色
傷は決して浅くない。ただ、致命傷でもなかった。
樹流徒はまだ持ち堪えることができた。足を踏ん張ってフラウロスの方を振り向く。
それにしても満身創痍だ。一刻も早く決着をつけるどころか、自分が生還することすら危うい状況だった。
「いいぞ。しぶとい獲物ほど狩るのが楽しいってもんだ」
フラウロスは紫がかった舌を伸ばして、爪の先に滴る血を味わう。その際口の周りに血が付着したため、それも綺麗に舐め取った。
「不味い血だ」
最後にそう呟くと、駆ける。樹流徒の手が届かない場所から腕を伸ばして、爪を真っ直ぐ突き出した。
樹流徒は側宙で回避する。切れ味良い動きだったが、着地と同時に全身のあちこちから痛みが走って寸秒全身が固まった。
打突を避けられたフラウロスはすぐさま方向転換をする。再度樹流徒を正面に見据えると、前蹴りを飛ばした。鳩尾を狙ったのであろうその一撃は、樹流徒が体を捩ったため彼の脇腹を掠めて通り過ぎてゆく。
空を切ったフラウロスの脚を、樹流徒は素早く掴んだ。ありったけの力で上半身を捻って相手の姿勢を崩すと、体を捻った勢いそのまま自身を独楽の様に回転させ、ハンマー投げの要領でフラロウスを空中に投げ捨てる。
柔軟な体を持つ豹の悪魔は、低空で体を丸めて見事な宙返りを見せ、両足の裏から綺麗に着地した。当然、ダメージは無い。
両者は向かい合い、再び仕切り直しの形となった。とはいえ体の状態は随分と差がある。樹流徒の額から流れた一滴の汗が血と混ざり合って頬を伝った。
それが顎からこぼれ落ちた時、出し抜けに、彼らのいる空間全体が眩い光に包まれる。
見れば、ピッチ上で邪悪な輝きを放っていた魔法陣が青白く変色していた。
一体何事か? 樹流徒は瞼を半分まで下ろして、目を射る光の中を注視する。
彼はあっと声を上げた。巨大図形の中に寝かされていた市民の遺体が地面に埋もれ始めている。
ベヒモス召喚儀式の一場面を彷彿とさせる光景だった。魔法陣に並べた生贄が砂地に飲み込まれていった、あの現象と酷似している。
やはり人間の死体は儀式用の生贄だった。
確信した樹流徒はピッチに近付く。死体を一体でも魔法陣の外へ連れ出せば、儀式を中断できるかも知れない。
「魔法陣には入れさせねェって言っただろうが」
フラロウスが樹流徒の前方に回りこみ、巨大な壁となって立ちはだかる。
樹流徒は足を止めて、そこから動けなかった。眼前の強敵に対して力任せの突破は通用しない。迂闊に飛び込めば一瞬にして己の命を失うことになる。
かといって、空を飛ぶわけにもいかない。垂直上昇は可能だが、少しでも方向を変えようものならば途端に姿勢制御ができなくなる。仮に、偶然にも魔法陣の上に落ちることができたとしても、着地点に先回りしていた敵から致命打を浴びるのがオチである。
今すぐピッチ内に踏み込む手段がない。
「くそっ!」
焦りと悔しさで、樹流徒は苦虫を噛み潰したような顔をした。
そのあいだにも白山羊の悪魔による呪文詠唱は続いており、人々の遺体は着実に地の底へと導かれてゆく。
こうなればもう当たって砕けるしかない。それ以外に無いじゃないか。
樹流徒は自分にそう言い聞かせて、意を決した。フラウロスに照準を合わせて空気弾を放つと、その後ろを追いかけて疾走する。危険は承知の上で強行突破を仕掛けた。
樹流徒の覚悟を嘲笑うように、フラウロスはたった一歩横にずれて空気弾を擦れ擦れで回避する。それから即座に身構えて、後続の獲物を迎撃する体勢を取った。
樹流徒は右前方へ進路を変える。敵の横をすり抜けようとした。
しかしフラウロスはまるで影のようにぴったりとくっついてゆく。樹流徒の動きに合わせて真正面に回りこんだ。
突破が不可能と分かった樹流徒は、一度立ち止まる。今度は爪を構えて相手の懐めがけて飛び込んだ。攻撃を仕掛けると見せかけ、もう一度右へ飛ぶ…………と更に見せかけて、左足を軸にして時計回りにターンした。連続フェイントで敵の左側を通過しようと試みる。
結果、見事に抜けた。樹流徒の美技はフラウロスの体を置き去りにする。
道が開けた。これで魔法陣に侵入することができる。儀式の妨害が間に合うかも知れない。瞳に光明が宿った。
ところが、その光は瞬く間に晦冥と化す。樹流徒の背後から伸びたフラロウスの手が、彼の腕をしっかりと掴んでいた。
「そうそう。その色だ。オレ様はその、獲物の希望に満ちた目が絶望に沈んだ時の色がたまらなく好きなんだよ」
フラウロスハはまさしく悪魔と呼ぶに相応しい台詞を吐くと、腕を強く引っ張る。樹流徒を自分の元に引き寄せて肘打ちを見舞った。
更に、掴んだままの腕を捻って樹流徒の体を地面に転がす。がら空きになった脇腹を足の裏で強か踏みつけた。
樹流徒は腹を抱えて悶絶する。やはり無謀な突破だった。強敵相手に小細工を弄しても単なる悪足掻きでしかなかった。フラウロスはわざとフェイントに引っかかったフリをしたに違いない。敢えて獲物に希望を持たせておき、そのあと絶望へ突き落とす、悪趣味な行為だった。
深い汚泥の中でもがくような心地で、樹流徒は倒れた状態から空気弾を撃つ。
フラウロスは背丈の倍はあろうかという打点の高いバック宙で避けた。三回転してから遥か後方で着地する。
その時……遂に樹流徒が恐れていた瞬間が訪れた。悪魔たちにとっては待望の一瞬だっただろう。
地を這う樹流徒が見つめる先、何十、何百という死体が魔法陣に飲み込まれてゆく。あたかも初めからそこには何も無かったかのように、人々はあっさりと姿を消した。
樹流徒は、儀式の阻止に間に合わなかったのである。
直後、激しい輝きを放っていた魔法陣が明度を落とす。青白いおぼろげな光が残った。
樹流徒はその光景にも見覚えがあった。病院屋上の床に描かれていた魔法陣と非常に良く似ている気がした。
――ご苦労だったな。オマエが我を守ってくれたお陰で今回の儀式を全うできた。
すると、これまでずっと呪文を唱え続けていた白山羊の悪魔がフラウロスに語りかける。淡々とした口調の中に微かな喜びを滲ませていた。
「ヒャッハー! これで“ニつ目の封印”が破壊されたってワケだ」
豹の悪魔が両腕を高々と突き上げる。こちらは相当なはしゃぎようだ。
「フラウロスよ。オマエの戦闘能力は魔界の誰もが認めるところだ。しかし、オマエは軽率な言動が過ぎる」
白山羊の悪魔は、口を滑らせた味方に対して苦言を呈する。
「なに心配してんだ? 秘密を知られたら口を封じればいいだけの話だろ」
「そう思うのであれば、これ以上獲物をいたぶるな。始末できる内に始末しろ」
白山羊の悪魔はどこか偉そうな口調で再びフラウロスに諫言する。そしてゆっくりと歩き出した。ローブの裾を地面に引きずりながら選手入場用の通路へと足を向ける。
悪魔たちが言葉を交わしている隙に、樹流徒は体を起こした。体はまだ十分に動くことができる。加え心から沸き起こる激しい怒りが、全身の痛みを押し殺す力へと変わっていった。
「たまにはアイツの忠告も聞いてやるとするか。そんなワケでさっさと始末させてもらうぜ、ニンゲン」
「……」
両者の視線がぶつかり合って一層物々しい空気が生まれる。勝負の行方がどちらへ転ぶにせよ決着が近いことを告げていた。
戦場から市民が消えた今、樹流徒は躊躇い無く全ての能力を使うことが出来る。彼は早速牽制の火炎弾を放った。
フラウロスは爪を振り下ろして攻撃を打ち落とす。すぐさま快足を飛ばして両者の距離を詰めた。そのまま直進すると見せかけて斜め前方へステップし、樹流徒の死角に潜り込む。「フェイントの手本を見せてやる」と言わんばかりの動きだった。
樹流徒は見えない敵に向かって爪をなぎ払う。首を左へ回すと、そこにもう敵の姿は存在しなかった。フラウロスの影を完全に見失う。
そのとき、フラウロスは樹流徒の真上にいた。ステップの直後に無音で地を蹴り、宙高くへ舞い上がっていたのである。
豹の悪魔は膝をいっぱいに曲げて力を溜める。それを思い切り伸ばして、樹流徒の頭頂部に爪が突き刺されば、勝負は決まっていただろう。
しかし死の寸前であっても樹流徒は決して慌てていなかった。彼は、さきほど悪魔たちが言葉を交わしている最中、儀式を行っていた白山羊の悪魔の姿から、過去に戦ったことのある“ある悪魔”を連想していた。お陰で、その悪魔が使用した能力を思い出したのである。いざとなれば迷わずその力を試してみようと、予め決めていた。
今が、まさにそのときだった。
トドメの一撃をを繰り出したはずのフラウロスが双眸を大きく見開く。悪魔の爪は樹流徒の頭に突き刺さるどころか、髪に触れることすらできていなかった。
樹流徒の周囲に、虹色に光り輝く球状の壁が出現している。黒山羊の悪魔バフォメットが使用した“魔法壁”である。その防御能力により、フラウロスの爪は完全に遮断されたのである。
突如出現した魔法壁と衝突したことにより、フラウロスは空中で体のバランスを失う。
かたや、樹流徒は頭上から落ちてきた敵の影と衝撃音によって相手の位置に気付いた。
体勢を崩したフラウロスは驚異的な身体能力を発揮して、今度も無事に着地を決める。
ただしそのあいだにも樹流徒は魔法陣を展開していた。六芒星の中心から飛び出した青い雷光がフラウロスの全身を瞬時に包み込む。
広大な空間に獣の雄叫びが響き渡った。
フラウロスの全身が痙攣を起こす。電撃で体が痺れたのだろう。
樹流徒は敵の真正面から全力疾走する。カウンターの警戒もせず、相手の懐へ素早く入り込むことだけを考えた、無防備な突進だった。
されどもそんな隙だらけの樹流徒を目前にしてもフラウロスは動く気配を見せない。
樹流徒は敵の眼前で小さく跳躍する。怒りを込めた腕を振り抜いた。
ところがフラウロスは決着をつけさせない。鈍い動きながらも上体を逸らす。それにより、敵の首を刎ね落とすつもりで樹流徒が繰り出した渾身の一振りは、フラウロスの喉に浅く食い込むだけに留まった。
どうやらフラウロスに対して電撃の効果は今ひとつのようだ。早くも体の痙攣が収まった悪魔は、手を伸ばして樹流徒の首根っこを掴む。凄まじい握力で頚椎を圧迫した。
「オレ様は、オマエみたいに怒り狂った獲物も大好物だぜ。何せ返り討ちにするのが面白いからな」
今までで最も大きな笑い声を張り上げると、腕を引いて力を溜める動作を取った。
魔法壁は一度使用するとするとしばらく使えない。樹流徒は敵の攻撃を防ぐ事もできなければ、脱出も不可能だった。
ならば攻撃しかない。樹流徒はすぐに魔法陣を展開した。高威力の火炎砲による相討ちを狙いを選択したのである。良く言えば肉を斬らせて骨を断つ戦法だが、実際は命を断たせて皮を焦がす程度の結末になってもおかしくはない。破れかぶれにも近い賭けだった。
「お? 何だ?」
そのとき、フラウロスが少々間の抜けた声と共に全身をふらつかせる。急な眩暈を起こしたような反応だった。電撃の効果が残っているのだろうか? いや、そんな感じではない。
一体何が起きているのか分からぬ内に、樹流徒の掌の前で輝く魔法陣から魔界の炎が召喚された。それは至近距離に突っ立ているフラウロスの胸に直撃して、破裂する。爆風により樹流徒の体は軽く後ろへ吹き飛ばされた。
「ウオッ……ウオオオ」
フラウロスは喫驚したような声を上げる。頭を抱えてふらふらと足踏みを始めた頃には全身火達磨になって、驚きの声は悲痛な叫びへと変質した。
「そうか……」
樹流徒は独り呟く。敵の身に何が起きたのか、たった今、分かった気がした。
恐らく“毒”である。樹流徒がフラウロスの顔に吹きかけた毒霧が、今になって効果を発揮したのだ。
原因はフラウロス自身にあった。さきほど、フラロウスは爪に付着した樹流徒の血を舐めた際に、口の周りも舐めた。そのとき毒まで一緒に口内へ運んでしまったのだろう。他に理由が考えられなかった。
事実が分かってしまえば随分と間の抜けた話である。白山羊の悪魔が助言した通り、フラウロスは軽率な言動に気をつけるべきだったのだ。もっとも、白山羊の悪魔が注意を促した時にはもうフラウロスの体内には毒が回り始めていたのだろう。
「ヒャハハハ。オレ様がニンゲン如きに敗北? 何の冗談だよ……ヒヒヒ」
己の軽率な行為により敗北を喫した悪魔は、烈々たる炎に焼かれながら最期まで笑う。
程なくして足下から消滅し、赤黒い光の粒となった。