そこで見たものは
――貴様ニンゲンだな? どうやってここに入った!
鳴りを潜めていたスタジアム内部に、悪魔の尖り声が反響する。
続いて回廊を踏みしめる慌ただしい足音。最後には派手な断末魔の叫びが轟いた。
一撃で番兵を倒した樹流徒は、素早く頭を振って左右を見る。もう悪魔の姿はない。潜入早々戦闘になってしまったが、敵はたったの一体しかいなかった。
新たな敵影が無いことを確認し終えると、樹流徒は改めて周囲の風景に視線を巡らせる。
スタジアムの外壁はガラス張りになっている部分が多く、屋内はそれなりに明るかった。イベント時に開かれる売店のスペースが内壁に沿うような格好で並んでいる。他にも、喫煙室や授乳室、トイレなどの入り口が遠目に見えた。エレベーターもあるが、例の如く市内に電気が通っていないため作動しない。
魔空間が発生している様子は今のところ無いが、樹流徒はスタジアム内の移動に勝手の悪さを感じていた。
というのも、実は、樹流徒は生まれてこの方、競技場やスタジアムと名のつく建物に入ったことがない。足を踏み入れたのは今回が初めてである。そのためスタジアム内部の様子や構造が余り良く分からず、迅速な移動ができなかった。
無論、そうなることは潜入役を引き受けたときから分かっていた。こうなれば案内標識と直感を頼りに先へ進むしかない。そう考えていた。
スタジアム内は広く、悪魔がどこで何をしているのかは分からない。樹流徒は取り敢えずメインピッチを目指すことにした。仮に悪魔が何か大掛かりなことをするつもりならば、単純に考えてそこが最も怪しいからだ。というよりメインピッチを利用する以外に悪魔がこの施設を集結の地に選んだ理由が思い当たらなかった。
視線をやや世話しなく動かしながら、樹流徒は足音を殺して歩く。正面入口から最も近くにある通路に目を留めると、そこへ滑り込んだ。慎重な足取りを保ったままスタジアムの奥へと潜ってゆく。外壁の窓から射しこむ光が遠ざかり、視界は必然的に暗さを増した。
樹流徒は暗視眼を使用する。真っ赤に輝く双眸が、闇に隠れた景色を暴き出した。
足下が良く見えるようなって、更に奥へ進んでゆくと、程なくして小さな会議室が幾つか並んでいる部屋の前にたどり着く。
その廊下を歩くと、いつも以上に警戒心を強めていた樹流徒は、ふと、何者かの気配を感じ取った。足を止めて更に神経を集中してみる。やはり付近に誰かが潜んでいるような気がした。
その感覚が正しかったと証明されるまで、わずか数秒。
前方に見える柱の陰から、一体の悪魔が飛び出してきた。それだけではない。殆ど時を同じくして、樹流徒のすぐ背後で派手な音が鳴る。壁に向かって巨大な木槌を打ちつけたかのような音だった。
樹流徒が後ろを見返ると、会議室のドアが吹き飛んでいた。部屋の中で息を殺していた悪魔が鈍重な歩みで姿を現す。
前と後ろ……樹流徒は通路の真ん中で敵に挟まれた格好となった。逃げ道は無い。
奇襲を仕掛けてきたニ体の悪魔は、どちらも同じ姿形をしていた。架空生物の竜を連想させる頭部を持ち、二本足で立っている。“竜頭悪魔”だ。身の丈は樹流徒と大差なく、体表の大部分が爬虫類っぽい皮膚に覆われていた。背中の羽を折り畳み、長大な尻尾を床に垂らしている。そして手にはサーベルのような西洋風の剣を握り締めていた。
樹流徒にとって初見の悪魔だった。果たしてどのような特徴を持つ敵なのか、外見を除いては全くの不明である。本来であれば迂闊に飛び込むのは躊躇すべき相手だった。
だが、樹流徒は臆さず先手を取ってゆく。スタジアムの外で敵を陽動をしている仁万と渡会の限界を考えると時間が惜しかったし、前後から挟撃を食らう前に自分から仕掛けたいという戦法上の理由もあった。
結果的にはそれが吉と出る。樹流徒は、会議室の中から現れた敵めがけ突進した。竜頭悪魔が突き出した剣先を爪で受け流し、反対の手で相手の喉元を貫通する。悪魔は叫び声を上げることもなく絶命した。
顔に飛んでくる返り血を片手で防ぎながら、樹流徒は竜頭悪魔の手からこぼれ落ちた剣を拾い上げる。急いで振り返ると、前方から駆けて来るもう一体の敵めがけて武器を投擲した。
少し黒ずんだ銀色の刃は、閃光の如く空間を裂いて標的の胸を貫く。悪魔は大きな唸り声を上げて膝から崩れ落ちた。床に倒れ伏す前に魔魂と化す。
危機を脱した樹流徒は静かな息を吐いて心を落ち着けると。再び先を急いだ。
どうやら敵の戦力は、建物内よりもスタジアム周辺に集中していたらしい。竜頭悪魔と交戦したあと、樹流徒は次なる敵と遭遇することも無く、順調に先へ進んでいた。令司の陽動が効いているのかも知れない。
間もなく、樹流徒はロッカー室と屋内練習所の前を通過した。
距離的に考えて、もうそろそろメインピッチに到着しても良い頃ではないか。そのようなことを考えていると、次の曲がり角を折れた瞬間、通路の突き当たりに光が射した。多分、目的の場所に繋がる出口である。
ここまで慎重な足取りで歩いてきた樹流徒は、思い出したように駆け出した。
しかし……光の向こうに現れた広大な空間に一歩踏み込んだ時、樹流徒は驚きの余り絶句した。
彼の正面には八レーン四百メートルのトラックと、その内側に広がる天然芝のフィールドが横たわっている。そのフィールドいっぱいに黒い魔法陣が描かれていた。今まで何度か見てきた光景だった。
しかし樹流徒を一驚させたのはそれではない。彼の度肝を抜いた異様な光景は、巨大な図形の内側に存在していた。
魔法陣の中に、大勢の人間が寝かされているのである。その数は外にいた悪魔たちに匹敵するかも知れない。
恐らく死体失踪現象により行方不明になっていた龍城寺市民である。その市民たちの遺体が今、ピッチ上に規則的な形で整列させられていた。まるで魔法陣の模様を形成する一部のように。
奇妙なことに、魔都生誕から何日も経過しているにもかかわらず、遺体はどれも生前の美しい姿を保っている。何らかの方法で防腐保存されていたのだろう。
樹流徒は束の間呆然としていたが、我に返って、息を飲む。そして巨大な図形の中央を睨んだ。視線の先には、悪魔らしき者が立っている。
それは、人間の体と山羊の頭を持つ悪魔だった。毛並みは白く、頭部に生えた三本の角が天を指している。肩から足下までを覆い隠す黒のローブを身に纏い、首からは黄金のアクセサリーを三重に提げていた。
白山羊の悪魔は両手をいっぱいに広げ、やや上空を仰ぎ、一心不乱に何かの呪文を唱えている。侵入者の存在など全く意に介していない様子だ。
もしかすると、あの悪魔は儀式を行っている最中で、呪文の詠唱が終わるまで動けないんじゃないか? 樹流徒はすぐそのように推理できた。魔法陣の中央に立つ悪魔の姿が、ベヒモス召喚儀式を行った際の自分と重なったためである。
「待てよ……」
樹流徒はぎくりとする。もしベヒモス召喚と似たようなことがおきるならば、と考えたとき、あるひとつの恐ろしい想像が頭の中に浮かんだ。
まさか、魔法陣に寝かされている人間たちは、儀式の生贄ではないのか。それに気付いたのだ。
だとすれば、悪魔が何を企んでいるかなど最早関係ない。問答無用で呪文の詠唱をやめさせなければいけなかった。
いや、たとえ生贄でなかったとしても市民の遺体が何らかの形で儀式に利用されているのは明白である。樹流徒が儀式を妨害する理由はそれだけで十分だった。
儀式を行なっている悪魔めがけて、樹流徒は迷わずめがけて突進する。飛び道具は使用できない。狙いを外せば市民の遺体を巻き添えにする恐れがある。
あっという間にトラックを横切った樹流徒は、そのまま縁石を乗り越えて、黒い光に照らされた芝生の中に飛び込もうとした。
ところが、足に急ブレーキがかかる。樹流徒は、自分の眼下に突如出現した小さな影を察知した。
謎の影は瞬時に広がる。樹流徒は危険を感じて横に飛んだ。彼の体が地面を転がった時、影の正体が上空より着地する。
現れたのは、豹の頭を持つ悪魔だった。体も豹柄の毛皮に包まれており、胸元から腹部にかけてのみ、白いぼさぼさの毛が密生している。スラリと伸びた四肢の先から恐ろしく長い爪が生えていた。その爪の刃渡りは人間の前腕に匹敵し、先端が鋭利な形をしている。
もし、樹流徒が影の存在に気付かぬまま走り続けていたら、今頃彼の頭は悪魔の爪により真っ二つに割られていたかも知れない。
「ヒャハハハ。魔法陣の中には入れさせねェぞ」
上から降ってきた豹の悪魔は、陽気で狂気じみた声を出した。落下の衝撃で地面に突き刺さった片足の爪を支点にして、器用に直立している。そして赤紫色に発光する瞳で樹流徒を見下ろした。
その敵を樹流徒は無視する。何を置いても先ずは儀式を中断させなければいけなかった。
すると、悪魔はグオンと獣の雄たけびを発して、爪の先端で立ったまま上体を力強く捻る。氷上のフィギュアスケーターの如き華麗なターンを披露した。そして残った片足で、横を通り過ぎようとした樹流徒に向かって回転蹴りを繰り出す。
樹流徒は脊髄反射で後方に飛び退いた。無事に着地してから、はっとする。多少余裕を持って攻撃を回避したつもりだったのに、敵の爪が腕をかすめていた。服の袖が一部、綺麗に切断されている。
豹の悪魔は体の回転を止めると、地面を抉った足の爪を抜いて、二本足で立つ。
「オイオイ! この“フラウロス”様を無視しないでくれよ」
そして大声で軽口を叩いた。
「お前たちはここで何の儀式をしている? 魔法陣の中にいる人たちを生贄に使う気か?」
樹流徒は強い口調で問い質す。
「あぁン? 聞きたいか? でも駄目だ。教えてやんねェ」
フラウロスと名乗る悪魔はそう答えると、一体何がおかしいのだろうか、げらげらと品の無い声を上げて笑い出した。
樹流徒は戦闘態勢に入る。眼前の敵に対して「そこをどいてくれ」と言ったところで、恐らく時間の無駄でしかないだろう。戦わなければ、魔法陣の中へ侵入できないのだ。儀式を阻止するため、早く決着をつけねばならなかった。