洗礼
――加勢してやるぜ、マルコシアス。
――天使の犬め。
――人間狩りだ。
乱入してきたデウムスたちは代わる代わる大声を発して、口角の隙間からヒュルルと独特な呼吸音を鳴らす。元から血気盛んなのか、それとも天使の犬への憎しみで興奮しているのか、彼らの全身には闘争心が漲っていた。
「おい、相馬」
渡会に呼ばれて、樹流徒はそちらに顔を向ける。
「デウムスはオレが相手する。だからお前はマルコシアスとケリつけろ。ヤツの狙いはお前みたいだしな」
一方的にそう告げると、渡会は樹流徒の返事も待たずにデウムスの固まりめがけて走り出した。たった一人で六体もの悪魔を相手にするつもりらしい。
渡会が車道に踏み出した途端、デウムスの口内から次々と火炎弾が放たれた。容赦ない集中砲火だ。もし身を隠す場所がなければ、渡会はデウムスに近付くことすら難しかったかもしれない。その点好都合なことに、この戦場には遮蔽物が沢山あった。渡会は大型トラックを盾に走り抜けてやり過ごすと、逃れた先にあった軽自動車を両手で持ち上げる。それを密集しているデウムスたちに放り投げた。
人間離れした渡会の怪力に驚いたのか、デウムスたちは揃って動きを止めている。
空中を疾走する車が、デウムスの一体を建物の外壁に挟んで押し潰した。ギャっという短い叫び声が聞こえた後、宙に赤黒い光の粒が舞う。
「やりやがったな」
別のデウムスが怒声を張り上げたときには、渡会の姿はバスの陰に消えていた。その後を追ってデウムスの口から吐き出された火炎弾が次々と車体を突き刺す。渡会に対する警戒心を強めたのだろう、仲間が一体減ったにもかかわらずデウムスたちの攻撃は却って勢いを増した。
時を同じくして、樹流徒とマルコシアスは近距離で睨み合っていた。両者は鋭利な爪を構えたまま微動だにしない。その構図は、まるで互いに相手の出方を窺っている剣士のようだ。実際、樹流徒は次の攻防で雌雄を決しようとしており、真剣勝負に臨んでいる剣士の如き心地になっていた。
ただ、決着をつける前に、樹流徒にはどうしても眼前の敵に問い質しておきたいことがあった。
「マルコシアス。さっきお前の口からバフォメットの名前が出たのは何故だ? あの悪魔とお前の関係は?」
「……」
「バフォメットは何かの儀式を行っていた。お前も同じ目的で現世に来のか? もしそうだとしたら、お前たちは一体何を企んでいる?」
「……」
「まさか、現世と魔界を繋いだ犯人も、お前たちと何か関係があるのか?」
「……」
マルコシアスは質問に答える気が全く無いらしい。硬く口を閉ざし、樹流徒の言葉を全て受け流す。
だが、この沈黙が答えかもしれなかった。マルコシアスは今の質問の中に何かしら心当たりがあったからこそ、無言を決め込んでいるのではないか。
樹流徒にはそう思えた。
もっとも推論の域は出ない。明白なのは、これ以上質問を繰り返したところでマルコシアスが口を割ることはない。それだけだった。
話が終わっても、膠着状態は続いた。樹流徒とマルコシアスは睨み合いをしたまま一向に動く気配を見せない。もしかするとマルコシアスも樹流徒と同じ心境にあるのかもしれなかった。
少し離れた場所では、渡会が器用な立ち回りでデウムスの集中砲火を避けながら、攻勢に転じる機会を窺っている。彼の周りでは小さな火花と爆音が間断なく飛び散っていた。
静と動……。同じ戦場の中で対照的な戦いが繰り広げられている。
ただ、どちらの戦いも状況の変化に乏しかった。樹流徒とマルコシアスは言うまでも無いが、渡会のほうも敵の一体を仕留めたのを最後に、デウムスの攻撃が激しくなって身動きが取りにくそうな様子だった。
変化があるとすれば、辺りの景色が徐々に破壊されてゆくことぐらいである。デウムスが炎の塊を吐き出すたびに、車両が火を噴き、地面が焼け焦げる。それ以外は全く何の進展も無かった。戦っている当人たちは必死でも傍から見ればじれったい状況が続いている。
だがここで、片方の戦いが突然の終わりを迎える。
きっかけは、デウムスの一体が攻撃目標を渡会から樹流徒に変更したことだった。
マルコシアスと睨み合った状態で石像の如く固まっている樹流徒は、一見隙だらけだった。そんな彼に目をつけたのであろうデウムスが、不意打ちの火炎弾を放ったのである。
デウムスの目論見は外れ、炎の塊は樹流徒の手前にあるガードレールにぶつかって弾けた。
その爆発音が樹流徒とマルコシアスとの間に充満していた緊張感を破裂させたのである。真紅の火花が散ったとき、両者はほぼ同時に後ろ足を蹴っていた。
跳躍したマルコシアスの攻撃が樹流徒の胸をかすめる。三本の爪を斜めに振り下ろし、樹流徒が首から提げていたシルバーアクセサリのチェーンを引き裂いた。
それと同じ瞬間、樹流徒は全身全霊の技を叩き込む。彼が振り上げた爪は風を切り裂き、獣の喉笛を貫いた。
樹流徒の指先が忽ち返り血に染まる。宙を跳ねたマルコシアスは体の側面から地面に落ちた。そして樹流徒の足下で全身を小刻みに震わせる。
マルコシアスがもう動けないことを察した樹流徒は、せめてひと思いでトドメをさしてやろうと素早く腕を振り上げた。マルコシアスの首に狙いを定めて最後の一閃を見舞う。
睨み合いの時間が長かっただけに、決着はあまりに一瞬であっけなく感じられた。
マルコシアスの体が、尾から胴体に向かって徐々に崩れゆく。放出された魔魂を吸引した樹流徒の体に、新たな力が漲った。
強敵を打破した余韻に浸る間もなく、樹流徒は急いで渡会の援護に向かう。二人がかりならばデウムスを全滅させるまで然程時間を要さなかった。
戦いが終わって、辺りは静けさを取り戻す。道路のあちこちが燻る中、樹流徒と渡会は向かい合った。
「倒した悪魔を吸収するって話は本当だったんだな。正直、半信半疑だったんだけどよ」
渡会の第一声はそれだった。
樹流徒は何と答えたら良いか分からず
「そういう渡会さんこそ、さっきの力は何ですか?」
話を逸らすように尋ねる。先刻渡会が見せた怪力は、樹流徒に匹敵するかそれ以上だった。人間の力でないのは明白だ。その正体について、樹流徒は多少興味があった。
渡会は寸秒目を見開く。
「何だ。お前、まだ知らないのかよ?」
意外そうに言った。
「何をです?」
「オレらイブ・ジェセルの人間が全員、天使から“洗礼”を受けてることをだよ」
「洗礼?」
いかにも宗教用語らしき響きを持った言葉だった。普段なじみの無い言葉でもある。
「ああ。ただ、洗礼っつっても、サクラメント(キリスト教入信の際に行なわれる儀式)のことじゃないぜ。イブ・ジェセルの場合、洗礼ってのは“天使と契約して力を借りる”ことを言うんだ」
と、渡会。組織のメンバーが天使と契約しているなど、樹流徒は初耳だった。
「お陰でオレらは常人よりも優れた身体能力や、悪魔と戦うための特殊な能力を得られるってワケだ。勿論、オレの馬鹿力も天使の力だ」
「細かい事は良く分かりませんが……要するに僕と似たようなものですか?」
「まあな。でも、オレらは天使から力を授かり、お前は悪魔から力を奪う。確かに似てるが、考えようによっては正反対だろ」
「かも知れません」
答えながら、樹流徒は少しだけ苦い気分になった。誰も好き好んで悪魔の力を取り込んでいるわけではないのだが、他人の目から見れば悪魔の力を奪っているように見えるのかも知れない。
気を取り直して、話を続ける。
「じゃあ、組織のメンバーは全員渡会さんのような怪力を持ってるんですか?」
「いや」
渡会は首を左右に振った。
「オレらはそれぞれ異なる天使から洗礼を受けてる。だから使える能力も一人一人違うんだ」
「そういえば南方さんは炎の銃弾を撃ってましたけど……」
あれも天使から借り受けた、南方だけが使える能力なのだろうか。
「ああ、あの人は“アナフィエル”って天使から洗礼を受けている。アナフィエルは、火の鞭を使って、増長した天使メタトロンに懲罰を与えた天使だ。南方の能力が“武器に聖なる炎の力を宿すことができる”って効果なのも頷ける」
「まさに悪魔と戦うための能力、という感じですね」
南方の能力を間近で目撃している樹流徒は、渡会の説明にすんなり納得した。
「ちなみに、渡会さんが契約している天使は?」
会話の流れで、何とはなしに尋ねる。
「“デュナミス”って天使だ。もし興味あンなら仁万にでも詳しく聞いてみりゃいい。あの人、天使に関する知識の豊富さならオレらの中でも群を抜いてるからな」
「そうなんですか。凄いですね」
感心してから、樹流徒は急にあることに気付く。
「ところで、僕にこんな話を教えてしまっても良いんですか?」
今更だが渡会の身が少し心配になった。洗礼の話は組織にとってかなり重要な秘密なのではないか? そんな情報を、部外者に喋ってしまっても良いのか?
「いいんじゃねェの? お前がオレらの協力者になった今なら問題ないだろ」
平然とした顔で渡会は答えた。
「それによ。仮にオレが隠したところで隊長か南方が喋っちまうだろ」
と、付け足す。
樹流徒は「確かに」と答えた。砂原隊長はどうか分からないが、南方ならば大抵の秘密は快く教えてくれそうだった。
樹流徒の脳裏に、あの男の緊張感に欠けた笑顔が浮かぶ。
「さ。そんじゃオレらは急いで仁万と八坂の後を追うとすっか」
渡会はそう言ってから、周囲をさっと眺め回す。
「ええ。そうですね」
「先ずは手分けして使えそうなバイク探すぞ」
新しい移動手段を入手するために、二人は車道へ飛び出した。