2つの問題
最初は五人の輪だったのが、八坂兄妹が退場して三角形となり、その三角形もベルが外れたことでとうとう樹流徒と南方を結ぶただの直線になってしまった。その直線は言うなれば一本の綱。樹流徒にとって一縷の望みであった。
「いやあ。こんなことなら、はじめから俺らだけで話した方が早かったかもね」
南方は冗談っぽい口調で結果論を唱える。
もっとも、こうなることは必然だったのかも知れない。令司が指摘したように、情報源を明かせない樹流徒の話は誰が聞いても甚だ説得力に欠けていた。むしろ怪しかった。それでは組織の面々が取り合ってくれるはずもない。令司やベルが怒って部屋に帰ってしまったのも、自然な反応だった。
そんな中、南方だけでも話を聞いてくれることは、樹流徒にとって非常に幸運だったと言えるだろう。
何故、南方がこうもすんなりとレビヤタンの話を信じてくれたのか? 加えて組織の決まりに逆らってまで悪魔召喚の手助けをしてくれるのか? それは、当人のみぞ知るところである。
単に、南方という人間が、困った人を見捨ててはおけない性分の持ち主なのかも知れない。或いは、彼には何かしら思うところがあったのかも知れなかった。
「さて。それじゃあベヒモス召喚について話そうか」
南方はやや神妙な面持ちで話を切り出す。
「お願いします」
樹流徒も一緒に表情を引き締めて、返答した。
南方は黙諾し、早速本題に触れてゆく。
「まず、俺たち人間が悪魔を召喚するには、そのための“儀式”を行う必要がある」
「儀式ですか。そういえば、そんな話をしましたね」
樹流徒の記憶が確かなら、その話が出たのは村雨病院の屋上だった。会話の内容も覚えている。“ひと口に儀式と言っても沢山の種類がある”と、南方は言っていた。
「よく覚えてたね。そう。その儀式だよ。今回は悪魔ベヒモスを召喚する儀式だから“悪魔召喚儀式”だね」
「その儀式は難しいんですか?」
「いや。大して難しくない。儀式の実行者には素質が求められるけど、魔法陣を展開して魔界の炎を召喚できる君ならば、その点に関しては特に問題ないだろう。ただ……」
「ただ?」
「儀式よりも、それを行う前の段階が問題でね。(儀式に)必要なモノを揃えるのが難しいんだよ」
「何が必要なんです?」
「“魔法陣”と“生贄”と“呪文”。実を言えば、この三つさえ揃えば、割と簡単に悪魔を呼び出せてしまうんだよ」
「魔法陣と生贄と呪文……」
悪魔召喚の儀式には魔法陣と生贄と呪文の三つが必要。
魔法陣・生贄・呪文。魔法陣・生贄・呪文…………樹流徒は頭の中で繰り返し呟いて、脳の海馬に情報を刻み付ける。
「君も既に承知の通り、魔法陣ってのは異世界同士を繋ぐ扉だ。悪魔召喚儀式の場合、それを自分の手で描く必要がある」
「手描きの魔法陣ですか?」
「そう。魔法陣を描く場所と手段は自由だ。例えばチョークを使って黒板に描くのも良し、木の棒で砂地の上に描くのも良し」
「大抵の場所で悪魔を呼び出せるということですね」
「うん。まさしく。あとは生贄と呪文についてだけど……。生贄は悪魔に捧げる供物。呪文は悪魔との契約文。それだけ」
「随分簡単な説明ですね」
「詳しく説明すると時間かかっちゃうしね。君、急いでるんだろ?」
まるで他人事みたいな言い草だった。
とはいえ、余分な話を省略してもらえるのは樹流徒としては有り難かった。
「悪魔召喚に必要な魔法陣・生贄・呪文のことは分かりました。それで……その三つの中で揃えるのが難しいものがあるっていう話でしたよね」
「そうそう。良い理解力だね」
南方は感心したように言う。
「何と言っても一番の問題は魔法陣だ。俺たちはベヒモス召喚用のそれがどんな形をしてるのかを全く知らないからね。ちなみに、生贄と呪文に関する情報だったら俺の頭の中に入ってるから大丈夫だよ」
「魔法陣について調べる方法は無いんですか?」
「残念だけど市内じゃ無理だろうね。そういった資料は殆どが組織の本部で管理されてるから」
「分かりました。でしたらそれについては僕が調べてみます」
「調べる? どうやって?」
「それは……とにかく何とかします」
樹流徒は言葉を濁す。
魔法陣に関する調査は言うまでもなく悪魔倶楽部を頼る他ない。ただ、それを組織の人間に教えるわけにはいかなかった。
「なるほど。やっぱ君は独自の情報網を持っているけど、それを俺らに明かすことはできないみたいだね」
「ええ。どうしようもない事情があるので」
「ま、いいや。それじゃ魔法陣の件は君に任せてもいいのかな?」
「はい」
「ならばそれは良しとしよう。けど、問題はもう一つある」
「それは?」
「生贄をどうやって調達するかだよ。何を集めれば良いかのは把握しているけど、実際にそれを集めるとなると、モノによっては簡単にはいかない」
「生贄は悪魔に捧げる供物でしたよね? 具体的にどんなものが必要なんです?」
「例えば動植物の体の一部だったりとか、鉱物だったりとか……ま、現世に存在するありとあらゆるモノだと考えていいよ」
「動物の一部とか、いかにもそれっぽい感じがしますね」
「ベヒモスほど強力な悪魔ともなれば、必要となる供物は一つや二つじゃない。でも大抵の物はこちらで用意することができる。色々保管してるからね」
「保管? 悪魔召喚を禁じているアナタたちが、どうして生贄を保管しているんですか?」
「生贄を必要とする儀式は何も悪魔召喚に限らないからだよ。例えば俺たちの武器を対悪魔用に強化する儀式や、悪魔にかけられた呪いを解く儀式を行う時にも使う」
「その場合も供物を捧げる対象は悪魔なんですか?」
「まさか。でも話が逸れるから、それについてはまたの別の機会にという事で」
「はい」
確かに今は余分な情報を探っている場合ではない。
「話を本筋に戻そうか。そんなわけで、ベヒモス召喚に必要な生贄は俺一人でほとんど用意できる。ここまではいいね?」
「ええ」
「でも一つだけ足りないものがあるんだよ。それが非常に入手難易度が高くてね」
「一体なんです? その足りないものって?」
「ある悪魔の魔魂」
「魔魂? ということは、悪魔の命を生贄として使用するんですか?」
「うん。特定の悪魔を生け捕りにして、ソイツを捧げるんだ。生贄にされた悪魔は魔法陣の中に飲み込まれ、魂を肉体ごとベヒモスに食われる」
「……」
「残酷な行為に感じるかい? でも、俺たちの組織じゃ普通にやってることだよ。勿論、悪魔召喚はしてないよ。それ以外の儀式で魔魂を利用するんだ」
「待ってください。南方さんはさっき“悪魔召喚儀式の生贄に使うのはこの世に存在するありとあらゆるもの”だと言ってましたよね?」
「そうだね」
「でも、魔魂は現世には存在しないんじゃ……」
「そんなことはないよ。さっきもチラッと言ったけど、俺たちの組織は普段、悪魔召喚儀式を行う人間を取り締まっているからね」
「あ……。なるほど、そういうことですか」
樹流徒は得心して頷く。
「アナタたちの組織は、人間が現世に召喚した悪魔の魔魂を利用しているんですね」
「はい、大正解。まあ、利用出来そうにもない悪魔は始末しちゃうけどね。アレはさすがにちょっとかわいそうだと思ってるよ」
「それで……ベヒモスの生贄に捧げる悪魔とは誰なんです?」
樹流徒は肝心要の質問をする。
「マモンってヤツ。強欲な悪魔として知られてる。なかなか手強い相手だ」
「え」
マモン。その名前を聞いた瞬間、樹流徒は心臓が一拍止まったような気がした。
できれば何かの聞き間違いであって欲しかったが、恐らくそれは有り得ない。今、南方は確かに「マモン」と口にした。樹流徒はその名に覚えがあった。
「あれ? どうかした? 何だか凄く驚いてるみたいだけど」
「南方さん。マモンという悪魔は複数体いますか?」
「ん?」
「マモンは、例えばチョルトやラミアみたいに、何体もいるんですか?」
樹流徒は口早に同じ質問を繰り返す。
「いや。ヤツは魔界に一体しか存在しない。だから捕えるのが困難なんだよね」
「……」
樹流徒は絶句した。もし南方の言葉が全て事実だとしたら、これほど絶望的な展開は無かった。余りにも無情な偶然だった。
一方、そんなことなど知るはずもないであろう南方は、口を動かし続ける。
「ま、ベヒモスを呼ぶ前にマモン召喚しちゃうって手があるけどね。もっとも、俺たちは悪魔召喚を禁じられているから、召喚した悪魔を生贄に捧げるなんて方法、聞いこともないけど」
「いえ、不可能です」
樹流徒がぽつりと漏らす。
「え」
南方は拍子抜けしたような声を返した。
樹流徒は一度目よりもはっきりした口調で
「マモンの生け捕りは不可能です」
繰り返した。
「どうして? 試してみなきゃ分からないでしょ」
「違う……。違うんです」
どんな顔をして説明すれば良いか、樹流徒は分からなかった。それでも言わなければいけない。
「マモンはもういません」
その事実を、南方に伝えた。
「いないって、どういうことだい?」
「あの悪魔は、僕が倒してしまいました」
「ええと……倒したというのは?」
「殺してしまいました」
数秒、二人の時間が停止した。痛々しい空気だけが、緩慢な動きで彼らの間を漂う。
「アハハ。そっかそっか。やっちゃったか。じゃあしょうがない。ベヒモス召喚は諦めて他の方法を探さないとね」
陽気な笑い声が静寂を払った。南方の口元は心なしか引きつっている。流石に今回ばかりは空笑いにしか見えない。
一方の樹流徒は少し難しい顔をしていた。彼はまだベヒモス召喚を諦められなかった。
「南方さん」
「うん? 何かな?」
「そちらで用意できる生贄と、呪文だけでも僕に頂けませんか?」
「え。そりゃ別に構わないけどさ。でも、マモンの生け捕りが不可能だとベヒモス召喚も絶対に無理だよ?」
「それでもお願いします」
樹流徒は重ねて請う。ひとつ試してみたいことがあった
すると、南方はううんと軽く唸って、何かを一考する素振りを見せる。
一体何を検討したのだろうか。結果、彼は十秒かそこらで首を縦に振った。
「分かったよ。君が何をするつもりかは知らなけど、マモン以外の生贄と、呪文は俺が用意してあげるよ」
「助かります。では、僕は魔法陣について調べるためにもう一度ここを離れます」
「そうかい。俺が用意したものはフロントに置いとくから、後で勝手に回収していいよ」
「分かりました」
樹流徒はその言葉を残し、早々に踵を返した。