第2の予言
地面のタイルを踏む律動的な足音が、ピタリと鳴り止む。
電池が切れたように立ち止まった樹流徒が視線を送った先、一軒の小さな建物が佇んでいた。外壁の大部分を占める分厚いガラスには“定田松美容院”という文字が控え目な大きさで並んでいる。商店街と同じ名前を持つ美容院だ。
壊滅寸前の体で立ち尽くす両隣の店に挟まれて、その美容院は奇跡的とも思えるほど被害が軽微だった。入り口が壊されドアの破片が狭い範囲に飛び散っているが、それ以外特に破損した箇所は見当たらない。白い壁は塗りたてのペンキみたく真新しい色を放っていた。四六時中うっすらと暗い市内では、こうした明るい色の建物はほかの建造物に比べて幾分目立った。加えて商店街全体は半ば廃墟と化してしまったため、被害が小さな建物は余計目に留まり易い。樹流徒が何気なく足を止めたのもそのためだった。
ガラスを通して店内の様子を窺うと、中は荒らされた様子が全く無かった。美容椅子の前には二枚の大きな鏡が並んでいる。両方とも壁に張り付いたまま無傷で残っていた。
あの鏡を使って悪魔倶楽部へ移動するのが良さそうだ。
ほとんど迷わず樹流徒は決断した。
謎の少女と別れてから5分くらいが経過しているが、その間に新たな悪魔が現れることはなかった。この商店街はすでに荒らし尽くされた後だから、悪魔にとっては用済みな場所なのかも知れない。鍵を使用するには最適な場所ではないだろうか。
美容院のドアを引いて、樹流徒は店内に踏み込んだ。床には割れ落ちたガラス片が四散している。その上を歩くと、靴裏と地面に挟まれた破片がジャリッと小さく鳴いた。
奥へ進み、美容椅子の横を通り過ぎて鏡の正面に立つ。念には念を込めて周囲に人の気配が無いことを確認してから、鍵を差し込んだ。鏡の表面が波打ったところでそれを引き抜いて、中へ飛び込む。
辿り着いた先は、当然ながら悪魔倶楽部の入口だった。
ただ、現世から魔界に移動してきたという感覚が、樹流徒には些か希薄に感じられた。それはきっと、店内がすっかり静まり返っているせいだろう。客は一人も見当たらず、樹流徒が最後に店を出た時の盛況ぶりが嘘のように今は閑古鳥が鳴いていた。悪魔倶楽部は商店街の中と変わらぬ深閑とした空間と化し、別の場所に移動してきたという実感がイマイチ樹流徒の胸に湧いてこないのは、仕方が無いことだった。
ただ、そんなどうでも良い個人の感覚は、樹流徒が悪魔倶楽部に姿を現した途端、床を打ち鳴らすバタバタという物々しい音によってあっさりと霧散した。
何事かと思って、樹流徒が音のしたほうを見ると、詩織がカウンターの奥から飛び出してくるところだった。
彼女は何かから逃げるように店内を走る。途中で客席の椅子に腕をぶつけてしまい瞬刻はっとしたような顔をしたが、そのようなことには構わず駆けてくる。一体何があったのだろうか、相当慌てている様子だった。ただごとではない雰囲気に、樹流徒は事態の把握をする前から不穏な気持ちになる。
詩織は樹流徒の元で立ち止まると、軽く息を切らせながら口を開いた。
「相馬君。戻ってきてくれて良かった。今すぐアナタに聞いて欲しい話があるの」
その声色はどこか深刻味を帯びていて、樹流徒の心に立ったさざ波を大きく揺らした。
「どうしたんだ? もしかして店の客から何か情報が入ったのか?」
自分と相手の双方を落ち着かせるつもりで、樹流徒はゆっくり聞く。
詩織は息を整えながら頭を左右に振った。
「いいえ。残念ながらお客から貴重な情報を得ることはできなかったわ」
「そうか。じゃあ、今すぐ聞いて欲しい話っていうのは?」
「喜んで良いものかどうか分からないけれど、早速アナタの憶測が当たったみたい」
「え」
「未来が見えたの」
そう答えたとき、詩織は普段の淡々とした口調に戻っていた。ただ、表面上とは違って完全に落ち着きを取り戻したわけではないらしく
「ついさっき、未来の映像が見えたのよ」
と、すぐさま同じ内容の言葉を繰り返した。
この少女には未来を予知する能力がある。その力が最後に発揮されたのは魔都生誕が発生する直前だったが……どうやら、彼女は再び未来の出来事を見てしまったようだ。
「本当か。一体何が見えたんだ?」
詩織がこれほどまでに慌てるのは多分珍しいことだった。故に、彼女は相当恐ろしい未来を見てしまったのだと思われる。
それを察した上で樹流徒は尋ねたが、次に詩織からきた返事は、樹流徒の想像を軽く超えていた。
「市が壊滅する。自然も、建物も。何もかも全てが壊される」
青天の霹靂だった。
樹流徒は絶句する。詩織はこのような冗談を言う人ではない。それはここ数日間で十分に分かっていた。ただ分かった上で、樹流徒が「タチの悪い冗談だ」と言い返したい衝動に駆られるほど、とんでもない予言だった。
“破壊の香りがする、ざらざらした風”。“間もなくこの地に何かが起こる”。
先刻謎の少女から聞いた意味有り気な言葉が、樹流徒の脳内で再生される。あの言葉が根拠の無い出鱈目だったのだとするには、余りにもタイミングが良すぎた。
まさか、あの少女も伊佐木さんの予言と同じ未来を感じていたのだろうか? いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。そう我に返って
「待ってくれ伊佐木さん。その話、もう少し詳しく教えてくれないか。いきなり市が壊滅すると言われてもわけが分からない」
寸秒言葉を失っていた樹流徒は声を絞り出す。
詩織は黙諾すると、記憶を探るように瞳を閉じた。そして彼女が予知した未来の詳細を語り出す。
「いまから十分以上前のことなのだけれど……。突然私の頭に未来の映像が浮かんできたの」
「ああ。それで?」
樹流徒は多少の焦りから先を急かした。
「私が見た映像は“海から現れる大きな怪物”だった」
「怪物? それは悪魔なのか?」
「分からない。鰐のような頭と鯨に似た体を持っていた。まるでビルのように大きな生物……」
「まさか、その怪物が上陸して市内を壊滅させるとでもいうのか?」
「ええ」
「まるで怪獣映画じゃないか」
「そうね。私も全く同じことを言おうと思っていたわ」
回想を終えた詩織は、そっと瞼を持ち上げる。
海から怪物が現れて、市を壊滅させる――常識的に考えればにわかに信じ難い話だった。しかし現在の龍城寺市ともなれば事情が変わってくる。魔界との接点を持ってしまったあの土地には、最早何が起きても不思議ではない。樹流徒には、詩織の予言を疑う理由がなかった。
となれば、やるべきことは一つしかない。
「話は分かった。だったらその怪物を倒す」
「駄目」
間髪入れず、詩織が反発した。
意外な反応に、樹流徒は一瞬、二の句が継げなかった。
ひと呼吸置いて「何が駄目なんだ?」と問うと、詩織は少し言い難そうに口を開く。
「私は、相馬君が怪物に立ち向かっていった結果どうなってしまうのかも見たわ。アナタは……」
そこまで答えて、急に言い淀んだ。
少しのあいだ樹流徒が待っても、詩織は続きを言おうとしなかった。ただ、その態度が話の結末を何よりも雄弁に物語っていた。恐らく詩織は見てしまったのだ。樹流徒が怪物に立ち向かい、そして敗北する未来を。
「怪物は……最終的にどうなる?」
「分からない。私の予知能力は未来の断片的な映像が連続して浮かんでくるだけだから。けれど、少なくとも怪物が倒される場面は見なかった」
「何だかとんでもないことになってしまったな」
「相馬君。アナタは現世に戻るべきじゃない。市が破壊されるのは残念だけれど、現世から怪物が去るのを待つべきよ」
詩織は珍しく語気を強める。
「だけど、それだと天使の犬の人たちを見殺しにすることになってしまう。実は、さっき組織のメンバーに会ったんだ」
「ならば南方という人にこの話を伝えて、組織の人たちにはすぐ避難してもらいましょう。悪魔倶楽部に連れてくるわけにはいかないから、地下へ潜ってもらうのが一番安全だと思う」
「いや、それじゃ駄目だ」
樹流徒は否定する。
「どうして?」
「まだ市内のどこかに組織のメンバーがいるんだ。でも、彼らの居場所が分からない。僕には彼らに避難を促すことができない」
それは、隊長と呼ばれる人物及び、隊長と行動を共にしているというメンバーのことだった。樹流徒は、隊長たちが今どこにいるのか知らない。ベルからは「外に出払っている」としか聞かされていなかった。
「その人たちも怪物を見れば自主的に避難すると思うけれど」
詩織は言う。
正論だと思ったが、樹流徒は納得できなかった。できれば怪物の破壊行為を止めたかった。
とはいえ、このままの流れで話を続けても水掛け論にしかならない。詩織を説得するには、別の角度から話をする必要があった。
「怪物が現れるのはいつ頃なのか分かる?」
と、樹流徒。
「いいえ。でも、私が予知した未来は必ず近い内に起こるわ。今までの経験から判断して、早ければ数時間後。遅くても丸一日を過ぎたことはなかったはずよ」
「怪物が現れる時間帯は? 朝か。それとも夜?」
「分からない。今、市内は空の色が変わらないから」
「あ。そうだったな」
「とにかくあの怪物は人の手に負える存在ではないわ。南方という人に危険を報せて、あとは嵐が過ぎ去るまでここで待機しましょう」
「でも、君が見た未来は変えられるんだろう?」
「え」
樹流徒から返ってきた言葉が予想外だったのか。詩織は素早く2度、瞬きをする。
「例えば、君の言う通り僕がこの店でジッとしていれば、僕は怪物と戦わずに済む」
「ええ。そうね」
「けれど、それは本来の結末とは違う。本当だったら僕は怪物に立ち向かって、多分死ぬ事になっている……だろう?」
「……」
詩織は無言で首肯した。
「本来死ぬはずだった僕が、今後の行動次第では生き残れる。つまり、君が予知した未来は変えられるということだ。だったら、市内の壊滅を防ぐ展開を作るのも可能じゃないか?」
「どうしてもあの怪物を止めるつもりなのね。そんなことをしたら……それこそ私の予知通りになってしまうのに」
詩織は表情を曇らせる。樹流徒が正気なのかを疑っているようだった。そして万が一にも樹流徒には勝ち目が無いような口ぶりである。彼女が見た怪物が如何に圧倒的な存在であるかを想像するには、それだけで十分だった。
「怪物と真正面から戦うのは無謀だという君の話は信じた。でも、怪物の正体が悪魔だとしたら何か対策が見つかるかも知れない」
「……」
「どうかな?」
樹流徒の説得に、詩織は唇を閉ざし、目を落とす。
沈黙は数秒続いた。そのわずかな時間のあいだに彼女が何を思ったかは分からないが、詩織の視線が樹流徒の顔に戻ってきたとき、彼女は折れていた。
「ええ。確かにそうかも知れない」
言って、樹流徒の言葉に同調した。怪物の現世破壊を阻止するという方向で、ひとまずニ人の意見がまとまった。
「でも、もし打つ手が見つからないまま怪物が現れてしまったら……。その時は私の忠告通りこの店に退避して。できればそれだけ約束して欲しいのだけれど」
「ありがとう。分かったよ。約束する」
そう樹流徒が答えると、詩織は極めて微かな音でほっと息を吐き、首を縦に振った。