迎撃
「悪魔の攻撃か?」
それ以外に考えられなかった。樹流徒と南方は顔を見合わせると、どちらからともなく駆け出す。
揃って外へ飛び出すと、少し離れた場所で異形の影が蠢いているのが見えた。影は単体ではない。五つか六つ、もっとあるかもしれない。また、影の大きさや形は一様でなく、二メートル近くの大きさを持つものや地を這うもの、それから横に連なって宙に浮く小さなものもあった。とにかく複数の影が不気味に重なり合っている。
その正体は霧に覆い隠され、樹流徒の目にはとても不鮮明に映った。かろうじて影の輪郭と大きさが分かる程度である。分かることといえば霧の奥にいるのが生物であり、人間でないことだけだった。やはり悪魔と見て間違いないだろう。異形たちは緩徐な歩みで太乃上荘に迫っていた。
程無くして異形たちの中から小さな赤い光が一つ灯る。その光も霧の影響でおぼろげにしか見えず、ぼんやりと幻想的な輝きを放っていた。
ただ、その美しい光の中に潜む殺気を樹流徒は鋭敏に感じ取った。攻撃を向けられていると気付くや否や、隣に立つ南方の胸を軽く突き飛ばす。
おっと虚を突かれたような声を発して、南方はよろめきながら数歩後ろへ下がった。
すぐさま樹流徒自身も地面を転がると、赤い光の発生源が二人の立っていた場所に高速接近して地面で弾けた。小さな火花が飛び散る。霧の奥に浮かんだ幻想的な光の正体は、燃え盛る炎の塊、火炎弾だった。
「この炎はデウムスだな」
南方が断言する。
樹流徒は異形の集団を睨んだ。相手の正体が分かった上で改めて確認すると、不明瞭だった異形のシルエットは、確かに火炎弾を吐き出す悪魔デウムスの形に見えた。
互いの距離が近付いたためだろう、他の影も段々と見覚えがある姿形を現してきた。地を這う影はラミア、空に連なる小さな影は小人型の悪魔の群れだと分かる。数もはっきりしてきた。デウムスとラミアはそれぞれニ体ずつ。小人型が五体……計九体もの悪魔が固まっている。
想像以上に多くの敵を前に、樹流徒は全身を固くして構えた。
合わせるように悪魔たちの歩行が止まる。デウムスの笑い声らしきものが響いた。
「おい。ニンゲンが出てきたぜ」
「間違いねェな。ここが天使の犬の拠点だ」
「見ろよ。あのマヌケなニンゲンがいるぞ」
「おう。ヤツには感謝しないとな。オレたちをここまで案内してくれたんだからよ」
ニつの大きな口は、樹流徒たちの耳にも十分届く声で、交互に喋る。
「なるほど。俺が奴らを連れてきちゃったのか。どうやら尾行されてたみたいだね」
南方が苦笑いを浮かべる。敵の会話に出てきた“マヌケなニンゲン”が自分のことであると気付いたらしい。
樹流徒も得心した。南方がアジトに帰還するなり襲撃を受けたので、妙にタイミングが良いと軽い疑問を覚え始めていたのだが、その疑問が今解けた。
敵にアジトをつきとめられた原因は分かったが、南方を責めても意味は無い。悪魔を迎撃して太乃上荘を守らなければいけない。
樹流徒は異形の影に向けて片手をかざした。掌の前に紫色に輝く光の線を描き、魔法陣を完成させる。それはバフォメットが戦闘中に見せたものと全く同じだった。
六芒星の中心が真紅に染まって、魔界の業火が呼び出される。火炎弾とは比較にならないほど巨大な火がゴウゴウと小さな唸り声を上げて悪魔たちの群れに飛び込んだ。霧の中で雷の如き輝きが広がり、巨大な火花が飛び散る。激しい音が爆風に乗って轟き、遅れて複数の怒声や悲鳴がした。
それらの現象が止んだ時、巨大な火花を浴びた小人型悪魔の影がニつ消し飛んでいた。まるで榴弾による攻撃である。便宜上、この魔界の炎に名前を付けるのだとしたら“火炎砲”といったところだろうか。
樹流徒が放った火炎砲によって味方を失った悪魔たちは当然の如く激昂した。
「攻撃してきやがったぞ」
「ニンゲンどもの分際で」
口々に怒声を吐いたあと、デウムスたちの口元で赤い光が灯る。
反撃の火炎弾が発射された。霧の中を突き抜けた炎の塊は、樹流徒たちには当たらなかったが、彼らの背後に建つ太乃上荘の外壁を削った。木の焼け焦げる臭いが微かに立ち込める。
「キルト君。この位置で戦うとアジトに被害が出てしまう。移動して悪魔を引き付けよう」
提案しながら、南方は拳銃を抜いた。銃弾を放って敵を牽制しつつ建物から離れる。
樹流徒もすぐに後を追った。
二人は、悪魔とアジトの両方から三、四十メートルほど離れた道の真ん中で足を止める。
視界が悪く狙いが定め難い中、樹流徒は口から火炎弾を放った。目にも留まらぬ速さで撃ち出された炎がラミアの少し手前に着弾してアスファルトを焼く。
「ラミアやデウムスは火に強い。仮にその攻撃が当たっても効果は薄いよ」
南方の助言が飛んだ。
「分かりました。でしたら僕は接近戦を仕掛けます」
樹流徒は悪魔の爪を発動する。デウムスの火炎弾を避けて、悪魔の群れに突っ込んだ。
「じゃ。オレは後方支援ってことで」
それを言い終わるよりも早いか、南方のリボルバー式拳銃が火を吹いた。弾丸は、南方の前を走る樹流徒のわずか数センチ横を通過してラミアの胸部に風穴を開ける。その一発は敵にトドメを刺すまでには至らなかったが、動きを止めるだけの効果はあったようだ。弾丸を受けたラミアは体から青い血を流しながら苦しみ悶えるように全身をくねらせる。
樹流徒は再びデウムスの火炎弾を回避し、別のラミアに接近した。敵が口内から吐き出してきた毒液を難なくかわし、逆に冷気を浴びせる。ラミアが冷気に弱いことは以前の戦いで分かっていた。蛇の下半身がとぐろを巻き身を縮めたのを確認すると、爪をなぎ払って敵の首を切り落とす。初めてラミアと初めて戦った時は危うく命を落としかけたが、動きに慣れてしまえばそれほど苦戦する相手でもなかった。
樹流徒は間髪入れずもう一体のラミアに狙いを定める。その悪魔は南方の銃撃を受けたことによって確実に動きが鈍っていた。お陰で難なく爪でトドメを刺せた。
これでもう敵はデウムスと小人型悪魔しか残っていない。
「よし。楽勝だ」
南方が拳銃に新たな弾丸を装填しながら口笛を吹く。
かたや、樹流徒は戦闘中の油断がどれだけ危険な状況を招くかを、ごく最近の実体験で知っていた。悪魔が光の粒になって消滅するまでは決して安心はできない。
果たしてその懸念はすぐに現実のものとなった。立て続けにラミアを倒され頭数を減らした悪魔たちが、ここで意外な動きを見せる。それまでデウムスの頭上で大人しく待機していた小人型悪魔たちの影が一斉に動き出したのだ。
五体の小人型悪魔は、V字型の美しい編隊を組んで宙を進んでゆく。物量に物を言わせて樹流徒か南方のどちらかを集中攻撃でもするのかと思いきや、速度を落とすことなく二人の頭上を通り過ぎていった。その先にあるものは……
「いけない! 中の人が危ない」
樹流徒は叫んだ。敵の狙いは太乃上荘だ。悪魔はここでの戦闘を避けてアジト内を襲撃するつもりに違いない。
それに気付くのが少し遅かった。樹流徒の叫びが虚空に吸い込まれたとき、飛行する小人型の群れはもう建物三階の窓際まで到達していた。きっと窓を破壊して中に踏み込むつもりだ。
「ヤバいぞ。確かあそこの部屋には“早雪”ちゃんが寝ているハズだ」
楽勝などとのたまっていた南方が一転真面目な声を発した。
どうやら悪魔たちが接近した窓の向こう側には、サユキという人物が寝ているらしい。名前からして恐らく女性だろう。
もしかしてあの女の子がそうだろうか。樹流徒は、三階の廊下で出会ったパジャマ姿の少女を思い出した。
何にしても敵をアジトに入れるわけには行かない。樹流徒は窓際の悪魔たちを火炎弾で撃墜しようとした。
が、寸でのところで思いとどまる。もし攻撃を外せば部屋の中にいるサユキという人物を巻き添えにしてしまう恐れがあるからだ。樹流徒と同じことを考えたのだろう、南方も悪魔たちに銃口を向けるがトリガーは引かなかった。
攻撃したくでもできない。かといって何もしなければ悪魔たちがアジトに侵入してしまう。
予想外の苦しい展開が、さらに良くない事態を引き起こす。
何かが破裂したような音がして、樹流徒の背中で小さな火花が舞った。
デウムスの火炎弾だった。アジトに接近した悪魔に気を取られていた樹流徒の隙を突いた攻撃だ。
しまったと思ったときには、樹流徒の背中に火傷の痛みが広がってジンジンと疼いた。軽傷とは言い難いが、動けない程の痛みでもない。図らずもこれまで多くの悪魔を倒し、吸収したことで、樹流徒の肉体は常人を超える耐久力を身に着けていたらしい。そうでなければ重傷は免れなかっただろう。
「キルト君。このままじゃまずい。先にデウムスだけでも始末しておこう」
と、南方。その指示に従うまでもなく、樹流徒はすぐさま身を翻して霧の中に立つデウムスめがけて走り出していた。
敵に接近すると異形の姿が浮き彫りになった。樹流徒は前方に大跳躍して、デウムスとすれ違いざま爪で相手の喉を貫いて一撃で仕留める。
背後から無機質かつ派手な音が聞こえたのは、着地したのと同時だった。
小人型悪魔たちがついに窓ガラスを突き破って建物に突入した音。樹流徒にはそうとしか思えなかった。部屋の中で寝ているサユキという人物が危ない。一刻も早くもう一体のデウムスを仕留めてアジトに戻らなければ――
ところが実際のところ樹流徒の背後では、彼の想像とは違う出来事が起こっていた。
確かにアジト三階の窓ガラスは破られた。しかし割れた窓ガラスの破片は大半が外側に向かって飛び散っている。対照的に部屋の中にはわずかなガラス片のみが散らばっているのみだった。それは、窓が外側からではなく内側から破られたことを意味していた。
樹流徒は生き残っているデウムスを葬ると、踵を返して太乃上荘に向かって駆け出した。そのまま玄関から建物内に飛び込んで、侵入した悪魔たちを討伐するつもりだった。全力で走る。
その足はすぐに止まった。霧の向こうで樹流徒がまず最初に目撃したものは、体を縦半分に割られながら落下してゆく小人型悪魔の姿だった。ニつに分かれた悪魔の死体は、それぞれ地面に墜落して生々しい音を立てる。すぐに魔魂となって樹流徒の体内に取り込まれた。それにより樹流徒の体から火傷の痛みが引いてゆく。
一体何が起きたのか?
樹流徒は三階を見上げる。割れた窓の向こう側に人影が見えた。建物に駆け寄りながら目を凝らすと、その正体は一人の青年……八坂だった。
八坂は鞘から抜いた刀を構え、鬼気迫る形相で悪魔たちを睨みつけている。まるで仇でも見るかのような瞳は、樹流徒に向けた視線とは比べ物にならない程の敵意を放ってた。悪魔を両断したのは彼に違いない。
八坂の持つ刀は、刃の反りが異様に浅く、慶長新刀の“虎徹”と良く似ていた。刀身には新鮮な青い血が滴っている。
小人型悪魔たちは一斉に窓から離れた。眼前に立つ人間の気迫に押されたのか。あるいは刀の三ツ角が放つ光に怯えたのだろうか。とにかく後退した。
それを待っていたとばかりに銃声が鳴る。南方が、敵がアジトから離れたと見るや発砲したのだ。弾丸は悪魔の羽を貫いて目標を墜落させた。地面に叩き付けられた悪魔は次の弾丸に追撃されて絶命する。
これで残りは三体。悪魔たちはいつの間にか追い詰められていた。前方では八坂が尋常ではない殺気を放ち、いつ飛び掛ってきてもおかしくない。一方、下では樹流徒と南方が待ち構え、建物から離れた瞬間に遠距離攻撃を飛ばそうと狙っている。
この事態に際し、小人型悪魔たちに残された選択は恐らく逃走しか残されていなかった。
彼らは散り散りになって飛ぶ。固まって逃げるよりもバラバラになって逃げた方が生存率は高い……などと冷静な判断を下した上での逃走には見えない。単にパニックを引き起こして無我夢中でこの場から離れようとしているようだった。
背を向けた悪魔を追って八坂が部屋の中から跳躍する。半壊した窓ガラスを更に破壊しながら宙に躍り出た。氷のような表情とは裏腹に鬼神のような動きで敵に迫ると、空中で刀を振り下ろした。悪魔の体はまたも縦半分に割れ、墜落してゆく。
ギャッという醜い断末魔の叫びが響く中、八坂は華麗な着地を決めた。靴も履かずに三階から飛び降りたにもかかわらず、眉一つ動かさない。
別方向へ逃げた残りニ体の悪魔は、樹流徒の火炎弾と南方の銃によってそれぞれ撃ち落された。
もう敵は残っていない。多くの数を揃えて攻め込んできた悪魔の群れは、交戦から十分を数えぬ内に沈黙した。