魚の小骨
新しい服に身を包んだ樹流徒は、組織のメンバーを捜すことにした。
まずは仁万と渡会に顔を見せて、自分たちが生存している事を知らせる。それが済んだら、次はスタジアムで得た情報を隊長に報告。この手順を踏むのが最良に思えた。
前方には受付と廊下、すぐ左手には階段が見える。また、右手には小さな台が佇んでいた。その上には今時少し珍しい黒電話が置かれている。ほかにこれと言って目に付くものは無い。
樹流徒は受付の前を横切って、板張りの廊下を進んだ。
大股で十数歩も行けば突き当たりのトイレで立ち止まる事になるが、途中、引き分け式の襖が壁に貼り付いていた。
襖はきっちりと閉じられている。向こう側から人の話し声が聞こえた。笑い声は無いが、小さく弾む声や気だるそうな声が飛び交っている。雑談でも交わしている様子だ。
樹流徒は引手に指をかけて、襖を開く。その先には四十畳くらいの座敷が広がっていた。奥に連なる障子が一部開け放たれ、そこから外の光が入り込んでいる。悪魔の目があることを考えれば些か無用心と言えなくもない。
この部屋に組織の面々はいた。八坂兄妹を除いた五人全員が揃っている。
お陰で、樹流徒は彼らを一人ずつ探す手間が省けた。
「やあ、お帰り。必ず戻るって信じてたよ」
今回も樹流徒の登場に逸早く反応した南方が手を振る。水色の光を背負って胡坐をかき、相変わらず緊張感に欠けた表情をぶら下げていた。
多少は賑やかそうだった座敷の中が、水を打ったように静まり返る。
十の瞳から注目を浴びる中、樹流徒は敷居を跨いだ。
「ここの場所が分かったってことは、八坂に案内して貰ったんだろ?」
渡会が尋ねる。廊下側の壁に背を預け、顔だけを樹流徒の方へ向けていた。
樹流徒は首肯する。「八坂は今、妹さんと一緒にいます」と伝えておいた。
「そうか。では、これで全員が揃ったことになるな。死傷者が出なくて何よりだ」
隊長の砂原が白い歯を覗かせ、野性味溢れる笑みを浮かべる。
何度見ても熊のような大男だった。上座にどっしり腰を下ろす姿がとても様になっている。床の間に吊るされた松と雀の掛け軸が、彼の風格を一層引き立てていた。
「相馬君の生存は絶望的だと、つい先程仁万から報告を受けたばかりだ」
砂原はそう言って、笑顔から一転、少し真面目な顔つきになる。
渡会の隣に立つ眼鏡の男が、申し訳無さそうな顔をした。
「済まない相馬君。僕が最後まで悪魔を引き付けておけなかったせいで、敵の大群が一斉にスタジアムへ向かってしまった。だから、君はもう助からないと判断してしまったんだよ」
「実際、八坂が来てくれなければ危なかったです」
「そう……。そうなんだ。兎に角、無事で良かったよ」
仁万は笑顔で頷く。
一見爽やかな表情だった。とても樹流徒を罠にはめた男の顔には見えない。
「オレも可能な限り時間を稼いだが、弾薬が切れた途端にキツくなってよ。その後は自分が逃げ延びるので精一杯ってトコだ」
渡会がやや早口になって喋る。彼のジャケットには無数の穴と傷が散在しており、悪魔との激闘ぶりを物語っていた。ただし、本人の体にはかすり傷ひとつ見当たらない。
「けど、相馬も八坂も、よく無事だったな」
「スタジアムの出口に敵が一体もいませんでしたから。運が良かったです」
「何?」
仁万は驚きの表情を隠さない。
「それ変じゃねェか? 確かにスタジアム周辺の敵は間の抜けたヤツらが多かった。だが一体残らず建物内に突入するほど馬鹿じゃないだろ。何体かは外で待ち伏せていたはずだ」
渡会が不思議そうに言った。
もっともな指摘だったが、樹流徒が嘘をついてるわけではない。間違いなくスタジアムの外に悪魔はいなかった。その事実は令司も目撃している。彼がこの場にいれば不本意そうな顔をしながらも樹流徒に味方をしていただろう。
「ま、細かい事は良いじゃないの。全員無事でなによりってことでさ」
南方が気楽そうな声色で場を収束させようとする。
「同感だ。いくら考えても想像の域を出ないような話は後回しにすべきだ」
ハードパーマの女、ベルが同調した。彼女は畳の中央で足を伸ばしている。
「それより、相馬の記憶が少しでも鮮明な内に、スタジアムで獲た情報を聞かせて貰った方が良い」
「僕もそのつもりでした」
ベルの要求に応えて、樹流徒はスタジアム内で起きた惨劇について語り始める。
途中早い段階で、妹を寝かしつけてきた令司も加わった。
「なるほど。市民の遺体は儀式に利用するために集められていたのだな」
話を聞き終えて、砂原はやや渋い表情をする。
「まさに悪魔の所業ってヤツだな」
渡会も顔をしかめた。
「大掛かりな儀式ほど沢山の生贄、希少性の高い生贄が必要になる。それでも、人間の遺体を数十、数百単位で使う規模の儀式なんて、聞いたことがないな」
そう冷静に語るのは仁万。
彼の言葉に数人が相槌を打った。
「ちょっと話が逸れるけど、バフォメットも村雨病院で同じ儀式を行ってたんじゃないかな?」
南方が多少根拠のある憶測を語る。
「そうだな。相馬君の話によれば、バフォメットは“一つ目”、フラロウスは“ニつ目の封印”という言葉をそれぞれ遺している。両者は連続したものだと考えられるだろう」
砂原が同意した。
「じゃあ、多分“次”もあるんだろうよ」
と、ベル。指先で髪を弄りながら、とても面倒臭そうな表情をしている。
「ああ。第三の封印が存在し、悪魔がそれを破壊しようとしているのは、ほぼ間違いない」
「全ての封印が破壊されたら一体何が起きるのか……。儀式の規模を考えると、想像したくもねェな」
渡会は首を横に振って、明るい茶髪を揺らした。
「当然、我々は悪魔の企てを阻止する。ただ問題なのは、次の儀式がいつ、どこで行われるのか分かっていないことだ」
砂原は腕を組み、人差し指で二の腕を叩く。トントンと律動的なリズムを刻み始めた。
「取り敢えず確かなのは、ここでジッとしててもなーんも分かんないってコトくらいかな」
「珍しく良いことを言うじゃないか南方。では、お前の情報収集に期待させて貰うとしようか」
「あ。何かヤブヘビだったっぽい」
南方は微苦笑する。
「次の行動方針が決まったね。一刻も早く敵の動向を調べ上げよう」
緩みかけた場の空気を仁万が引き締めた。
「悪魔についての話し合いはここまでだな。議論すべき事はまだ残っている。そちらに移ったほうがいいだろう」
続いて令司が進行役を務める。
「ん? これ以上何か話すことなんてあったかな?」
南方は大袈裟に目を丸くした。
「あ、もしかして夕飯何にしようかって相談? だったら俺、リブロースステーキとか食いたい気分なんだケド」
「夕飯って……。今、早朝五時だぞ。それに肉なんてあるわけないだろ」
ベルはほとほと呆れた様子だ。
「議論すべき事というのは、前のアジトを破壊した“鬼”の件だな?」
砂原が問うと、令司は首肯した。
「今、奴らについて分かっていることは三つある」
熊の如き大男は序論を述べながら、腕組みを解く。
そして、現時点で鬼もどきに関して判明している事実を一つずつ語り始めた。
内容は以下の通り。
一つ。あの生物は悪魔ではない。死亡時に魔魂を放出しないのがその根拠である。
ニつ。あの生物は複数のタイプが存在する。いずれも優れた肉体を持ち、戦闘力は悪魔にもひけを取らない。ただし知能は平均的な悪魔よりも低く、また、人間の言葉は通じないものと思われる。
そして三つ。あの生物は鬼と呼ぶのにこの上なく相応しい外見を持っている。
「この非常時に鬼もどきの出現とはね。正直、頭が痛いな」
仁万は眉間に浅いしわを寄せた。
「改めてこの場で伝えるが、便宜上、我々は謎の化物を“鬼”と呼称する。奴らの正体が判明するまではな」
砂原が決定を下した。
「鬼の出現は悪魔と関係があるのか?」
渡会が誰にともなく尋ねる。
数時間前、樹流徒も口にした疑問だった。
「それを判断するには材料が不足している。今の段階で言えるのは、鬼の出現と魔都生誕は関係があるかも知れない……程度の事だ」
「判断材料の一つやニつ、南方がすぐに見つけて来てくれるだろ」
ベルが悪戯っぽい笑みを浮かべる。嘲笑しているようにも見えた。
「カンベンしてよベルちゃん。俺が探すの得意なのは、食べ物の美味しい店と、可愛い女のコの噂ぐらいだよ」
南方がおどけると、メンバーの間にささやかな笑顔がこぼれた。
「さて。それは冗談として、地道な調査が必要なのは事実だ」
砂原は立ち上がり、メンバーたちの顔を見回す。
「いや。冗談じゃないんだけどね」という南方の小声は、誰にも拾われなかった。
「では、仁万と渡会。それにベルと南方。この2組は早速今から情報収集に当たってくれ」
「隊長はどうするんです?」
仁万が問う。
「俺はアジトで待機だ」
「え。隊長また待機組? ずるいぞー。ぶーぶー」
三十歳前後の男が、子供みたいに不満を漏らす。
「まあ、そう言うな」
砂原は軽い笑みで受け流した。
「隊長は複数の鬼相手に一人で戦ったからな。それに、太乃上荘からここまで移動してくる間にも悪魔と戦っている。待機組に入るのは妥当だろ」
ベルが擁護すると、南方は「それもそうか」とあっさり引き下がった。
「それじゃ、もうひと頑張りするか」
渡会は床に手を着いて、逞しい体をぐっと持ち上げた。
「そうだね。僕たちはこの情報収集から帰ったら休ませて貰おう」
仁万も動く。二人は揃って座敷を出て行った。
続いて南方とベルも立ち上がる。
その拍子、女ははたと思い出した様子で樹流徒に尋ねた。
「そうだ。確かアンタには独自の情報網があるんだったよな?」
「ええ」
「何か新しい情報は入ってないのか?」
「ありません。レビヤタン戦以降、自由な時間がありませんでしたから」
「言われてみればそうだったな」
ベルは樹流徒から視線を外す。
それからすぐ南方の背中を追ってその場を去った。
人が減って、元々余裕のあった空間が更に広くなった。
樹流徒、砂原、令司の三名しかいない。
静まり返った部屋の中、樹流徒は少し難しい顔で畳に視線を落とす。浮かない表情だった。
というのも、自分たちが何か重大な見落としをしているような気がしてならなかったからである。
とても単純だけど、大きな見落とし……。しかしその正体が何なのか分からない。魚の小骨が奥歯に挟まったような、非常にもどかしい気分だった。
もっとも、数十分後にはその小骨が取れることになる。
ここではなく、悪魔が集う店――悪魔倶楽部で。
「では君たちは今からしばらくの間自由にしてくれ。スタジアム潜入という非常に危険な役目、ご苦労だった」
砂原が、樹流徒と令司に労いの言葉を掛ける。
「はい」
「ああ」
二人は声を重ねて返答した。
「そうだ。言い忘れるところだった。このアジトには相馬君の部屋も割り当ててある。二〇六号室だ。自由に使ってくれ」
「ありがとうございます」
「八坂はどこでも好きな部屋を選ぶといい」
「了解した」
「次は仁万と渡会に休憩を与えねばならないからな。君たちは今の内にしっかりと休んでおいてくれ」
それを告げると、砂原は大きな体をその場に横たえる。畳に肘をついて目を閉じ転寝を始めた。
令司はすぐに座敷から出てゆく。妹の様子を見に行くのだろうか。足取りが速い。
樹流徒もジッとしている理由は無かった。それどころかようやく悪魔倶楽部へ行く機会を得たのだから、今すぐにでも駆け出したいくらいである。
多少逸る気持ちを抑えながら、彼は静かに踵を返した。