魔界の人脈
悪魔倶楽部店内の様子は数十分前と比べて何も変わっていなかった。客席はひとつも埋まっておらず、辺りはお通夜のようにひっそりとしている。
ベヒモスの魔法陣について調べるため店に戻ってきた樹流徒だが、これでは情報収集どころではなかった
カウンターの奥では、相変わらず店主バルバトスが仁王立ちをしている。ローブの下に隠れた両腕を棒切れのようにぶら下げて、何だかぼうっとしていた。いかにも時間が有り余っているといった風だ。
相変わらずと言えば、グリマルキンの姿も見える。いい気なもので、客席の陰に体を伏せてのんびりと睡眠中だった。
あの灰猫は何でも食べるらしいから、現世に連れていけばレビヤタンも食ってくれるかも知れない。そんな馬鹿馬鹿しい案を、樹流徒は一瞬とはいえ本気で考えた。いよいよ追い詰められている証拠だった。
樹流徒の来店に合わせるように、バルバトスの背後にある扉が開く。その向こうから手持ち無沙汰の詩織が姿を見せた。
彼女は、店の入り口付近に立つ樹流徒の存在にすぐ気付いたようで、彼に歩み寄る。
「お帰りなさい相馬君。服、着替えたのね」
「ああ」
そういえば前に着ていたジャージは詩織の父親のものだった。
「あのジャージ、悪魔との戦闘でボロボロになってしまったんだ」
「そうなの。アナタ自身は怪我とかしていない?」
「大丈夫。かすり傷程度だ」
「なら良かった」
詩織はひとつ頷いて、すぐ大切な話に移る。
「残念な報告だけれど、アナタがいない間にお客さんは誰も来なかったわ」
「そうか」
今は詩織が悪魔倶楽部で情報収集をしてくれている。樹流徒は、自分が不在のあいだに詩織が何か情報を掴んでいるかも知れないと少し期待していたが、空振りに終わったようだ。
どうしたら良いか、と樹流徒は眉を曇らせる。
「何だか浮かない顔をしているけれど。その様子だと、余り良い成果は得られなかった?」
「成果はあった。だけど少し厄介な問題が発生したんだ」
「問題?」
「魔法陣だ。それがないと駄目らしい」
「待って。落ち着いて1から説明して」
詩織の言葉に、樹流徒は相槌を打って、深い呼吸をする。
それから彼女の要望に応えて、事の成り行きを、順を追って説明した。ついでに、前回話しそびれていた天使の犬に関する情報も一緒に伝える。
話を聞き終えた詩織は、現世に生存者が複数名いることを知って、心なしか安堵したような表情を覗かせた。しかしそれも束の間
「マモンはどうするの?」
生贄の問題について言及した。
マモンを生け捕りにできない限りベヒモス召喚は不可能。ただ、マモンは既に存在しない。それは詩織自身も良く知っているはずだった。何せあの悪魔は樹流徒と詩織が二人が協力して倒したのだ。もうこの世にはいないマモンをどうやって生贄に捧げるつもりなのか?
その疑問に、樹流徒は答える。
「生贄の問題に関しては、一か八か試してみたいことがある」
「試したいこと?」
「君も知っての通り、僕は倒した悪魔の魂を取り込んでしまう。マモンの魔魂もそうだ」
「ええ、そうね」
「だから、それを使うことができるんじゃないかと考えたんだ」
「え」
詩織は瞬きをして長い睫毛を上下させる。耳を疑った様子だった。
「つまり、相馬君自身を生贄に捧げるということ?」
彼女は、樹流徒が放った言葉の意味を確認する。
「僕というより、僕の中にあるマモンの魂を」
「それは……余り賛成できない案ね」
「何故?」
「確かにアナタは、マモンの魂を取り込んだ。でも、それを生贄に捧げられるという確実性が無いわ。完全な思い付きじゃない」
「だから一か八かって言っただろう?」
「おおよその勝率すら分からない賭け事に手を出すということね」
「……」
「儀式が失敗するだけならまだしも、アナタ自身が危険に晒されたらどうするつもり?」
彼女は淡々とした語りの中にわずかな非難の色を含める。
それでも変に負けず嫌いな一面を持つ樹流徒は、こういう場面では決して引かなかった。
「たしかに何が起こるかなんて分からない。けど、他の方法を探している時間なんて無い。それは君にだって良く分かっているはずだ」
「そう。そこまで言うのなら……私はもうこれ以上反対はしない」
言い争いを避けるように、詩織は消極的な容認をする。不安や不満を抱えているそぶりは微塵も無く、表面的には実にあっさりした態度だった。
このやりとりが終了した時、二人の会話も自然と終わった。
樹流徒は、次に、バルバトスに話しかけてみることにした。前回店を訪れたとき、バルバトスは「悪魔召喚について何も知らない」と口述していた。おそらくベヒモス召喚の魔法陣に関しても一切知らないのだろう。知っていたら前回樹流徒が店を出る前に教えてくれていたはずだ。
そうと分かった上で、万が一にも有力な情報を持っているかも知れない。わずかな望みを胸に、樹流徒は足早にカウンターの前へ。
「バルバトス。僕たちの会話は聞こえていたな?」
「ああ。だがオレはベヒモス召喚の魔法陣など知らないぞ」
バルバトスの口から予想通りの答えが返ってきた。
「その内、情報を持った客が来るかも知れん。大人しくそれを待つのだな」
「時間に余裕が無い」
「だがオマエは待つしかない。それとも他に方法があるのか?」
「……」
バルバトスの諭すような言葉に、樹流徒は言い返せず黙る。
背後から詩織が近付いて
「相馬君。情報収集は私がするから、アナタは少し落ち着いた方がいいと思う」
と、いつもより幾分優しい口調で声を掛けた。
その言葉に、樹流徒は素直に従った。自分が冷静さを欠いているとは少しも思わなかったが、詩織やバルバトスの目にはそうは映らなかったのかも知れない。それに、折角気を遣ってくれた詩織に反発しても良いことはひとつも無さそうだった。
樹流徒は適当な客席に腰掛けてジッとする。ここから彼にとって非常にもどかしい時間が始まった。
何の進展も無いまま、早くも一時間くらい経とうとしている。その間に客が三名来店した。彼らに対して詩織が声を掛け、ベヒモスの魔法陣について聞いてみたが、二名は何も知らなかった。残り一名は人間嫌いのため話しかけても無視され、樹流徒が声を掛けても無反応だった。
情報は何も得られていない。樹流徒は椅子に腰掛けたまま体を落ち着けていたが、心の中は次第に正反対の動きを強めていた。いつしかその動きが体にも現れる。ジッとしていることに耐えられくなった指先が、テーブルの上をトントンと叩き始めた。
この、自力ではどうにもならない歯がゆい状況がようやく動き出したのは、樹流徒の人差し指が十回ほどリズムを刻んだ時である。
再び悪魔倶楽部の扉が開かれた。四度目の来訪者が姿を見せる。
それは人間に近い姿をした女性の悪魔だった。見た目は二十歳前後。背中から覗く強いウェーブがかかったライトブラウンの髪と、一対の黒い羽が目を引く。と言うより、他の部分に視線を送る事ができなかった。その女性悪魔は身に纏っている服の布面積が非常に狭いからだ。少々目のやり場に困る客だった。
露出が多い格好をした女性悪魔は一人で来店したらしく、後ろから連れが入ってくる様子は無かった。
詩織は店の入り口に駆け寄り、新たに現れた客に声を掛ける。
「あの。ちょっといい? ひとつ聞きたいことがあるのだけれど」
「え~なに? あれ? アンタ、ひょっとしてニンゲン?」
女性悪魔は、へんに間延びした艶かしい声を出す。言葉遣いがやけに軽い。
「ええ。そう。人間よ」
「魔界にニンゲンがいるなんて珍し~い。で? アタシに何か用?」
「唐突な質問だけれど、アナタ、現世でベヒモスを召喚するための魔法陣を知らない?」
「はぁ? なにそれ? ワケわかんない」
「そう。知らないならいいの。邪魔してごめんなさい」
どうやらこの客からも情報を引き出すのは無理らしい。
詩織は女性悪魔に背を向けた。
「あ~。待って」
それを客が引き止める。
「え。何?」
「アタシ、ムズカシーこととか全然わかんないけど、アタシの友達なら何か知ってるかも。アイツ、結構物知りだし」
「本当?」
それを聞いて、詩織はすぐに樹流徒を呼んだ。
樹流徒は椅子から尻を跳ね上げると、女性悪魔の元に走り寄る。
「この悪魔の友人がとても物知りらしいわ」
と、詩織から説明を受けた。
「博識の悪魔か……。何か知っているかもしれないな」
「ええ。ここからはアナタが直接話を聞いた方が良さそうね」
詩織はそう言って、大きく一歩、横にずれた。
彼女と入れ替わって、樹流徒が女性悪魔の正面に立つ。
「お前には物知りな友達がいるらしいな。もし良ければその悪魔を紹介してもらえないか?」
挨拶も自己紹介も無いまま、急いで本題に入った。
「ん? もしかしてアンタもニンゲン?」
「ああ」
「ふ~ん。魔界で二人のニンゲンを同時に見るなんて初めて」
「そんなことより、頼む。お前の友を紹介してくれ」
「え~。しょーがないな~。それじゃ三日くらい待ってよ」
女性悪魔は簡単に了承した。
ただ、樹流徒たちはのんびり三日も待っていられない。レビヤタンは二十四時間以内には現れる。
もっとも、魔界の三日と現世の三日が同じ長さとは限らないが、樹流徒はそんなことにまで頭が回らなかった。
「それでは駄目なんだ。今すぐ頼む」
引き続き要求すると
「はぁ? なにソレー? 調子乗ってんじゃないわよ」
女性悪魔が不機嫌になる。むっとした顔で、背中の羽を激しく前後させた。
「違う。急いでいるんだ。三日後では手遅れになってしまう」
樹流徒が説明すると
「え~? そーなの。それを先に言いなよー」
女性悪魔は怒りを鎮め、代わりに眉根を寄せた。そして「うーん。どうしよっかな」と面倒臭そうに呟きながら考え始めた。感情の起伏が激しくて表情豊かな悪魔である。
それから間もなくであった。彼女は人が変わったように、今度はガラリと表情を明るくして
「じゃあさ~。私の“お願い”聞いてくれる?そしたら今すぐ友達呼んできてあげてもいいよ」
などと言い出す。
「お願い?」
「そ」
「どんな願いだ?」
「あのねー。私、現世で思いっきり遊んでみたい。でも、現世って天使の犬がうろついてるじゃん? 私みたいな乙女にとってはキケン過ぎるっていうかさー」
「乙女……」
「え。なに? 文句あるの?」
「無い。つまり天使の犬からお前を護衛しつつ現世を案内しろということだな?」
「そうそう。どうする?」
この提案を受けるべきか否か、樹流徒は、悩む余地は無い気がした。
「分かった。今すぐお前の願いを聞く。現世のどこに行きたい?」
「ば~か。それはアンタが考えるの」
「……」
樹流徒は静かに吐息を漏らし、再度「分かった」と返事をした。
と、そのとき。
「待って」
話がまとまりかけたこのタイミングで、隣に立つ詩織が、両者の会話に割って入る。
樹流徒と女性悪魔は揃って彼女に視線を移した。
「どうした伊佐木さん?」
「ね。その役目、私に任せてくれない?」
「え」
「私が悪魔と現世へ行くの。どう?」
意表を突く提案だった。
樹流徒は一瞬答えに窮して、しかしすぐに否定する。
「いや。現世には悪魔がいるから危険だ」
「ええ。危険ね。でもそれはお互い様でしょう? それに、レビヤタンが現れるまで時間が無い。アナタはアナタで、他にすべきことがあるはずよ」
「でも、君ではこの悪魔を天使の犬から守れない」
「何とかする」
「何とかって……」
樹流徒は再び言葉に詰まる。詩織は一歩も引く気配が無かった。
思い返してみれば、彼女はどこか他者に頼ることを嫌うふしがある。そういった場面を、樹流徒はここ数日の内に何度か見てきた。
「ねー。なんでもでもいいから早くしてよー」
女性悪魔は両手を腰に添えて退屈をアピールしている。もう待ちきれないといった様子だ。
「本当にいいのか?」
樹流徒が今一度詩織の意思を確認すると
「ええ」
彼女は迷いの無い態度で、己の主張を貫く。
「分かった。それじゃ君にお願いするよ」
樹流徒は、詩織の申し出を容認した。樹流徒自身これから無茶をしようとしている手前、詩織にはそれを許さないという道理を通す事はできなかった。
「どうやら決まったみたいだね」
「ええ。私がアナタと一緒に現世へ行くわ」
「分かったー。それじゃ、今からアタシの友達呼んできてあげる」
今度こそ話が合意に至った。
女性悪魔は軽快な足取りで、訪れたばかりの店から出て行った。




