詩織と悪魔の現世旅行(後編)
遊園地のアトラクションを存分に満喫した後も、詩織と悪魔たちの旅行は続いた。土産物屋に陳列されてる商品を漁り、小さなハーブ館の中を覗き、何気なく無人の映画館に立ち寄った。現世で過ごす時間を限りなく濃密にしようとするように、四人は他にも色々な場所を回った。存分に走り回り、言葉を交わし、そして笑った。
ただ、詩織だけは純粋に楽しむことはできなかったようである。彼女は時折真剣な表情で南の空を見つめていた。その空の下には、レビヤタンが出現する大海原が広がっている。
ところで、アンドラスが途中で仲間から外れた。彼は本来、単独行動を好むらしい。「自分の好きな場所で好きなだけ過ごせるのが一人旅の魅力なんだよ」と、熱く語り、東の空へと消えていった。
再び三人になった一行は、その後も小一時間ほど遊び回っていたが、詩織の体力が限界に近付いてきたため、次に寄る場所で今回の現世旅行を締めくくることにした。
彼らが最後に訪れたのは、だだっ広い公園だった。野球とサッカーの試合を同時に行っても余地があるほど広いが、実際にそれをするのは無理である。芝生に隠された大地には浅くて広い凹凸が散在しているからだ。少し奥へ進むと低い柵に囲まれた池もあり、濁った水の上に朱色の橋が架かっていた。
この公園は、主に運動好きな人やお年寄りたちから愛されていた公共の場だが、現在は悪魔たちがくつろいでいた。その数は遊園地にいた悪魔よりも少し多い。談笑している者の姿もあるが、殆ど皆、芝生の上に座るか、もしくは体を横たえていた。
詩織たちは知るはずもないだろうが、この公園は以前、樹流徒と南方が会話をした場所でもあった。樹流徒の、魔都生誕の真実を探す旅はここから始まったといっても過言ではない。
「へー。今の現世にもちゃんとこういう場所は残ってるんだね」
サキュバスは感心した様子で、ほぼ緑一色に染まった景色を目に焼き付けている。
三人はのんびりと会話をしてから帰路につくことにした。幸い誰も使用していないベンチが遠くに見える。池を正面に臨む水色のベンチだ。
彼らはそこまで移動すると、悪魔ニ体が詩織を挟む格好で、並んで座った。
「今日はありがと。とっても楽しかったよ」
満ち足りた顔のサキュバスが詩織に礼を言う。
「いいえ。私も良い気分転換になったわ」
「ボクも満足だよ。今度こそ魔界に帰ろうかな」
マルティムが言うと、詩織は「そうね」と相槌を打った。
「多分、その方がいいと思う。もうすぐここは危険に晒されるかもしれないもの」
「え。なんで?」
マルティムは上体を前傾させ詩織の顔を覗き込む。
「レビヤタンという悪魔が上陸するかも知れないから」
「それホント?」
「ええ。アンドラスに忠告してあげるのを忘れてしまったけれど、大丈夫かしら?」
「心配ないよ。彼、ああ見えてもそんな簡単に死ぬようなヤツじゃないから」
「そう……。ならいいけれど」
「でも、どうしてシオリはレビヤタンが現れるって知ってるの?」
と、サキュバス。
「私、未来を見る力があるの。自由に扱えない中途半端な力だけれど……」
「未来予知能力ってヤツ? ニンゲンなのにそんなことができるなんてスゴーい」
詩織の言葉を微塵も疑わず、サキュバスは素直に驚いたような反応を見せる。
「その能力って、生まれつき持ってたの?」
「いいえ」
詩織は否定する。
「私……。数年前に、少し変わった事件に巻き込まれたの」
「事件?」
「ええ。多分、それがきっかけで力を使えるようになったのだと思う」
「ちょっと興味をそそられる話だね。どんな事件だったのか聞いてもいい?」
「ええ」
躊躇う素振りを見せず、詩織は首肯した。
「幸い被害者はいなかったし、事件そのものに対してトラウマがあるわけでもないから、当時のことを話すのに抵抗はないわ。でも……」
「でも何?」
「とにかく不思議な出来事だったから、余り上手く説明できないの」
「別にそれでも良いよ。ね?」
マルティムはサキュバスに同意を求める。
女性悪魔は期待に満ちた顔を上下させた。
「そう」
詩織はマルティムに向けていた視線を池の水面に移す。
そして、彼女がまだ中学生だった時に巻き込まれた“名も無き事件”について語り始めた。
「その日は空がよく晴れていて、私は平凡な日常を過ごしていた。そのままいつもと変わらない一日が過ぎてゆくはずだった」
「うんうん。それで?」
「けれど、突然何の前触れもなく、空から金色の光が降ってきたの」
「金色の光? それなあに?」
「未だ正体不明の、得体の知れない光よ。当時は恐ろしかったけれど、今思い出すととても大きくて美しい光だった」
「その光がどうしたの?」
「光の落下地点に偶然私たちが居合わせたの。私たちは避ける暇も無く光に飲み込まれたわ」
「ふうん。それは災難だったね……と言うべきなのかな?」
「どうかしら」
詩織は謎の微笑を浮かべた。
「光を浴びたのは、私を含めて四人だった。全員が意識を失って病院に運ばれたわ。数時間後には皆無事に目を覚ましたけれど」
「それで……。お姉ちゃんは、その光を浴びたことによって能力を手に入れたっていうの?」
「断言することはできない。けれど、そうとしか考えられないの。何しろ初めて未来予知の力を使ったのは、事件の翌々日だったから」
「なるほど。お姉ちゃんの話が本当なら、確かに不思議な出来事だね」
「ねえねえ。初めて未来を見た時、どんな感じだった?」
急かすようにサキュバスが尋ねる。
「あの時のことは良く覚えているわ。未来の映像が頭に浮かぶ直前、突然喉に焼けるような痛みが走ったの」
「へえ。それから?」
「その時、丁度手元に鏡があったから覗いてみたわ」
「そしたら? どうなってたの?」
「首に“変な文字”が浮き上がっていた。次の瞬間、未来の映像が次々と頭に流れ込んできたの」
「その文字って、一体何なんだろ?」
「分からない。最初は変わった形の痣だと思ったのだけれど、予知能力が途切れた時には消えていたから」
「え。なにソレ?」
サキュバスが眼をぱちぱちさせた。
「その変な文字っていうのがどんな形してたか覚えてる?」
マルティムが追求する。
「ええ。覚え易い簡単な形だったから。でもきっと現世の文字ではないわ。こんな形なのだけれど……」
答えてから、詩織は掌に指を走らせて文字を描いた。
それを目にした途端、これまで一度として無邪気な少年の顔を崩さなかったマルティムが、本当に一瞬だけ、虚を突かれたかのような面持ちになる。
その微かな変化を詩織は見逃さなかったようだ。
「アナタ、今の文字について何か知っているの?」
と、マルティムに聞いた。
「まあね。とは言っても、まず有り得ない話だけどさ。今、お姉ちゃんが描いた文字……」
――パスン
マルティムが何かを答えようとしていた、その最中だった。
出し抜けに乾いた音が鳴った。その異質な音は、公園の入り口方向から聞こえてきた。
直後には、ギャアッとかグオッとか、けたたましい複数の雄叫びが重なって響き渡る。
詩織とサキュバスは勢い良くベンチから立ち上がった。三人は揃って音の鳴った方に顔を向ける。
先程まで公園の入り口でくつろいでいた悪魔たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。臨戦態勢に入っている悪魔もいる。たった今、公園の中を駆け抜けた雄叫びは、彼らの発した悲鳴であり、断末魔であり、怒声だった。
混乱と緊張状態に陥っている悪魔たち。その向こう側には、三つの影が横並びで立っている。いずれも人間の姿をしていた。恐らく全員男だ。背丈や格好はそれぞれ違う。
「天使の犬!」
サキュバスが眉を吊り上げて叫んだ。
そうしている間にも、乱入してきた三人の内一人が拳銃を発砲して、悪魔を仕留める。辺りには急激に死と暴力の臭いが立ち込めた。
詩織の表情が複雑そうな心境を映し出す。魔都生誕以後初めて樹流徒以外の人間を目撃した驚きと、眼前で繰り広げられる凄惨な光景に対する嫌悪感が交じり合っている感じだった。少なくとも嬉しそうな顔ではなかった。
「ボクが時間稼ぎしてやるよ。キミたちは逃げていいよ」
未だベンチに腰掛けたままのマルティムが、二人に声をかける。その落ち着きぶりは混乱という言葉とはまるで無縁そうだった。それどころか新しい玩具を発見した子供のように心身が疼いているように見える。
「でもアンタ一人で大丈夫なの?」
「“天使の犬が現れたらアタシたちを守れ”って言ったのはキミでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「ま、心配ないよ。三人同時相手はちょっとキツイけど、少なくとも殺されるようなヘマはしないから」
悪魔ニ体がそのようなやりとりをしていると
「私、あの人たちを説得してみる」
詩織がスタスタと歩き出す。
それを慌てた様子でサキュバスが引き止めた。後ろから詩織の腕を掴む。
「ちょっと。無理だよ。奴ら、悪魔相手には徹底的に容赦ないんだから」
「お姉ちゃん。悪いけど足手まといになられるのはゴメンだからさ。サキュバスと一緒に早く逃げてよ」
続いてマルティムがそう言うと、詩織は無言で微かに眉根を寄せた。
「さ。行くよ」
サキュバスは詩織の腕を強引に引いて走り出す。
彼女たちは公園を出てすぐ眼前にある民家に逃げ込んだ。洗面所に大きな鏡があったので、詩織の鍵を使って悪魔倶楽部へ逃れた。