不吉な風
定田松商店街――
そこは、太乃上荘から徒歩で約十分の場所にあるアーケード商店街だった。空を仰げば透明なアーチ、足下に視線を落とせば地に隙間なく敷き詰められたレンガ模様のタイルが、道の端から端まで続いている。通路の両脇には小型の店舗が軒を寄せ合っており、特に飲食店が多かった。
この商店街は、以前までは日々活気に満ち溢れ、昼から夕方にかけては客足が完全に途絶える時間など無かったと言われている。もっとも、以前と言っても十年以上も昔の話だ。今や店の半数以上がシャッターを下ろし、かつての面影はほぼ失われていた。閉じられたシャッターのいくつかにはスプレーによる落書きがされ、スペル間違いの単語を含む短い英文が赤・黄・緑の派手な色彩を放ったまま、もう半年以上放置されていた。
そんなすっかり寂れて久しい商店街の入り口に、樹流徒はジッと立っていた。
この辺りを訪れた事は今まで一度も無いが、太乃上荘からの距離は近過ぎず遠過ぎず、悪魔倶楽部の鍵を使うにはうってつけの場所ではないか。そんな風に考えているところだった。
周囲には相変わらず濃い霧が漂っているものの、温泉街の中と比べれば幾分視界が開けている。空の光もうっすらと滲んで見えた。そうした状況も悪魔倶楽部の入口を作るのにはおあつらえ向きだった。これだけ視界が悪ければ、現世と魔界を移動する瞬間を偶然目撃されるという恐れはまず無い。
不安材料があるとすれば、果たしてこの商店街の中が安全かどうか、ということくらいだった。
丁度いま、樹流徒の頭上を小さな隻影が通り過ぎてゆく。形からして小人型悪魔のチョルトだった。チョルトは、真下に立つ樹流徒には目もくれず、何処かへと飛び去ってゆく。
商店街の入り口で足を止めたまま、樹流徒は意識を集中した。そうすることで、付近に敵が息を潜ませていないかどうか、気配を探る。
結果、そうしたものは感じられなかった。正面を走る通路に耳をそばだてても物音はひとつもなく、風の音さえ拾えないほど辺りは完全な静寂に支配されていた。
それが分かると、樹流徒は、ようやく商店街の中に足を踏み入れる。
道の真ん中を進みながら世話しなく左右を見回し、両脇に建ち並ぶ店の様子を確認した。三軒にニ軒くらいの割合でシャッターや窓、ガラスケースなどが破壊されている。また、外壁には火の塊をぶつけられた焦げ跡が複数見られた。
大きな暴動が起きた後のような、酷い有様だった。どうやらこの商店街はすでに悪魔たちによって荒らし尽くされた後らしい。それとも南方ら組織のメンバーと悪魔による戦闘でも繰り広げられたのだろうか。
いずれにせよ今はもう悪魔の姿は見当たらない。いや、悪魔ばかりではなく、市民たちの遺体までもが全く存在しなかった。そういえば、ここだけではなく太乃上荘から現在地まで移動してくる間にも、樹流徒は死体を一体も見かけなかった。もしかすると皆悪魔たちが連れ去ってしまったのかも知れないが、南方たちが火葬なり土葬なりして供養してくれたという可能性もある。樹流徒にはそう思えたし、また、そう思いたかった。
無人の通路を歩いていると、不意にそこはかとないうら寂しさが樹流徒を襲う。周囲の殺伐とした光景のせいもあるだろうが、きっとそれだけではなかった。組織の人間たちと接触したことによって、これまでほとんど一人で行動してきた樹流徒の心に「人恋しさ」と呼ばれる一時的な感傷が芽生えていた。思えば複数の人間と会話をするなど、魔都生誕以降初めてのことだった。
そうした孤独感を紛らわしたかったのだろうか、いつの間にか樹流徒は詩織のことを考えていた。
これから悪魔倶楽部に行って、組織のメンバーと接触したことを伝えたら、伊佐木さんは喜ぶだろうか? 現世に自分たち以外の人間の生き残りが何人もいることを知ったら、彼女は何と言うだろう? そのような想像を頭の中で膨らませ、樹流徒は束の間、悪魔倶楽部の入口に適した場所を探すという本来の目的を忘れていた。
ただしそれは本当に束の間の出来事だった。何事も無ければもう少しのあいだ彼是と考えていたかも知れないが、樹流徒はすぐ我に返った。
道の先に何者かが佇んでいることに気付いたためである。
虚を突くように現れた前方の人影に、樹流徒は驚き足を止め、表情を険しくさせた。
霧の奥に浮かぶシルエットは人間に見えた。身長は推定百六十センチ弱。男か女かは分からない。もっとも、家電量販店で出会った少年の悪魔マルティムのような例もある。姿形は人間そっくりだったとしても、正体は悪魔なのかも知れない。いや、むしろそうだと考えるべきだった。
霧の向こうに潜む人影は何をするのでもなく、その場にじっと佇んでいる。まるで樹流徒が近付いてくるのを待ち構えているかのようであった。
悪魔だとしたら……敵だろうか?
戦闘もあり得る。樹流徒は警戒心を強めて相手に近付いてゆく。
そのあいだも人影は、不気味に不動の構えを保ち続けた。実は誰かがどこかから持ち運んできたマネキン人形かも知れない。そう疑いたくなるほどに挙動の欠片も見せなかった。
いよいよ用心しながら樹流徒が慎重に歩を進めると、視界でぼやけていた人影の姿がはっきりしてくる。
心の中で、樹流徒はあっと声を上げた。
謎の影の正体は悪魔でもなく、マネキンなどでもなく、些か意外な人物だった。
紺色のチュニックとブーツを身に着けた、樹流徒と同い年くらいの少女である。病的に白い肌と肩まで延びた烏色の髪が特徴的で、全身には言葉では表し難い妖しげな雰囲気を纏っていた。
この少女を樹流徒は知っていた。間違いない。詩織を救出する前、摩蘇神社の石段の上で出会った少女だ。名前も、どこから来たのかも不明の、油断できない人物だ。
偶然にも再会した素性の知れぬ少女は、果たして生きているのか死んでいるのか、魂が抜けたように空を見上げ続けていた。その微動だにしない姿は樹流徒が遠目から確認したとき以上に、精巧な人形が突っ立っているかのようだった。たしか魔蘇神社で会った時も、彼女は同じようにどこか一点を見つめていた。
ひとつ息を飲んでから、樹流徒は少女の傍で立ち止まる。
「また会ったな」
と、徐に話しかけてみた。
それに反応して、空を向いていた少女の顎が静かに下がる。相手を飲み込むような底知れぬ深さを持った瞳が樹流徒の顔を見つめた。
がらんどうの瞳に映る自分の姿から、樹流徒はつい視線を逸らし
「ここで何をしているんだ?」
と、少女に語りかけた。
「君か……。その体、前に会った時より更に変質しているようだな」
少女は表情を変えずに返答する。樹流徒の問いかけは無視しつつ、まるで何でも知っているかのような口ぶりでそのようなことを言う。
たった二回しか会っていない者に己の全てを見透かされたような気がして、樹流徒はえもいわれぬ底気味の悪さと不快感を覚えた。
「なぜ、お前にそんなことが分かる?」
そう問わずにはいられなかった。
血を塗ったように真っ赤な唇の両端が、何かしらの感情を覗かせたように微動する。
「分かるとも。私には君の中で数多の魂が渦巻いているのが見える。血のように赤黒い光を放つ、美しい魂たちだ」
と、少女。
「お前は悪魔だな?」
樹流徒はほとんど確信を持って相手の正体を尋ねた。
まさか否定の答えが返ってくるなどとは思わなかったが……
「悪魔?」
少女は眼を細め、今度こそはっきりと口角を持ち上げる。その態度は明らかに樹流徒の憶測を打ち消すものだった。
「悪魔じゃない? ならば天使の犬の……イブ・ジェセルのメンバーか?」
「いいや。イブ・ジェセルという言葉には聞き覚えが無い」
「悪魔でも組織の人間でも無いのか? だったらお前は一体何者なんだ?」
まさかただの人間というわけではないだろう。
樹流徒が更に追求すると
「それよりも、数刻前から風が荒れ始めたとは思わないか?」
少女は再び樹流徒の問いを受け流し、逆に唐突な質問を投げ返した。
風?
樹流徒は顔をしかめた。現在、風は荒れているどころか、ほぼ無風だった。時折肌を撫でる気流はあったが、それには地面に溜まった砂埃をさらってゆく力すら無い。荒れているとは感じなかった。
しかしそんなことにはお構い無しで、少女は言葉を継ぐ。
「破壊の香りがする、ざらざらした風だ。間もなくこの地に何かが起きることを告げている。私は今その気配を楽しんでいたのだ」
と、ますます意味不明な台詞を並べた。
「すまないが、僕にはお前の言っていることが良く分からない。お前は一体何を……」
樹流徒が詳しい説明を求めようとすると
「ならば今、これ以上我々が語ることに意味はあるまい」
それは無用だ、と言わんばかりに、少女は背を向けた。興を削がれたのか、空を見上げるのも止めてこの場から去ろうとする。
「待て。僕の質問に答えてくれ。お前は誰なんだ?」
「君とは多少縁がありそうだ。また会うことになるかもしれない」
互いの会話がいまひとつ噛み合わぬまま、少女は一方的に話を終えて歩き出した。静かな足音と共に今度こそ場を後にする。
樹流徒は追わなかった。正確には追えなかった。少女は決して殺気立っているわけでもないのに、何者も近づけさせない不思議な雰囲気を纏っていた。
後を追うどころか掛ける言葉すら見付からぬ内、樹流徒の視界から少女の姿は消えた。