作戦と陰謀
ヌマハシ電機スタジアムには全部で六つの入り口がある。南メインスタンド側の正面入口、北側のアウェイゲート、そしてスタジアム関係者が使用する東側のゲートなどである。
これらのお陰で、樹流徒たちはどの方角からでも建物内に侵入できた。
戦闘組の指揮を任されている仁万は、潜入役の樹流徒を正面入口からスタジアム内へと導く作戦を立てた。その手はずは次の通りである。
まず最初に、仁万と渡会が東西両側から陽動を仕掛け、悪魔たちを可能な限りスタジアムから引き離す。
次に、スタジアムへ侵入するフリをした令司が北側のアウェイゲートに近づいて、残った悪魔たちを集める。
最後に、手薄となった南側から樹流徒が突破をするという、実に単純明快な作戦だった。たった四人ではそれ以上高度な戦術が望めなかったのである。
この作戦の成否は、如何にして悪魔たちに“敵は三人しかいない”と思い込ませるかにかかっていた。それを成功させるには、特に令司の働きが重要となる。彼が建物内へ突入しようと奮闘すればするほど、悪魔たちは令司が潜入役の本命だと考えるに違いない。それがこの作戦ほぼ全てだと言っても過言ではなかった。
一方、樹流徒は、絶対敵に見つからぬよう慎重に行動を取らなければならない。スタジアム潜入前の段階で悪魔に“四人目”の存在を察知されれば、その時点で作戦は失敗となる。再突入は不可能だろう。
かといって、慎重に事を運ぼうとする余り潜入に時間をかけ過ぎると、陽動役が悪魔を引きつけておけなくなる。素早い行動と判断、そして運が求められる難しい役であった。
尚、この作戦が成功する確証はどこにもない。むしろどちらかと言えば失敗の公算が強いというのが凡そ全員共通の見解だった。令司ですらそれを肯定しないまでも、否定もしなかった。
そのため、最悪の事態が訪れた場合は各自の判断で作戦を中断し戦線を離脱してもよい……という約束事が前もって取り決められた。
また他にも、本来ならば陽動役の令司がアウェイゲートから建物内に侵入できるのであれば、それも良しという話になった。
これを聞いた令司は「俺も必ずスタジアムに潜入する」と言い放ち、多少鼻息を荒くしていた。
「それでは……月並みな台詞だけれど、お互いの武運と無事を祈るよ」
最後に仁万が全員の奮起を促し、作戦会議は滞りないまま終了した。
やることが決まれば、もうジッとしている理由は無い。話し合いを終えた四人は、早々に行動を開始した。潜入役の樹流徒を診療所に残して、他のメンバーたちは外に出る。
彼ら三人は、車や建物の陰を利用して敵の目を盗みながら移動する。各々の配置場所に到着するためにはスタジアム周辺の悪魔を囲うようなルートを選んで大きく迂回しなければいけない。陽動作戦を開始するまでには少し時間がかかりそうだった。
「なあ……。可能なら敵を引き付けるだけじゃなくてチョルトあたりは倒しとこうぜ」
渡会が、他のニ名に囁く。
小人型悪魔のチョルトは単純な戦闘力こそ他の悪魔に劣るものの、空を飛べるため監視役としては恐らく優秀な悪魔である。今回の作戦に限り、四人にとって脅威となる存在だった。
「分かった。もっとも、言われなくとも俺は倒せる悪魔は全て倒すがな」
令司は渡会の提案に賛成する。
「二人とも承知していると思うけれど、相馬君がスタジアムに潜入した後も、僕たちは可能な限り長時間悪魔を引きつけ続ける必要がある。できることなら彼が敵陣から脱出するまで粘ろう」
続いて、仁万が発言する。
「ああ。陽動を中断すると、折角おびき寄せた悪魔が一斉にスタジアムへ戻っちまうからな。そしたら建物内に潜入した相馬は袋の鼠だ」
「その通りだ。八坂もいいね?」
「俺には余り関係の無い話だ。何故なら俺もスタジアムへ突入するんだからな」
令司が無愛想に答える。
仁万と渡会は顔を見合わせて、片方は苦笑し、もう片方はニヤリとした。
そして陽動役の三人は、各自の目的地へ向かうためにその場で散開した。
この時…………
樹流徒は知る由もなかった。
よもや味方の中に、自分の命を窮地に陥れようと算段している者がいることなど。
その裏切り者は、散開して一人で行動を開始した途端、表情を険しくさせた。迷い、悲哀、そして憎悪を混同させたような顔だった。
「相馬樹流徒君……。君のような悪魔の魂を宿す不浄な輩がこれ以上僕たちの神聖な組織と関ることは、僕にはどうしても堪えられない。だから、申し訳ないけど君には一体でも多くの悪魔を道連れに死んで貰うよ……。あとは八坂が巻き添えを食わないことを祈るだけだ」
男はそう呟いて、眼鏡のブリッジを持ち上げた。
例えば、ベヒモス召喚の魔法陣に関する知識を樹流徒にもたらした馬頭悪魔オロバスのように、悪魔の中には人間と同等かそれ以上の記憶力と知性を兼ね備えた者がいる。
また、それとは逆に、頭脳だけに関して言えば昆虫程度の能力しか持たぬ者も決して少なくはないようだ。
樹流徒にとっては幸いなことに、スタジアムを防衛していた悪魔の大半が後者だった。
渡会たち三名が診療所を出てからしばらく経った後、突如、遠方で小さな爆発音が立て続けに鳴った。しかもそれぞれ違う方向から響いてきた。
それにより、樹流徒の視界に群がっていた悪魔たちが一斉に左右へ割れた。陽動作戦が開始されたのである。
陽動役の仁万・渡会を追って、悪魔たちが東西に分断される。異形の生物が一度に蠢くその光景は、おどろおどろしいと言う他なかった。
中には、陽動を疑ってか、その場に留まったり北のバックスタンド側へ回った者たちもいたが、そういった悪魔は合わせて二十体もいなかった。ほとんどの悪魔が恐らく何の考えも無しに、陽動作戦に釣られたのだ。
スタジアム周辺は忽ち殺風景になった。「俺もスタジアムに突入する」という令司の言葉が実現しそうな状況だった。
動作戦の第一段階は、この上ない成果を上げたと言えるだろう。もし相手が人間だったら同じようにはいかなかったはずである。スタジアムを護る悪魔たちの思考が単純だったからこそ得られた結果だった。
とはいえ、少々上手く行き過ぎた感があった。確かに大勢の悪魔をスタジアムから引き剥がすことができれば、その分だけ樹流徒や令司の潜入活動は楽になる。
ただ、その代償として仁万と渡会の負担が増すのだった。ひきつける悪魔が多ければ多いほど危険が増し、対応が難しくなる。その負担にニ人が耐え切れなくなった時、陽動作戦は終了し、悪魔たちが一斉にスタジアムへ戻ってしまうのだ。
逆に言えば、仁万と渡会は故意に悪魔の陽動を放棄することで、任意のタイミングでスタジアムに大量の悪魔を送りつけることが出来る。渡会の言葉を借りれば、建物内に潜入した人間を袋の鼠にすることも可能なのである。
作戦を利用して樹流徒を陥れようと奸計を巡らす裏切り者の狙いは、きっとそれだった。
そのような陰謀が秘密裏に進んでいるなど欠片も想像していない樹流徒は、今、たった一人診療所を後にした。
潜入役を任された彼は、慎重かつ迅速に目的地へ接近してゆく。敵に見つかれば“四人目”存在が暴かれ、その時点で作戦は終了してしまう。何があっても自分の存在を悪魔に知られるわけにはいかない。緊張と責任感から嫌な心音が収まらなかった。
やがて、樹流徒は正面入口の状況を遠目に視認できる場所に到着した。
正面には、上空の視界が開けた道幅の広い通路が五十メートル前後延びている。その向こうには短いスロープがあった。スロープを上った先には数体の悪魔が静止している。他に敵の姿は見えない。
樹流徒は、通路の端に植栽されている木の陰に身を隠した。そこから突入の機会を窺う。今すぐにでも強引に突破できそうな気がしたが、焦ってはいけないと思い直した。少なくとも令司が動くまでは待つことにする。
少し経つと、樹流徒の視界に映る悪魔たちの数が少しずつ増え始めた。恐らく、仁万と渡会の追跡を断念して引き返してきた者たちだろう。遅ればせながら陽動に気付いた者も混ざっているかも知れない。
彼らは正面入口すぐ手前のコンコースに固まる。
十……二十。悪魔の数は増え続ける。その様子を木陰から見つめる樹流徒の不安は、徐々に高まっていった。やはりさっき突入してしまったほうが良かったのか? タイミングを誤ったのか? そう考えると、令司の存在も忘れて、これ以上さらに敵が増える前に今度こそ飛び出してしまいたい衝動に駆られた。
焦れる心を抑え込んで待っていると、やがてスタジアムの背後から悪魔の怒号とも悲鳴ともつかぬ奇声が、長い尾を引いて樹流徒の耳にまで届いた。
それを察知した異形の生物たちが次々と動き出す。彼らはバックスタンド側へと回ってゆく。建物内からも数体の悪魔が飛び出して後をついていった。
令司が行動を起こしたのだろう。作戦の第二段階である。前述通り、令司がどれだけ頑張れるかが、今回の作戦を成功させる上でひとつの大きな鍵となる。
現在、正面玄関前に残った悪魔はたったの3体しかいなかった。しかも内ニ体は床に寝そべっているように見える。やる気が無いのだろうか。悪魔たちはとても気楽そうに構えていた。
その間にも東西から帰還してくる悪魔は次々と令司の方へ押し寄せている。
今こそ突入するタイミングだ、と樹流徒は判断した。もう少し待つべきかも知れないが、それにより却って状況が悪くなることも有り得る。
己の直感を信じて、樹流徒は動いた。木陰から躍り出ると猛然と駆ける。通路を一気に渡り切ると、跳躍してスロープをショートカットした。丁度斜面を登りきったところに着地する。
ここまで来たら引き返すことは出来ない。入口はもうすぐ目の前にある。
樹流徒の足音あるいは匂いを嗅ぎつけた悪魔たちが揃って体を起こし、臨戦態勢に入った。彼らは直前までの余裕が嘘のように強烈な殺気を放つ。
樹流徒は、ある程度敵との距離が埋まったところでマルコシアスの空気弾を放った。火炎弾や火炎砲は爆発音が鳴るために使用できない。余り大きな音を鳴らすと離れた悪魔に気付かれてしまう。
その点、無音で直進する空気丸ならば問題はなかった。それは急速に萎みながら標的に着弾すると、いとも容易く悪魔の胸に小さな風穴を開けた。
攻撃を受けた異形の生物は無言で前のめりに倒れる。樹流徒はその間にも別の一体に接近し、相手からの攻撃をかわしながら爪で反撃した。
あっという間にニ体の敵を葬る。
残るはラミアが一体。下半身全体に特殊な液体を纏うため爪が通りにくい。切り裂くならば上半身である。
樹流徒が迫ると、半人半蛇の悪魔は背をいっぱいに伸び上がらせて威嚇した。
樹流徒は鋭い動きで宙を舞うと、腕を一振りして敵の首を刎ねる。
これでもうスタジアム内への道を塞ぐものはいない。樹流徒は一層気を引き締めて玄関を通過した。