隠れた力
この狼を強引に引き剥がすのは無理だ。
腕から流れ出た血が指先を伝って砂上に垂れ落ちるのを見ながら、樹流徒は直感的に理解した。
力任せの抵抗を続けても窮地から脱せない。少し冷静になった樹流徒は、攻撃を受けている腕を肩の高さまで持ち上げて狼を宙吊りにした。反対の手も密かに動かして、悪魔のわき腹を爪で一突きしてやろうと狙いを定める。
その目論見は逸早く看破されてしまったようだ。悪魔は自ら牙を引き抜くと、両の後ろ足で樹流徒の腰を強か蹴りつけた。その反動で後方へ跳ねると、翼を広げて空中で姿勢制御を行い、綺麗に着地する。並外れた反応速度。そして顔以外にも目がついているかのような動きだった。
実際、この悪魔には別の目が存在している。尻尾が蛇の頭部になっているのだ。もしかするとその蛇の目が樹流徒の攻撃をしっかり見ていたのかも知れない。
狼の頭と蛇の尾。計四つの瞳を持つ悪魔は、着地を決めるとほぼ同時に開口した。三発目の空気弾を射出する。
同時、樹流徒も火炎弾を撃った。相打ち狙いではない。偶然にも敵と攻撃のタイミングが重なった。
それが樹流徒にとって不測の事態を招く。両者の攻撃が衝突して上手い具合に相殺したかと思いきや、空気弾が火炎弾を貫通して尚も直進したのである。空気弾は無防備な状態で立つ樹流徒の左腹部に着弾する。避ける暇など無かった。全く不運としか言えない被弾だった。
先刻すでに空気弾の威力を目の当たりにしていた樹流徒だが、己の身体で体験してみると想像以上の衝撃が体内を突き抜けてゆくのを感じた。腹の一部がごっそり抉り取られてしまったのではないかと恐怖した程である。
幸いそのようなことは起こらなかったが、かといって無傷で済むはずも無かった。樹流徒のYシャツには再び赤いシミが浮かび上がる。それは先ほどよりも急速かつ大きく広がっていった。
すぅと息を吸うと、傷口からぼんやりとした熱が伝わってくる。この負傷は樹流徒にとって重い足かせとなりそうだった。
ただ、ここで弱気を表に出すと、そこをつけ込まれる。痛みを顔に出しては駄目だ。
これまでの戦いで何度かそうしてきたように、樹流徒は至って冷静な表情を装った。ただ、おびただしい出血と額に滲む汗までは隠しようがない。
そんな樹流徒の状態をどこまで正確に見抜いているのだろうか。狼は血の滴る舌をぺロと出して口の周りを舐めた。じっくりと獲物を追い詰めるハンターの雰囲気に身を包み、音もなく白い砂を踏みしめる。再び相手を襲撃するタイミングを見計っている様子だ。
次に両者が動いた時、どちらが後手に回ることになるかは明白だった。
ところが、今にも悪魔が飛びかかりそうだったそのとき。
突如、浜辺の隅からタタタンと軽快な音が鳴った。日常において直接聞くことはまず無いであろう無機質な響きが、樹流徒たちの耳元にまで届く。
半瞬もしないうちにビニール袋に穴を開けたような音がして、悪魔がギャンと悲鳴を上げた。黒い毛皮の下から青紫色の液体が少量飛び散る。
何が起きたのか分からず、樹流徒は謎の音が聞こえてきた砂浜の入り口へと視線を送る。
階段の手前に、南方が立っていた。バイクから降りた男は、いつの間にか武器を携えて樹流徒たちに接近していた。四つの瞳を持つ悪魔もそれに気付くことができなかったようである。
南方が手にしていた武器はサブマシンガンだった。黒い銃身は全長五十センチ程度しかない。一見してかなり変わったデザインをしており、輪を描いたグリップが特に目を引く。透明色の弾倉は銃身と平行の向きで銃の上部に装着され、中に装填されている弾が外から視認できた。
一体どこでそのような武器を入手したのだろうか。兎にも角にも、銃から連射された弾丸の内一発が、狼の胴体を捉え、樹流徒を救ったのである。
銃口から標的までの距離は五、六十メートル。遮蔽物が無く、風もそれほど強くないとはいえ、見事な射撃だった。
側面から不意打ちを食らった悪魔は、多少よろめく。しかし四本の足でしっかりと大地に踏みとどまった。首を回して、銃を携えた南方を睨みつける。
「邪魔なヤツ。アッチのニンゲン先に殺す」
怒声を上げると、真紅の翼を展開し、足から砂を巻き上げて跳躍した。南方とベルがいる堤防の方へ飛翔してゆく。
そうはさせまいと樹流徒が放った火炎弾は、呆気なく回避された。炎の塊は悪魔の後ろを素通りして、どこか遠くの空へ流れ消えてゆく。
一方、南方は敵の狙いに気付いたのだろう。悪魔が飛び立つとすぐに階段を上る。堤防の陰に身を屈め、上半身だけを外に出し、スコープを覗く。そして接近してくる敵に向かって再び連射銃を発砲した。
ただ、悪魔の飛行スピードは恐ろしく速い。如何に男が射撃の名手だったとしても、狼が空にいる間はそう簡単に弾を命中させるのは無理だろう。
実際、悪魔は全ての弾丸を回避した。それだけではない。あっという間に堤防を通り過ぎて道路の真上で反転すると、開口して遠距離攻撃による反撃に出た。
放たれたものは空気弾ではない。青い炎の球だった。樹流徒が使用する火炎弾と火炎砲の中間くらいの大きさを持つ火球である。
その美しい球体は連射性能を持っていた。銃撃の仕返しとばかりに放たれた三連の火球が、上空から降り注ぎ、南方を襲う。
南方は慌てた様子で駆け出した。火球の一発が、彼が乗ってきたバイクに直撃する。残りニ発は道路上で小さく弾けて地面に燃え広がった。
犠牲となったバイクは爆発の衝撃によりその場で軽くジャンプして、横転する。炎は消えることなく車体の上で揺らめき続ける。まるで焚き火のようだ。
「ああ……。折角良いバイク拾ったのに勿体無い」
南方は鉄の焚き火を見つめながら、悠長な台詞を吐く。
「おい! 次の攻撃が来るぞ」
ベルが懐から拳銃を抜きつつ、彼に注意を促した。
悪魔は急下降すると、道路に停まっている一台の軽自動車に突っ込む。バックドアガラスを破って中に飛び込み、フロントガラスから出てきた。非常に荒ぶっている。
そして外へ飛び出すなりベルめがけて空気の弾丸を放った。
ベルはどこか慣れた動きで身軽に地面を転がって、彼女のバイクの陰に逃れた。
二輪車は空気弾を受けて片側のミラーを吹き飛ばされる。
「野郎」
ベルはすかさず拳銃で反撃に出た。
悪魔は軽く跳ねて銃弾を避ける。攻撃の軌道を予め予測していたのではないかと疑いたくなるくらい、いとも簡単に、最小限の動きで回避した。
続いて南方がマシンガンを放つ。凄まじい銃口速度を持った弾丸が次々と飛び出す。標的との距離は短い。いくら敏捷性に優れた悪魔とはいえ、回避できるものではなかった。
ところが、狼は確実に相手の武器の特徴を学習しているようだ。銃口を向けられた時にはもう車の裏に身を隠していた。悪魔の身代わりとなって銃弾を浴びた車体に次々と穴が空く。
その隙に、ベルは拳銃を反対の手に持ち替えた。空いた手を腰のホルスターに伸ばす。中から何かを取り出した。
彼女が新たに手にしたのは、銀色に輝く警棒だった。ただ、通常のそれと比べてやけに柄が太い。加えて柄の底には何やらスイッチらしきものが付いている。
ベルが所持していた武器は、俗に言うスタンロッドだった。恐らく改造して作られた物だろう。彼女はそれを握り締めて敢然と悪魔に戦いを挑む。
そのあいだもニ大悪魔による激しい肉弾戦は続いていた。
ベヒモスが象の鼻を使ってレビヤタンの首根っこを締め付けたかと思えば、レビヤタンは鯨の尾で相手の体を打つ。
今度はレビヤタンがベヒモスの背後に回りこんで後ろ足に噛み付いたかと思えば、ベヒモスは背中から倒れこんで相手に圧し掛かる。
どちらもノーガード。どちらも全く攻め手を休めようとはしない。一進一退の攻防が展開されていた。勝負の行方はまだ見えそうにない。
かたや、二大悪魔とは大分規模が異なるものの、人間と悪魔の攻防も互角の様相を呈していた。
車の裏に逃れていた狼は、しなやかな動きでボンネットの上に飛び乗る。直後、ベルが振ったスタンロッドをかわし、ついでに空気弾を発射した。
それに対し、ベルは攻撃と回避行動を連続させていた。彼女は攻撃を空振りさせられるとそのまま流れるような動きで素早く膝を屈め、車の陰に身体を隠した。それによって至近距離から発射された空気弾は車のサイドミラーを吹き飛ばしてベルの頭上を掠めてゆく。一歩間違えればベルの頭に風穴が開いていたかも知れない、非常に際どい攻防だった。
それが終わった後も、ベルに安堵している暇は無い。南方も、悪魔も、誰もが息つく間もなく、状況はめまぐるしく移り変わる。
南方がマシンガンの銃口を向けると、悪魔は車を踏み台にして跳躍し、そのまま空へ逃れた。上昇しながら器用に反撃の炎を放つ。
三連射された青い炎の球体は、南方に向かって正確に飛んだ。
南方は後方へジャンプして何とかやり過ごす。お互いに攻撃が当たらない。傍目には美しい戦いだったが、それを演じている本人たちは冷や汗モノに違いなかった。
ベルが両手の武器を持ち替える。利き手に銃を握った。
その挙動をしっかり見逃さなかったようである。翼を緩やかに上下させ宙に静止していた悪魔は、ベルが武器を持ち替えた途端、彼女に尻を見せて疾走した。一気に距離を稼いで銃弾の有効射程距離から逃れる。
ベルは軽く舌打ちをした。
このときようやく、樹流徒が戦場に合流する。負傷の痛みが深刻でまともに走ることができなかったため、移動が大分遅れた。
「大丈夫ですか?」
樹流徒は南方の隣にしゃがみ込む。体に走る激痛のせいで声が微かに震えていた。
「こっちはね。でも君は大丈夫じゃなさそうだね」
「ええ。軽傷と言いたいところですが、少し良いのを貰ってしまいました」
「そうかい。にしても参ったね。今回の敵、相当手強いよ」
「あの狼の悪魔は何者ですか? ベヒモスの召喚を止めさせるのが目的みたいですけど」
「多分“マルコシアス”だ」
「マルコシアス?」
「ソロモン七十二柱の悪魔で、序列第三十五位。グリフォンの羽を持ち炎を吐く、牝狼の悪魔さ」
南方が解説しているあいだにも、ベルとマルコシアスは激しい一騎打ちを繰り広げていた。地上から昇る銃弾と空から降り注ぐ炎の玉が狂ったように交差している。
「確かに手強い……」
樹流徒は表情を曇らせた。
今回の敵・マルコシアスは、攻撃力と機動力の両方を兼ね備えている。知能も低くない。これといった弱点の見当たらない強敵である。加えて、樹流徒自身は手傷を負って万全の状態ではない。苦戦は免れそうになかった。
南方の口から「仕方がない」という言葉がこぼれる。
彼は足を一歩前へ踏み出した。
「これはもう力の出し惜しみをしてる場合じゃないな」
そのように言葉を継いで、まだ銃弾が残っているサブマシンガンを何故か地面に置いた。代わりに腰の拳銃を抜く。自ら装備のマイナーチェンジを行った。
「力の出し惜しみって……どういう意味です?」
樹流徒は、南方が漏らした言葉の真意を尋ねる。
「俺は、キルト君のことを敵だとは思ってない。けど、完全に信用してるわけでもない」
「それがどうしたんですか?」
「悪いけど、俺は今まで君に対して手の内を隠してたってコトだよ。ハッキリ言って今回だってそうしたかった。でも、残念ながらマルコシアスは手加減して勝てる相手じゃないみたいだ」
南方は今までと変わらぬ軽い口調で答え、上空の悪魔に銃口を向けた。間を置かずにトリガーを引く。
当然のように乾いた銃声が鳴り響いた。
そのすぐあとを追って、あッと驚く声が飛び出す。樹流徒は、甚だ意外な光景を間近で目撃した。
南方の拳銃から放たれた銃弾は、明らかに普通ではなかった。銃口から離れた途端に小さな火を纏ったのである。弾丸が、赤い線を引いて敵に向かい走る。
拳銃というのは思いの外、有効射程距離が長くない。銃や弾丸の種類にもよるだろうが、南方が使っているリボルバー式拳銃とそれに使用されている弾では、せいぜい三~四十メートルがいいところではないだろうか。重力に逆らって撃てば尚更距離は短くなる。マルコシアスは現在かなり高い場所にいた。これでは仮に弾丸が届いたとしても、高威力は期待できなかった。
だからこそ、南方の銃が放った炎の弾丸は驚くべきものだった。その一発は物理的な法則に逆らって、勢いを弱めるどころか、むしろ加速してゆくのだ。余りにも一瞬の出来事で、通常人間の肉眼では捉えらない現象だったが、意識を集中させた樹流徒の動体視力は微かにその片鱗を見た。
マルコシアスは、恐らく洞察力に優れた悪魔である。少なくとも相手が使用する武器の大まかな特徴を把握するだけの能力がある。だからサブマシンガンの銃弾も最初の一発しか食らわなかった。
その優れた洞察力が、今回は仇となったようだ。悪魔は、ベルの発砲によって拳銃の有効射程距離を概ね見切っていた感があった。それだけに、南方が放った炎の弾丸の動きは予想外だったはずである。
銃口速度よりも加速するという摩訶不思議な現象を見せた一発の弾丸は、安全な位置で待機していたはずの狼の前脚を打ち抜いた。