コロンブスの卵
悪魔倶楽部はしとやかなムードに包まれていた。上品ないでたちの客が訪れたわけでもなく、店の内装は従来通り不気味な意匠が凝らさている。にもかかわらず、店内の雰囲気がいつもより華やいでいた。風雅と言えば些か誇張になるだろうか。
異形の生物が一体、奥まった場所に佇み壁を背負っている。
馬の頭部を持った悪魔だ。ただし普通の馬とは少し違う。額から伸びた立派な角が天井を指していた。所謂一角獣だ。首から下は人間に近い形をしているが、全身を白い毛に覆われている。使い古された感のある厚手のマントは尻の辺りで若干膨らんでいた。きっとその下には尻尾が隠れているのだろう。
壁に寄りかかったユニコーンの悪魔は、腹の前で弦楽器を抱えている。その楽器は大きさといい弦の本数といい、一般的なギターとウクレレの丁度中間に位置するような外観を持っていた。
悪魔のしなやかな5本の指が楽器の弦を弾き、信じられないほど美しい旋律を奏でている。それが店内の雰囲気をいつもより少し華やかにしているものの正体だった。
間もなく、美しい旋律は終わりを迎える。
最後の音色が空気の振動を止めると、悪魔倶楽部は忽ち妖気漂う本来の姿を取り戻した。
客の数は四名。ユニコーンの悪魔を除けば三名。彼らの雄叫びと称賛の声が店内に鳴り響いた。もし店の中が客で充満していれば、以前詩織が歌を披露したときよりも盛大な喝采になっていたかもしれない。
ユニコーンの悪魔に対する歓声が止むと、時を合わせるかのように店の入り口から風が吹き込んだ。
独りでに開いた扉の向こうで、黒い空間が揺らめく。その奥から樹流徒が姿を現した。
途端、どこかの客席から殺気が漏れる。人間嫌いの悪魔がいるのだろうか。しかし殺気はすぐに鎮まった。
「シオリ。待ち人が現れたぞ」
定位置とも言えるカウンターの奥で仁王立ちするバルバトスが、横目を使って隣の少女を見た。
そのとき詩織は足下に目を落としていた。灰猫グリマルキンが皿に盛られた残飯を平らげてゆく様子を眺めていたのだろう。
しかしバルバトスから声を掛けられると、詩織はさっと顔を上げた。瞬間的に大きく見開かれた黒い瞳が店の入口に立つ樹流徒の姿を捉えた。
樹流徒もまた詩織の存在に気付く。肩から余分な力が抜けてゆくのを感じた。現世に向かったまま安否不明だった詩織の無事を確認できたことで、心に引っかかっていたモノが一つ外れた。
二人は店の入口付近で向かい合う。
詩織は手櫛で髪をさっと整え
「お帰りなさい。相馬君」
相変わらず抑揚の無い顔つきと声遣いで、樹流徒を迎えた。
「伊佐木さん。無事で良かった」
心からそう言うと
――オマエたち。今後、喋る時は客席を使え。
バルバトスの大声が割って入る。樹流徒たちに対する厚意か、それとも単に樹流徒たちが店の入り口に立っていると客の通行の妨げになると思ったのか。
どちらにせよ、樹流徒たちはバルバトスの言葉に従った。
丁度すぐ傍の席が空いていたので、そこに腰掛ける。
間髪入れず、樹流徒は話を再開させた。
「君と別れた後、色々あって、なかなかここに戻って来ることができなかったんだ」
本当だったらレビヤタンを討伐したあとすぐに悪魔倶楽部を訪れるつもりだった。
詩織は「分かっている」と言いたげに目配せする。
「ええ。多分何か事情があるのだと思っていたわ。でも、アナタは必ず生きていると信じていた」
「こっちは正直心配していたよ。現世に行ってるあいだ、怪我とかしなかったか?」
「大丈夫。寧ろ精神的には良かったくらい」
「そう。なら良かった」
「……」
「……」
沈黙……。樹流徒は日常生活の中で他人と会話をする場合、聞き手に回ることが常である。無口ではないが基本的に口下手だった。恐らく詩織はもっと口下手ではないだろうか。そんな二人が会話をすれば、しばしば話の流れが途切れてしまうのも仕方がなかった。
客席からナイフと皿の擦れる音が漏れる。グラスの裏がテーブルを叩く音も聞こえた。
先ほどまで店内に流れていた美しい旋律の余韻はもう完全に消えている。弦楽器の演奏を終えた一角獣の悪魔は、カウンター席で酒を煽り始めていた。
ややあって、樹流徒がもう一度口火を切る。
「次、伊佐木さんに会えたら、お礼を言おうと思ってた」
「え」
詩織は少しだけ顔を上げて、前髪をそっと揺らした。
「もし君の未来予知が無かったら、今頃僕は死んでいた。それに君が現世に向かってくれなければベヒモス召喚は間に合わなかったかもしれない」
「相馬君。先にマモンの手から助けて貰ったのは私。だから、別に……」
詩織は言葉に詰まった。やや俯き加減になったその顔は、どことなく面映げだ。樹流徒が知る限り珍しい反応である。
「そうだ。今回も新しく報告したいことがあるんだ」
「本当? よければ聞かせて」
「ああ。何から話そうか」
樹流徒は記憶を掘り起こし、未だ詩織に伝えていない情報を語り始めた。
詩織と別れた後、ベヒモス召喚に成功してレビヤタンを退けたこと。その後すぐに気絶してしまったこと。
目が覚めたら組織のアジトで寝ていたこと。隊長の砂原、仁万、そして渡会との新たな出会い。組織の協力者として認められたこと。
イブ・ジェセルのメンバーは、天使から洗礼を受け、悪魔に対抗する力を有していること。
赤い翼を生やした狼の悪魔マルコシアスとの二度に渡る戦闘。バフォメットの羽を使うことで飛行が可能になったが、まだ上手には飛べないこと。
スタジアム潜入作戦の話。豹頭の悪魔フラウロスとの死闘。市民の死体を生贄に捧げる儀式の目撃。その儀式は何かの封印を破壊するためのものであること。儀式の阻止に失敗したこと。令司と協力してスタジアムから脱出したこと。
そして謎の生物・鬼の出現について。彼らによってアジトが破壊されたため、予備のアジトに移ったこと。
樹流徒は、思い出せる限り全ての情報を、詩織に伝えた。
そんな中、たった一つだけ……八坂兄妹が抱える事情だけは、敢えて伏せておいた。特別話す必要があるとは思えなかったし、第一極めて個人的な話だからである。八坂兄妹本人が語るならまだしも、他人がおいそれと口外して良い話では無かった。
「最後にアナタと別れてから今までの間に、それだけ色々な出来事があったなんて」
全ての話を聞き終えた詩織は、テーブル上を見つめる。樹流徒の話を一生懸命記憶しているのだろうか。何か考え事をしているようにも見えた。
かたや、樹流徒は眉根を寄せる。
「ああ。確かに君の言う通り、色々あった……。でも」
「でも?」
詩織の視線が、テーブル上から樹流徒の顔へ移った。
「色々あったにもかかわらず、果たして僕は少しでも魔都生誕の真相に近付けているんだろうか?」
弱音混じりの疑問が樹流徒の口から漏れる。
言わずにおれなかった。幾度となく激しい戦いに身を投じた結果、肝心の情報が得られていないのである。前向きな気持ちを維持し続けるのは難しかったし、つい弱音の一つも零れてしまうというものだった。
「確かに、あの忌まわしい事件に直接結びつくような情報は、今のところ無いものね」
まず初めに同意して、詩織はそっと瞼を下ろす。
「でも、私……アナタはちゃんと真実に近付いていると思う」
続いてそう言うと、閉じたばかりの瞳を開いた。
「だといいんだが」
多分、気休めだろう。
樹流徒はそう感じた。詩織が自分に気を遣ってくれたのだと察した。
それが見当違いだと分かったのは直後。彼女の言葉は決して気休めなどではなかった。
詩織は、樹流徒が事件の真相に近付いているという根拠を語り始める。
「確かにアナタは魔都生誕に関する直接的な情報は得られていない。でも、とても関係がありそうな情報ならば得ているわ」
「それは、鬼のことを言ってるのか?」
「それもあるけれど……。私が言っているのは、現世で儀式を行っていた悪魔たちのことよ。彼らが事件と関係がある可能性はとても高いと思う」
「どうして?」
「相馬君が目撃したという儀式には、市民の遺体が利用されていたのでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、悪魔が生贄を簡単に集めることが出来たのは何故?」
「それは勿論……」
そこまで言って樹流徒は「なるほど」と呟いた。
詩織が何を言いたいのか、それに気付いたのだ。しかもそれは先程まで樹流徒の奥歯に挟まっていた魚の小骨であった。それが今、取り除かれる。
悪魔たちが生贄(市民の遺体)を楽に入手出来たのは何故か?
答えは当然、市民が死んでいたからだ。もし市民たちが生きていれば、悪魔に抵抗するなり逃げるなりしていただろう。その場合、悪魔たちがイブ・ジェセルの目を盗んで遺体を収集したり儀式を行う事は、かなり困難である。
では次に、市民たちの死因は何だったか? 考えるまでも無い。魔都生誕の影響である。
それらの事実から導き出せる仮説。
もしかすると、魔都生誕とは“現世と魔界を繋ぐと同時に、悪魔が効率よく人間の体を集めることができるよう市民を皆殺しにするための現象”だったのではないだろうか。
市民の全滅は単に魔都生誕の結果ではなく、実は目的だったことになる。この推測が正しければ、詩織が言う通り、儀式を行っていた悪魔たちは事件と繋がっている。ほぼ間違いない。
気付きさえすれば実に簡単な話だった。しかし同時に盲点でもあった。組織のメンバーと話し合っている最中、誰もこのことに言及しなかったのが良い証拠だ。
「そもそも生贄に市民の遺体を使うという時点でおかしいのよ。まるで大量の人間が手に入ることを予め知っていたみたいじゃない」
「ああ。言われてみればそうなんだよ。この短時間でよく気付いたな」
樹流徒は素直に感心して、瞳の輝きを増した。
現世で儀式を行っている悪魔を追いかけることが、魔都生誕の真実を暴くことに繋がる。その可能性が一気に高まったのだ。勃然と全身にやる気が漲った。
「役に立てたのならば良かった」
詩織はわずかに頬を緩める。
その変化を、一人意気に燃える樹流徒は気付かない。
彼の心が落ち着きを取り戻した時、少女はすでにいつも通りの表情をしていた。