鬼もどき
「悪魔じゃない?」
樹流徒は鸚鵡返しに尋ねる。その間も謎の巨人に対する警戒は怠らなかった。
「ああ。あんなヤツは実物も資料でも見たことが無い」
令司もまた身構えたまま返答する。
「それとも俺が知らない悪魔なのか?」
続いて、独り言を漏らした。
謎の生物は、樹流徒たちと遭遇した途端、大地に根を張る巨木の如く突っ立ったまま動かなくなった。暴れ出したり二人に襲い掛かろうとはしない。薄く開いた口から微かに紫がかった毒々しい息を漏らしていた。眼球は白目を剥いており、虹彩も瞳孔も存在しないその双眸が一体何を捉えているのか、傍目には分からない。
果たして相手に交戦の意思は有るのか。樹流徒には判断しかねた。
ただ、それとは別に、先程から巨人の姿にどうも見覚えがあった。樹流徒でなくとピンと来たはずである。と言うのも、謎の巨人は多くの日本人にとって少なからず馴染みのある姿をしていた。
それは“鬼”である。
鬼と言えば、日本の童話や民話などにしばしば登場する生物だ。大きくて強い体を持ち、粗暴な振る舞いで人々を困らせ恐怖させる存在……というのが最も一般的なイメージではないだろうか。
樹流徒たちの前に佇んでいる巨人は、その鬼を連想させるのにこの上ない外見をしているのである。
「鬼……なのか?」
樹流徒が口にすると
「あり得ん」
令司が直ちに否定した。
鬼の正体については、神であったり怨霊であったり、はたまた人の負の感情を具現化したものであったりと諸説ある。いずれも非科学的な存在の枠組みを出ない。
一方、実在したと思われる鬼もいる。彼らは古代日本史における異邦人や朝廷の敵、それから特定の職業人(鍛冶師)などを指していたと考えられている。
しかし現実の二〇一二年に鬼などいるはずが無い。
令司はそのように考えているのだろう。
果たしてそうだろうか? 鬼が実在しないと言い切れるのか?
樹流徒は内心で反論する。つい最近まで空想の産物だと信じて疑わなかった悪魔がいたのだ。ならば鬼も……という単純な道理が、彼の脳裏に浮かんだ。
現に、正体不明の巨人はすぐ目の前にいる。令司が「悪魔ではない」と言った。それらの事実はどうあっても覆せない。
二人の青年と“鬼もどき”。互いが互いを間近で観察し合うような、奇妙な状況が続く。その構図は蛇と蛙の睨み合いに似ていた。どちらが蛇かは分からない。
そんな中、前触れも無く沈黙を破ったのは令司だった。痺れを切らせたのだろう。
「貴様は何だ! 俺たちのアジトを破壊したのは貴様か?」
言葉が通じるかも分からない相手に向かって素性を問い質す。激しい口調だった。
恐らくそれが引き金となった。
巨人が砲声のような雄叫びを轟かせる。次に、四股を踏んでアスファルトにヒビを入れた。亀裂に両手の指を突っ込んで、地面を深々と抉り取る。人間の胴体くらいの大きさがあった。それを頭上に掲げ、樹流徒たちめがけて投げつけた。
土とアスファルトの塊は、二人の目線よりも高い位置から投擲され、丁度樹流徒の頭上に落下する。
樹流徒は魔法壁で攻撃を弾き返した。虹色の壁と接触した地面の塊は粉々に砕け散る。
その時にはもう令司が神速で抜刀し、地面スレスレを高速で飛翔していた。
鬼もどきは太い幹のような腕を大きく振りかぶると、向かってくる零時に拳を落とす。
だが、如何に体重を乗せた強烈な一撃も命中しなければどうということはない。
大きな拳が空を切っている間、令司は攻撃をかいくぐり敵の胴を深く切り裂いていた。
人間と同じ真っ赤な血潮が、ひび割れた地面を濡らす。数滴の返り血が令司の頬や鼻頭にも飛び散った。
鬼もどきはまたも咆哮する。悪魔に劣らぬ、耳を劈く絶叫が空気を振動させた。
それを間近で聞いても令司は眉ひとつ動かさない。返した刀を敵の胸に突き立てた。
巨人が前のめりに倒れる。今度は小さな悲鳴も上げない。樹流徒の目には即死に見えた。
令司は、敵の体に押し潰されるよりも早く後方へ跳ねる。着地すると、服の袖を使って顔に飛び散った返り血を拭った。
「初手合わせの相手だから一応警戒したが……大した事なかったな」
淡々と言って、刀を振る。緑がかった光がつむじ風のように渦巻いて刀身に纏わりつく。刀に貼り付いた血糊を勢い良く弾き飛ばした。
「見ろ、八坂」
樹流徒が努めて落ち着いた口調で注意を促す。
彼が見つめる先、地に伏した鬼もどきの全身で黒い炎が揺らめいていた。
かと思えば、鬼もどきは泥のような液体となって大地に広がり、染み込んでゆく。炎はすぐに跡形も無く消えた。ロウソクが溶けてゆく過程を早送りで再生したような光景だった。
魔魂は発生しない。悪魔が死ぬ時とは何もかも様子が異なっている。
「やはり悪魔ではなかった」
令司は今こそ断言した。
「僕たちに襲いかかってきたということは、敵なのか?」
「さあな。でも、到底味方には見えなかったぞ」
「悪魔や魔都生誕と関係あるんだろうか?」
「今の化物が現れたタイミングを考えれば、悪魔はともかく、魔都生誕とは“関係ある”と言わざるを得んだろう」
「ああ。僕もそう思う。どんな関連性があるのかは皆目見当もつかないが」
樹流徒は鬼もどきが立っていた場所を見つめる。
割れたコンクリートは未だ赤い涙を流していた。
太乃上荘から東へ約十キロ。そこから更に南へ約四キロ進んだ地点。
そこには、これといった特徴を挙げるのが難しい平々凡々たる街並みが広がっていた。
もっとも、それは魔都生誕以前の話である。現在は悪魔のせいで荒廃した景色が否応無しに目についた。それでなくとも人がいなければ如何なる大都市も寂れて見えるものだ。
その空虚な町に、とある古びた旅館が建っていた。外壁はかなり傷んでいるが悪魔のせいではなく単に老朽化が進んでいるだけのようだ。
建物脇ののぼり旗には、黒い太字で“狐湯の里”と印刷されている。
一般道に面したその旅館は、両脇を民家に挟まれて少し窮屈そうにしていた。控えめな佇まいをしているため、初めてこの土地を訪れた宿泊客がうっかり通り過ぎてしまってもおかしくない。
令司によれば、この“狐湯の里”が予備のアジトだという。何らかの事情により太乃上荘が使用できなくなった場合はここに集まるよう、あらかじめ取り決められていたとのことである。
「ここが新しいアジトなのか?」
たった今ここに到着した樹流徒は、眼前に建つ宿の全貌を眺めながら尋ねる。狐湯の里は外観から漂う雰囲気が前のアジトと少し似ていた。木造三階建てという点も同じだった。
「そうだ」
令司は口だけ動かして返答する。
「太乃上荘と違ってこの辺りに天然温泉はないが……。それでも小規模旅館を利用するんだな」
樹流徒は感じたことを素直に口にした。温泉が近くにあったため太乃上荘がアジトに選ばれたのは納得できるが、眼前の旅館が予備アジトに決定された理由は考えても分からなかった。
その疑問に令司が答える。
「アジトには敢えてこぢんまりとした宿泊施設を選んでいる」
「何故?」
「ホテルのように大きな建物だと悪魔の侵入を察知するのが難しくなるからだ。敵が全員お行儀良く玄関から入ってくるならば話は別だがな」
「なるほど」
「あとは“隊長の趣味だから”としか言えん」
「趣味?」
「あの人は、こういう宿が好きらしい。本当の事を言ってしまえば、小規模旅館がアジトに選ばれる理由はそれだ」
「つまり……砂原さんの観光者目線の好みでアジトが決定されているのか?」
「困ったことにな。実際は大きな建物の方が都合が良いこともある。それに、わざわざ旅館に拘らなくてもゲストハウスや小規模ホテルを利用したって良いんだ」
それでいいのか?
樹流徒は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
「無駄話はここまでだ。中に入るぞ」
令司は素早く引き戸に手をかける。妹の安否が気になるのだろう。勢い良く開いた戸はガタガタと慌ただしい音を立てた。
太乃上荘は各部屋の前で靴を脱ぐ様式だったが、こちらの旅館は玄関で脱ぐ様式らしい。
戸の向こうには土間が広がっており、組織の面々が履いていると思われる靴が綺麗に並んでいた。樹流徒が南方の部屋で見たチャッカブーツも含まれている。渡会と仁万のものではないかと思われる靴もあった。
ただ、令司にとってそんなことはどうでも良く、メンバーの靴すら目に入らなかったかも知れない。
何故ならば、戸を開いたのと同時に彼の妹・早雪の姿が見えたからである。
早雪は替えのパジャマの上からカーディガンを羽織り、受付の椅子に腰掛けていた。両手には沢山の衣類を抱えている。特に怪我をしている様子は無かった。
「あっ」
少女は些か驚いた様子で立ち上がる。少しおぼつかない足取りで一歩前に出た。
令司は乱暴に靴を脱ぎ捨てると、すぐに妹の元へ駆け寄る。
樹流徒は静かに戸を閉めた。靴を脱いで床に上がったところで待機する。
「無事で良かった。心配したぞ」
令司は優しげな眼差しで妹を見下ろす。悪魔と戦っている最中の彼からは想像もつかない台詞と表情だった。
「うん。令司も」
早雪は首を小さく縦に振ってから
「あと相馬さんも」
と、土間を背に直立している樹流徒に微笑みかける。
早雪、悪魔から呪いをかけられているらしい。それでも相変わらず、悪魔の能力を使う樹流徒に対する嫌悪感を一切見せない。むしろ友好的ですらあった。
「他のメンバーは?」
令司が尋ねる。
「全員無事だよ。仁万さんと渡会さんもさっき戻って来たところ」
その知らせを聞いて、樹流徒は密かに安堵した。
「俺たちが不在の間、前のアジトに何があった?」
「ええと。なんて説明したらいいのかな……」
早雪は言い淀んでから
「鬼の集団に襲われたんだよ」
と答える。
「鬼?」
樹流徒と令司は寸秒顔を見合わせた。
「もしかして、その鬼って、角を生やした赤茶色の肌をした巨人のこと?」
樹流徒は数歩前へ進み出て、早雪に話しかける。
令司は少々むっとしたような顔をしたが、口は挟まない。
「はい。相馬さんたちも鬼を見たんですか?」
「ああ」
「それなら話が早いですね。私たち、あの巨人の正体が分からないから、取り敢えず“鬼”って呼ぶことにしたんです」
「やはり悪魔とは違うんだな……」
「鬼は赤茶色だけじゃなくって、青いのや黒いのもいましたよ」
「そうなのか? 僕たちが交戦したのは赤茶色だけだったが……」
鬼は単体ではなかった。加えて、複数のタイプが存在するようだ。
赤鬼、青鬼、黒鬼……日本の昔話に登場する鬼と外見の特徴がますます似通っている。
「鬼たちは砂原さんが……隊長が1人で倒したんですけど、その前に太乃上荘が壊されてしまって……」 そこまで言うと、早雪は少し苦しそうな顔をする。どことなく瞳がぼんやりしていた。
令司は彼女の額に手を当てる。
「少し熱いな」
「え。大丈夫だよ」
「前のアジトからここまで移動してきた疲れもあるだろう。休んだ方がいい」
そう言って、妹の腕を引っ張った。
「あ、待って。じゃあその前にこれを……」
早雪は令司の手から逃れ、樹流徒の正面まで歩み寄る。腕に抱えていた衣類を彼に差し出した。ごくありふれたロングTシャツとジーンズだ。
「これは?」
「相馬さんの着替えです」
「君が用意してくれたのか?」
「はい。南方さんが言ってました。“樹流徒君は会うたびにズタボロだからね。今度もきっとボロ雑巾みたいになって帰ってくるよ”って」
「ボロ雑巾……」
あながち間違っていないだけに反論できなかった。
「はいどうぞ。ちなみに服は兄のですけど、いいですか?」
「ああ。ありがとう」
樹流徒は早雪から着替えを受け取る。
「相馬はどうせまたすぐに履き潰したスニーカーみたいになるんだ。着替える必要など無いだろう」
令司が不機嫌そうに言う。
「そういうこと言わないの」
早雪は微苦笑して兄を軽く叱る。それから彼にも着替えを手渡した。
彼女は二人分の着替えを抱えて、ずっとこの場所で待っていたのだろう。
「さあ。もういいだろう。行くぞ」
今度こそ令司は妹の手を引いて正面の階段を上ってゆく。
樹流徒はふと、自分にも弟と妹がいたことを思い出した。
目まぐるしく押し寄せる出来事と戦いの連続で彼らの存在を振り返ってあげる機会が無かった。また、敢えて意識しないようにしていた部分もある。
しかし、仲の良い八坂兄妹の背中を見送る内、樹流徒の脳裏には瞬刻、家族の記憶が蘇った。
市内に未曾有の事件が発生してから十日は経っているだろう。ひと月くらい経過しているような気もした。
樹流徒は今になってようやく、色々なことを実感し始めていた。
一人その場に残った彼は、辺りの様子を見回す。誰もいないので、その場で着替えを済ませてしまった。