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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
聖なる組織編
61/359

腔腸悪魔



 現世に帰還した樹流徒は、悪魔倶楽部を飛び出した勢いそのままに駆けていた。彼の脚力を以ってすれば温泉街に辿り着くまで五分と要らない。視界さえ良ければもっと短時間で済んだだろう。

 樹流徒はひた走る。海から現われる怪物――レビヤタンが上陸する前に、ベヒモスという悪魔を召還する方法をすぐにでも見つけなければいけない。


 ただ、急いでいる時に限って思わぬ邪魔が入る。そんな苦い経験を、きっと人間誰しもが一度は味わっているのではないだろうか。

 ある地点を通りかかったとき、温泉街まで不休で動くはずだった樹流徒の両足が突として停止した。


 そこは古風な佇まいの住宅地。位置的には商店街と太乃上荘の中間あたりだった。

 樹流徒の左手側には木造瓦屋根の一軒屋が並んでいる。青葉を身に纏ったトキワマンサクの生垣が、民家の敷地と道路を隔てていた。道路は軽自動車がすれ違う事ができるくらいの広さがある。普通自動車の中でも横幅があるものは交差するのが難しそうだ。

 一方、右手側はガードレールと側溝兼水路が道路と併走していた。ガードレールを越えると長さニメートル弱の短い土手が下っている。そこから水口(みなくち)が僅かに頭を突き出していた。土手のさらに向こう側には一反(約千平方メートル)くらいの水田が広がっている。もっとも、視界不良のため全体を見渡すことはでない。水田はふた月ほど前に稲の収穫を終え、今は水気を含んだ土だけが残っていた。


 民家と水田に臨むごく普通の道路である。にもかかわらず、樹流徒が心ならずもこの場所で足を止めたのには確たる理由があった。

 左手前方より、得体の知れない生物が姿を現したのである。ただし全身ではなく、体の一部だけ。


 それは最初、宙を泳ぐ一匹の蛇に見えた。巨大な蛇が、前方の曲がり角に建つニ階建て民家の上部の陰から頭を覗かせたように思われた。

 ところが初めは単体だった蛇は、瞬く間にニ匹……四匹と数を増やしてゆく。宙を漂う蛇が四匹、不気味に身をよじらせる。


「悪魔だな」

 何もこんなときに現われなくても……と、己の不運を少しばかり呪いつつ、樹流徒は転進した。初遭遇した生物との接触ひいては戦闘を避けるべく、道を迂回する。文字通り急がば回れである。

 悪魔に自分の存在を感知されていないことを願いつつ、忍び足で移動する。ひとつ先の曲がり角へ入ろうと即断した。そこを曲れば、住宅地の中央を縦断する一方通行の道に逃げられる。


 移動しながら一度だけ後ろを振り返ってみると、四匹の蛇たちはまだ民家の裏で蠢いていた。

 上手くやり過ごす事ができた、と樹流徒は、一度は安堵した。


 それが一転恐怖に変わったのは、樹流徒があと少しで曲がり角に指しかかろうというとき……


 予想だにしない事態に、樹流徒は思わずうっと声を漏らした。目の前の景色が、突然真っ青に変色したのである。まるで青いレンズのサングラスをかけたかのようだった。空から降り注ぐ光よりもずっと濃い青が、視界に映るもの全てを瞬時に染める。


 足を止めて、樹流徒は目を(しばた)かせたり、瞼を手で擦ったりする。それでも青く色づいた視界は回復しなかった。

 恐怖が(たちまち)ち不安に変わる。まさか、これまで魔魂を取り込んできた影響が遂に現れて、自分の視覚に何らかの異常や変化を生じさせたのか? そんな憶測が胸を()ぎって、樹流徒は慄然(りつぜん)とした。

 

 一方で、樹流徒は多少の冷静さも残していた。いままで何度も不可解な現象を目の当たりにしてきた経験の賜物だろうか。

 お陰で、樹流徒は段々と落ち着いてきた。落ち着くと、すぐに気付いた。もしかすると異変が起きたのは自分の視覚ではなく、周囲の景色そのものではないか? そう疑った。


 同時、背後で蠢動(しゅんどう)している悪魔の存在を思い出す。

 そうだ、まずはここから離れなくては。視界の変色については後でいい。

 なるべく足音を殺しつつ、樹流徒は今度こそ曲がり角の先へ駆け込もうとした。


 途端、何かとぶつかる。生垣や電柱ではなかった。風船よりも柔らかくて水より硬い、不思議な弾力を持つ物体と衝突した。反動で、樹流徒は前へ進むどころか逆に数歩後退させられる。

 今度は一体何が起きたのか?

 良く目を凝らして見ると、正面に謎の壁が出現していた。半透明の青い壁である。それは極めて緩やかに内側へ向かって反っていた。また、足下を注視すれば壁の縁も非常に小さなカーブを内側に向かって描ている。そのためこの壁は半球型の空間を形成していると想像できた。言わばドーム型空間だ。


 空間の壁は、建物や地面などを一切傷つけずに透過している。樹流徒だけが影響を受け、青いドームの中に閉じ込められていた。どうやら、樹流徒の考えは正しかった。彼の視界が狂ったのではなく、周囲の空間そのものが青く変色したのだ。

「そうか。これは魔空間だ」

 ようやく樹流徒はその答えに至った。悪魔の作り出した空間に閉じ込められたのだと気付いた。

 合点がいくまでに多少の時間を要したのは、樹流徒これまでに見てきた魔空間は、いずれもが建物内で発生したものばかりだかからである。今回のように建物の外で展開する魔空間を目の当たりにするのは、これが初めてだった。


 謎が解けたのは良かったが、厄介なことになってしまった。これでは逃げられない。

 樹流徒は厳しい表情になる。魔空間が発生した場合、それを作り出した悪魔も空間の中に存在する。もしかすると、民家の陰にいたあの悪魔がそうなのかも知れない。


 次の刹那、はっとした。不意に、背後から何者かの気配を感じた。

 全身の筋肉を緊張させ、振り返ると、先程の化物が全身の輪郭を露にしていた。音もなく蝸牛(かぎゅう)の如き遅速で、しかし着実に樹流徒との距離を詰めている。


 果たして化物の正体は複数の蛇などではなかった。樹流徒が蛇に見えていたものは、実は触手だった。

 クラゲである。悪魔の真の姿は空中を浮遊する巨大クラゲだった。全長五メートルはあるだろうか。内、八割以上の長さを触手が占めていた。


 樹流徒は指先から鋭利な爪を光らせて身構える。

 間もなく両者の距離が化物の全長と同じくらいにまでに縮まった。樹流徒の瞳が捉える悪魔の姿はいっそう鮮明になる。

 巨大クラゲは薄く紫がかったゼラチン質のクリアボディを持っていた。傘の中で赤青緑の微弱な光が電飾のように明滅している。不気味だが幻想的な姿だった。


 ――私はニンゲンを見つけた。


 樹流徒の耳に誰かの声が聞こえた。穏やかな青年の声だ。それは意外にもクラゲから発せられたように感じた。


 ――私はこのニンゲンが天使の犬だと予測する。


 もう一度同じ声がする。それはやはり間違いなくクラゲの体内から聞こえていた。一体どこから声を出しているのだろうか、世にも珍奇な“喋る巨大クラゲ”である。


 好都合だ、と樹流徒は思った。目の前にいる生物が悪魔なのはもはや疑いようも無いが、言葉が通じる相手であれば比較的容易に意思の疎通が図れる。

 樹流徒は巨大クラゲとの対話を試みようと考えた。仮に相手が戦闘を仕掛てくるつもりだったとしても、言葉を交わせばそれを回避できるかも知れない。


 問題は相手が会話に応じてくれるかどうかだが

「僕の名は樹流徒。お前は悪魔だな? 名前は?」

 早速話しかけてみると

「私はニンゲンの質問に答えることにする。そう。私は悪魔。名はフォルネウス」

 フォルネウスと名乗る巨大クラゲは、意外にもすんなりと樹流徒の問いかけに応じた。それにしてもかなり独特な語り口だ。


「この魔空間を発生させているのはお前なのか?」

「私はニンゲンの問いかけを肯定する。そう。この空間は私が構築している」

「何のために?」

「私はニンゲンの愚劣な発問に呆れつつ回答する。この空間は君を閉じ込めるために構築したものだ」

「もしかして交戦する気か? 言っておくが僕は天使の犬ではないぞ。不要な戦いをする気は無い」

「私は立腹する。そんな見え透いた嘘が私に通用すると思っているのか? 天使の犬でも無いニンゲンが魔空間のことを知っているはずが無い」

 フォルネウスは声を荒らげる。腹と呼ばれる部位を持たない腔腸動物が「立腹」という表現を使うのはどことなくおかしな話だが、とにかくこの巨大クラゲは耳を貸そうとしない。樹流徒を天使の犬だと決め付けてしまっているようだ。


「嘘じゃない。僕は先を急いでいる。邪魔をしないでくれ」

「私は天使の犬を嫌う。しかし最も嫌うのは嘘吐き。だから私は君をアッサリ殺さない。強烈な苦痛を与えてから駆除することに決めた」

 樹流徒の弁明は誤解を解くどころか、ますますフォルネウスを怒らせてしまったらしい。

 対話は失敗に終わった。こうなった以上、残された道は戦いしかない。樹流徒は再び爪を構える。


 すぐに攻撃を仕掛けたのはフォルネウスだった。四本ある触手の内一本を突き出す。その速さは緩徐に揺れるクラゲの傘の動きからは想像もできないほど鋭敏だった。触手の先端が、標的めがけ矢のように飛ぶ。


 樹流徒は咄嗟に地面を転がって横にかわした。寸秒遅れて、触手が彼の立っていた場所を通り過ぎ地面に突き刺さる。コンクリートを易々と砕き、その下で眠る土の中にまで潜り込んだ。

 心から滲み出した怖気が樹流徒の背筋を凍らせる。巨大クラゲの触手は外見に似合わず驚異的な貫通力を持っていた。


「私の攻撃が回避された。このニンゲン、只者ではない。やはり天使の犬。私は改めて確信した」

 フォルネウスはいよいよ聞く耳を失う。こうなっては戦闘を中断する事も叶わない。

 樹流徒は急いで立ち上がった。たった今、粉々に砕け散ったコンクリートの破片が目に留まる。否が応でも敵の触手を警戒せざるを得なかった。接近戦を挑むのに戸惑いが生じる。


 ここは遠距離から攻撃しよう。

 樹流徒はその場で火炎弾を放って牽制した。


 口から飛び出した小さな炎の塊が、見事クラゲの傘を直撃する。細かな火花が飛び散った。

 ただ命中したのは良いが、相手にどれ程のダメージを与えたのか判断し難い。フォルネウスは攻撃を食らった拍子に触手をビクリと跳ねたが、他に反応を示さなかった。また、クラゲには顔がない。攻撃が効いていたとしてもそれを表情から確認する事はできなかった。


 樹流徒は慎重に相手の出方を窺う。

 そこへフォルネウスの無言の反撃が飛んだ。今度は二本の触手が横並びになって標的を襲う。


 樹流徒は後方へ跳躍して対応した。

「あっ!」

 着地と同時、短い声を上げる。踵を水路の縁に滑らせてしまった。

 体のバランスを大きく崩した樹流徒は、ガードレールを乗り越え、小さな土手を転げ落ちる。そのまま水田の中に落下した。水気の混ざった泥が跳ねる。


 この機をフォルネウスは逃さない。すぐさま触手を伸ばして攻撃を仕掛ける。

 ただ、いくら触手が長いとはいえ、水田に落下した樹流徒との距離は相当は離れている。フォルネウスの一撃は樹流徒が倒れている位置にまで届きそうにないように思われた。

 だが、実際には届く。触手は身を細める代わりに長さを増し、遠く離れた樹流徒を襲った。

 追撃に感づいた樹流徒は倒れたまま水田の上を転がる。触手はほぼ無音で(うね)の小山を突き抜け泥の中に刺さった。


 寸でのところで難を逃れた樹流徒は、泥にまみれた体を起こし、地に片膝を着いた状態で掌の前に紫色の魔法陣を描く。

 六芒星の中から呼び出された地獄の炎が、フォルネウスに狙いを定めて正確に飛んでゆく。この強力な炎――火炎砲は、火炎弾と比べてやや速度に劣るが、決して易々と回避できるほど遅くもない。

 見るからに鈍重そうなフォルネウス本体がこの一撃をかわすことは不可能だ。炎を放ったと同時、樹流徒はそう直感した。


 対して、フォルネウスは傘をふわりと膨らませてすぐに(しぼ)ませる。傘の中いっぱいに空気を溜めてから勢い良く吐き出した。これらの動作を瞬時の内に行うことによって推進力を得る。速筋が発達した白身魚のように機敏な動きで宙を進む。難なく攻撃を回避した。

 火炎砲はフォルネウスの横を通り過ぎ、生垣の上を乗り越え、民家の屋根で炸裂した。巨大な炎の欠片が四方八方へ飛び散る。それら一つ一つにチョルトを葬るだけの威力があるが、敵に当たらなくては意味が無い。


 樹流徒が思いもよらなかった方法で攻撃を避けたフォルネウスは、さらに反撃に出る。触手の一本を樹流徒の心臓めがけて伸ばした。

 遠距離攻撃の応酬である。樹流徒は体を横に逸らして敵の一撃をやり過した。今度は単に回避するだけではない。あえて紙一重でかわして、伸びきった触手に爪を突き立てた。

 触手は透明な液体をばら撒きながら千切れる。コンクリートを砕く硬さを持っているとは思えぬほど簡単に切断する事ができた。もしかすると先端部分だけが硬いのかも知れない。


 本体から切り離された触手は土の上でミミズのようにのた打ち回っていたが、数秒と経たぬ内に魔魂と化した。

 この攻防によって、樹流徒の脳裏には勝利の二文字が浮かぶ。フォルネウスに残された触手は残り三本。全ての触手を切り落としてゆけば、敵はもう何もできない。降伏させることだって可能かも知れない。


 その希望は瞬く間に消失した。断割されて短くなった触手がたちどころに再生してゆくのである。凄まじい再生速度だった。

 樹流徒がその現象に面食らった時には、触手はだいぶ元の姿を取り戻していた。




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