イブ・ジェセル
戦いが終わり、新たな敵影が無いと確認できると、樹流徒、南方、そして八坂は、アジトから少し離れた場所で広めの三角形を作って向かい合った。
太乃上荘の木壁や地面の焼け焦げたにおいが辺りに立ち込め、八坂の右手には青い血にまみれた刀が握り締められている。未だ戦闘が続いているかのような物々しさが漂っていた。
ただ、そんな殺伐とした空気をあっという間に取り払ってしまうのが、南方という男の持つ緊張感に欠けた雰囲気だった。それはもはや特技と誇っても良いほどのものだった。
「いやあ悪い、悪い。俺が敵に尾行されちゃってさ」
南方は八坂に向かって両手を合わせ、アジトが襲撃された原因が自分にあると白状した。人的被害が出なかったことに安堵したのか、表情はホッとしたような感じで、それが全く反省の色が無いような顔にも見える。
「どうせそんなことだろうと思った」
悪魔襲来の経緯を知った八坂は心底呆れた様子で、冷たい双眸を南方に向けた。その瞳は横目を使って樹流徒の姿を捉えた瞬間、一層冷たい光を放つ。
「貴様まだここにいたのか。丁度外に出たことだし、このままどこかへ去ったらどうだ?」
「……」
樹流徒は何も答えなかった。代わりに普段よりも心なしか鋭い目つきを返す。
「まあ待ちなよ」
すかさず南方が仲裁に入った。樹流徒をアジトに呼び寄せた者としての責任を多少は感じているのだろうか。
「キルト君はあのバフォメットを倒したんだよ。今回だってデウムスやラミアをあっさりやっつけた。その力はきっと俺たちの助けになるって」
と、樹流徒の実力とその有用性を説く。
「どうだかな」
八坂は懐疑的だった。
「もし俺が外で戦っていれば、決して敵をアジトに近づけさせはしなかった。彼女を危険に晒すこともなかっただろう」
そう苦りきった声で言った。
樹流徒は何かしら反論しようと思ったが、それよりも今八坂の口から出た“彼女”について気になって
「彼女?」
誰にともなく尋ねた。
「ああ、八坂君の妹さんだよ。“早い”に“雪”と書いて早雪ちゃんっていうんだけどね。ちょっと体調が優れなくて、今は三階の部屋で静養してるんだ。あの部屋に悪魔が近付いたときは冷や冷やしたけど無事で良かったよね」
「南方。余計なことを言うな」
「おっとゴメン。お喋りは俺の悪いクセだね」
八坂に睨まれて、南方は微苦笑した。両者はひと回りくらい歳が離れているはずだが、先程から一体どちらが年長者なのか分からない。
「とにかく貴様はここから去れ。いいな」
樹流徒に向かってそう言い放つと、八坂は壊れた三階の窓をちらと見上げ、駆け足でアジトへと戻っていった。
「や。ゴメンね。彼、誰に対しても大体あんな感じだから気にしなくていいよ」
「ベルさんも同じことを言っていました」
八坂はああ見えて根は良い奴だ、ともベルは言っていた。その言葉を疑うつもりはないが、樹流徒は自分に向けられる八坂の尋常ではない憎しみを感じていた。
「実は、八坂兄妹と悪魔の間には浅からぬ因縁があってね。だから悪魔の力を使うキルト君に対しては余計キツく当たってしまうんだと思うんだ」
「悪魔との因縁?」
「うん。詳しい話はできないんだけどね。喋ったらホントに八坂君に殺されかねないから」
「そうですか」
ひょっとして、八坂兄妹が天使の犬に所属しているのは、その因縁と何か関係があるのかも知れない。樹流徒は根拠もない憶測をした。
そういえば南方も、ベルも、一体どのような経緯で天使の犬の一員になったのだろうか? 組織のメンバー選ばれるために必要な基準や条件などでもあるのか?
続いてそんなと考えていると……
「ところでキルト君」
南方に声を掛けられて我に返った。
「はい。なんですか?」
「そういえば君、俺たちの組織の名前をまだ知らないよね?」
「ええ、知りません。たしか“天使の犬”という呼び名は悪魔が勝手に付けた蔑称なんですよね」
「その通り。だから今の内に正式な組織名を教えとくよ」
「そんな簡単に教えてしまってもいいんですか?」
「全く問題ないよ。むしろ今後のためにも知っておいて欲しいのさ」
と、南方。まるで樹流徒と組織の関係がこのあとも続くのを確信しているかのような物言いだった。
「じゃあ……教えてください」
「うん。分かった」
南方はひとつ頷いて
「俺たちの組織は“イブ・ジェセル”っていうんだ」
本当にあっさりとその名を口にした。
「イブ・ジェセル……何語ですか?」
「古代エジプト文字。イブには“心臓”、ジェセルには“聖なる”という意味がある」
「つまり“聖なる心臓”という意味?」
「うん。正解」
「でも何故古代エジプト文字なんです?」
「お、良い質問だね。その問いに対する答えには二つの説がある。一つは、組織の創設者が古代エジプト文明に強い影響を受けた人物だったか、あるいは研究者だったという説」
「もう一つは?」
「組織名から組織の実態がバレないようにぼかすためという説」
「なるほど」
「と言っても、事実は誰も知らないんだけどね。もしかするどちらの説も正しいかもしれないし、逆に両方ともデタラメって可能性も……」
樹流徒の素朴な疑問に南方がスラスラと答える。
――おい!一体何の騒ぎだ。
そこへ横槍が入った。突然割り込んできた女性の声が、二人の会話を中断させる。特徴のあるハスキーな声だったので、樹流徒には声の主がベルであるとすぐに分かった。
ベルの影は太乃上荘の裏手から姿を現し、樹流徒たちに近付いてくる。彼女は今まで外にいたらしい。戦闘の発生に気付いてアジトに引き返してきたのだろう。
間もなく霧でぼやけたベルの姿が樹流徒の視界の中でくっきりと浮かびあがる。
ベルは真剣な表情をし、手には拳銃を握っていた。
「ベルちゃん遅いよ~。俺らさっきまで悪魔と戦ってたんだぜ」
「温泉に入ってたんだから仕方ないだろ」
南方に言われて、ベルは即座に反論する。雨が降ってもいないのにびしょ濡れになった髪が「タオルで拭く暇もなく急いで駆けつけて来た」と、無言の主張をしている。
「ところで、何で太乃上荘だけピンポイントで狙われてンだよ?」
反論ついでにベルの口から鋭い指摘が出た。悪魔がむやみに暴れたのだとしたらアジト周辺の建物にも被害が出ているはずだが、実際は太乃上荘だけが破壊の対象にされている。
「さては敵にアジトを嗅ぎ付けられただろ?」
ベルはすぐその答えに辿り着いた。
図星を差されて、南方は引きつったスマイルを浮かべる。
「いやあ。実は俺が偵察から帰ってくる途中、悪魔に後をつけられちゃってさ。まいったね。へへ」
笑って誤魔化す声も引きつっていた。
「どうせそんなことだろうと思ったよ」
ベルは八坂と全く同じことを言って、冷笑を浮かべる。
「私は温泉に入り直してくる。タオルとか置きっ放しだし、このままだと風引くし」
それから踵を返し、早い足取りで元来た道を引き返していった。
ベルの足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなると、南方は樹流徒のほうへまっすぐ向き直る。
「さて。今更だけど君にも謝らないとね。余計な戦いに巻き込んで申し訳ない」
そう言って、頷く程度に頭を下げた。
「この霧ですから。尾行に気付かなくても仕方ないですよ」
「や。そう言ってくれると助かるな」
南方は頬を緩ませた。
「きっと俺を尾行した悪魔は“チョルト”だ。ヤツらの中には稀に犬以上に鼻が利く個体がいるからね」
「チョルトという名前の悪魔なんですか?」
「そうそう。ホラ、アジトに侵入しようとした小人型の悪魔がいただろう? あれがチョルトさ」
「どういう悪魔なんです?」
「おや? 興味があるのかい?」
「興味という程でもないんですけど……。僕が初めて遭遇した悪魔なので」
答えながら、樹流徒は頭の中に当時の記憶を蘇らせる。
当時と言ってもたった数日前のことだが、物陰で人間の死体を貪るチョルトを目撃し、戦ったのが、樹流徒と悪魔の初接触だった。あのときのおぞましい光景や全身を駆け巡った衝撃を思い出すと、今でも樹流徒の背筋には軽い怖気が走る。それだけにチョルトという悪魔は、樹流徒にとって多少印象深い存在だった
「へえ、そうなんだ。じゃあチョルトについてちょっとだけ説明しようかな。大して詳しくは知らないけど、それでもいいかい?」
「ええ、お願いします」
「了解。それでは……」
わざとらしくオホンとひとつ咳払いをしてから、南方は徐に口を開く。
「チョルトはスラヴ地方で有名な小悪魔だ。元々はアニミズム信仰の対象となった精霊たちの一種だったんだけど、今や神を嘲笑する者として“道化”なんて呼ばれてる」
「道化ですか……」
確かに、典型的な悪魔像を顕現したかのようなチョルトの姿は、精霊というよりも道化と呼ばれる方がまだ似合ってる気がした。
「チョルトってロシア語では悪魔って意味なんだけど、英語のshitと同義としても使われてるらしいよ。もし君がロシア旅行に行く機会があったら是非使ってみなよ」
「はい。でも結界の外が無事だったらの話ですけどね」
「そりゃそうだ」
南方は、少し困ったような表情でははと短く笑ってから
「さて。今日の悪魔講座はここまで。俺たちもそろそろ行こうか」
と、樹流徒をアジトの中へと促した。
樹流徒は黙諾して歩き出す。
が、ニ、三歩進んだところでふと足を止めた。隊長と呼ばれる人物がいつ戻るか分からないので、今の内に一旦悪魔倶楽部へ戻ってみようか。そんな考えが、急に頭を過ぎったためだった。
悪魔倶楽部に行けば詩織に色々と報告ができる。また、逆に彼女から新しい情報を得られるかも知れない。店の客に対する情報収集は彼女がやってくれることになっている。
そう、それがいい。悪魔倶楽部に戻ろう。
樹流徒は即断した。一時的に温泉街から離れようと決める。
「南方さん」
前を歩く男を呼び止めた。
「ん? なんだい?」
南方は軽快な動きで振り返る。
「今考えたんですけど、一旦ここから離れようと思います」
「え。どしたの急に?」
「できれば今の内に行っておきたい場所があるので」
「へえ。それってどこ?」
「それは言えませんが……なるべく早く戻ってきます」
「分かったよ。無理に引き止めるわけにもいかないからね」
南方はそれ以上追求しなかった。
「ではまた後で」
「うん。道中悪魔に気をつけるんだよ」
「はい」
簡単な別れの挨拶を交わすと、樹流徒はどこかへ向かって歩き出した。どこに向かっているのかは分からない。強いて言えば悪魔倶楽部へ繋がる扉を作るのに適した場所である。
南方は、遠ざかる樹流徒の背中に向かって軽く手を振ると、太乃上荘へと引き返していった。