤い光が宿る。皮膚はメキメキと硬い音を立て始めた。
樹流徒が固唾を飲んで見守る中、メイジの体は尚もおぞましい変化を続ける。背中を突き破り、六本の太い蔓が飛び出したのである。その長さは七、八メートルくらい。各々が意思を持っているかの如く怪しく蠢いた。
最終的にメイジは人間とはかけ離れた姿に変貌した。触手を足に見立てると、まるで蜘蛛のような姿をしていた。