邂逅(かいこう)
ニつの影が街頭を疾走する。追い風すら背中に触れさせまいとするような速さで、周囲の景色を次々と抜き去っていた。
そのニつの影――樹流徒と令司が目指すのは市内の南西部、霧下岬。渡会と仁万を襲った謎の敵が待つ場所である。
「敵の悪魔……一体何者だろうな?」
樹流徒は隣を走る令司に声を掛ける。両者の髪は風圧で逆立っていた。
「認めたくはないが相当な実力者だろう。渡会は簡単にやられるような男ではないからな」
令司はしかめ面をする。元々悪魔とは因縁浅からぬ青年だが、今回組織の仲間を傷付けられたことで、彼の悪魔に対する怒りや憎しみはより一層強固になったはずである。
樹流徒は令司の言葉に頷いて、以後しばらく閉口した。
どれだけ速く走っても樹流徒の視界には常に悪魔の姿が映る。それは令司も同じに違いない。もし可能ならば手当たり次第悪魔の存在を消し去りたいのが彼の本音だろう。だからといって目に付いた悪魔全てを相手にしていたら時間が幾らあっても足りない。それより目的地への到着が優先だった。だから令司も苦々しい顔をしながら余計な戦闘を避けている。
ただし、今に始まった事ではないが避けられない戦いもあった。敵から襲撃を受けて逃げられない状況ならば応戦を余儀なくされる。
ひとたび戦いが始まれば令司は非情な戦闘マシーンと化した。鬼の形相で悪魔を斬り捨て、明らかに瀕死の敵に対しても躊躇い無く刀を振り下ろし、逃走を図る者は決して逃さない。良くも悪くも隙の無い戦いぶりだった。彼の奮闘により樹流徒の出番は殆ど無かった。
市民が遺した私物や無人の乗り物が散乱した障害物だらけの険路を踏み越え、いつどこから襲い来るかも分からない悪魔をやり過ごし、そして時には戦いを強いられながら、二人は順調に目的地へと近付いてゆく。疾風迅雷の勢いを保ち続けていた。目的地で待つ敵への怒りがそうさせたのかもしれない。
ところが、その勢いが突として途切れた。それはとある大通りの中を進んでいる最中。前方でニつの大きな影が躍動しているのに気付いて、樹流徒たちは足を止めた。悪魔同士の小競り合いならば無視して通り過ぎるところだが、どうも様子が違う。現場から殺気が溢れていた。小競り合いなどという生易しいものではない。間違いなく命の奪い合いが行われていた。
前方のただならぬ雰囲気に警戒を強めた樹流徒は軽く跳躍して車の上に乗る。姿勢を低くして、うっすらと漂う霧の向こうを凝視した。
遠くで暴れている影の正体が見えてくる。悪魔と鬼だった。デウムスと赤鬼がスクランブル交差点の中をリングにして激しい取っ組み合いを展開している。
「奴ら、もしかして敵対しているのか?」
令司が独り言を呟く。
樹流徒は、詩織から聞いた話を思い出した。“現世を訪れた悪魔が鬼の襲撃を受けた”という情報である。それが今現実に目の前で起こっていた。やはり鬼は、悪魔に反目する存在らしい。
息を殺して樹流徒たちが見守る中、異形の者同士の攻防はすぐに決着を迎える。
デウムスが鋭い爪を立てて、相手の顔を無造作に引っ掻いた。鬼が怯んだところへ至近距離からの火炎弾を見舞う。鬼の鳩尾で火の粉が飛び散った。
対する赤鬼は、連続攻撃を食らいながらもデウムスの頬を殴りつける。相手の体を大きく揺り動かした。が、腕を振り抜いた勢いそのまま前のめりに倒れて動かなくなる。
絶命した鬼の全身は、発火して溶解すると、液状になってアスファルトの上に広がった。魔魂は発生しない。人間とも悪魔とも違う死に方をする生物の残骸を見下ろして、デウムスは戦いに勝利したにもかかわらずどこか恐怖めいた顔をした。
その表情をぶら下げたまま、デウムスはどこかへ去ろうとする。最後に食らった一撃が相当効いているようだ。上半身は左右に揺れ千鳥足だった。
今までジッと戦いを見ていた令司が物陰から飛び出す。彼は道路上で停止している車両の隙間を縫い、あっという間にデウムスの背後を取った。振り返った敵の喉元に刀の切っ先を突きつける。
「答えろ。今、貴様と戦っていた生物は一体何者だ?」
そして射殺すような目で詰問した。デウムスを脅して鬼の情報を得ようというのだろう。
「知るか! 今は見逃してやるからさっさと失せろ、天使の犬め」
デウムスは手の甲を使って、喉元に突きつけられた刀を軽く払いのける。交戦を嫌っているのが一目瞭然だった。
しかし、例え相手に交戦の意思がなかろうと令司には関係ない。彼は刀を振り払い無防備なデウムスの巨体を横一閃切り裂く。「もうお前は用済みだ」と言わんばかりの、見ようによっては無慈悲な斬撃を加えた。
デウムスは傷口を抱え込み、短い悲鳴を上げて倒れる。その巨体が消滅を始めたとき、樹流徒が令司に追いついた。
「やはり相手が悪魔なら誰であろうと許せないのか?」
樹流徒は令司に問う。
今、デウムスに交戦の意思は無かった。向こうから攻撃を仕掛けてきたわけでもない。にもかかわらずどうしても殺す必要があったのか? 聞かずにはいられなかった。
「当然だ」
令司は冷ややかだった。
「奴らはその名の通り悪魔なんだぞ。存在そのものが悪なんだ。許す必要など無い。これは俺個人の感情でもあるが、組織の基本的な姿勢でもある」
彼は断言すると刀を鞘に収める。そしてデウムス魔魂を吸収する樹流徒から視線を外した。
「相馬。俺に言わせればお前のほうが異常だ」
「え」
「お前も魔都生誕の被害者だろう? その割には悪魔に対する憎しみが薄いように感じるのは、単に俺の気のせいか?」
「それは……」
樹流徒は言葉に詰まる。今度は彼が視線を逸らす番だった。
市内の最南端には、ベヒモスとレビヤタンが壮大な相討ち劇を演じたことで記憶に新しい広大な浜辺が横たわっている。
そこから西北西へ五キロくらい進むと、陸地の突端が存在した。県地図で見ると内側に窪んだ陸に細長い台形が突出したような形をしている。それこそが霧下岬だった。
岬は、年中潮風に晒されながらも逞しく背を伸ばす緑青色の雑草と、妙な空色を映した海に囲まれていた。水平線は結界から漏れ出す霧に隠れている。奇妙ながらも詩情を刺激される美しい光景である。
そこに一点の純白が存在した。屋根に銀色の十字架を戴く小さな教会だ。壁の状態から判断するに、真新しい建物だろう。
その教会を正面に見据える場所に、樹流徒と令司は到着した。
彼らの元に届くのは、海から吹く寒風と磯の香りばかり。珍しく周囲に悪魔の姿が見えないせいだろう、樹流徒は物々しさよりも多少の侘しさを感じた。
「敵は教会の中かも知れないな」
「ああ。魔空間の発生も有り得る。警戒を怠るなよ」
二人は言い合って、歩を進める。
令司はここまで移動してくる間に頭が冷えたのだろう。樹流徒に対する態度は幾分柔らかさを取り戻していた。
彼らは揃って教会入口の前に立つ。両開きの木製ドアは閉じられていた。
樹流徒はニつのノブを同時に掴んで、慎重に引く。蝶番が怪しい声で鳴いた。
扉の隙間から外明かりが飛び込む。それは樹流徒たちの正面を走る真っ赤な絨毯を直進し、ぼんやりと紫色を浮かび上がらせた。
教会の中は一見魔空間が発生している様子は無い。ただ、二人は扉の間に挟まれたまま身動きを止めた。
樹流徒の視線は教会内部の最奥に向かう。そこに人の形をした隻影が存在していた。
謎の人影は、浮世離れした漆黒の衣装を全身に纏い、教壇の上に腰掛けていた。腕と足を組み、まるで樹流徒たちが現れるのを待ち構えていたかのような姿勢を取っている。それとも寝ているのだろうか。頭を深くうなだれているため、樹流徒の位置から相手の素顔を確認する事は出来ない。
「あれが仁万と渡会を襲った悪魔か?」
令司が刀の柄に手を掛ける。
樹流徒も全身を微妙に緊張させた。拳を軽く握り締める。
各々、足を一歩前に踏み出した。
二人の挙動に応じて、黒衣を纏った人影も動きを見せる。深く沈んでいたゆっくりと頭を持ち上げた。虹色に輝くステンドグラスを通過した光が、その横顔を冷たく照らし出してゆく。
樹流徒の全身を衝撃が駆け抜けた。
驚きの余り声を上げる事すらできない。瞳孔は全開になり、握り締めた指先から力が抜けてゆく。息をするのも忘れた。心音だけが力強く急速に加速する。
「どうした? 奴の事を知ってるのか?」
樹流徒の異変に気付いたのだろう。令司が声を掛ける。
樹流徒は無言で首肯した。
そう。彼は、眼前にいる人影と面識があった。
教壇に腰掛けていたのは悪魔などではない。人間の青年だった。
天に逆らって伸びる髪。強気な瞳。そして倦怠感漂うダラリと下げた肩と腕。
樹流徒だけは彼の顔を、彼の姿を、見紛うはずが無かった。
何しろ……唯一無二の親友なのだから。
「メイジ……」
湧き上がってくる名状し難い感情に心を揺さぶられながら、樹流徒はどうにか言葉を発する。思わぬ場所で巡り合った友の名を呼んだ。