霧の中のアジト
“赤鬼川”と呼ばれる小さな川があった。地元に伝わる民謡『赤鬼伝説』にちなんで名付けられたその川は、龍城寺市の北部とそれに隣接する土地を跨ぎ、南西に向かって滔滔と流れている。
赤鬼川は温泉が湧き出ることで市民に広く知られていた。川の上流から湧き出た温泉は下流へ向かうにつれ水温を下げ、龍城寺市の北端に差し掛かった辺りで入浴を楽しむのに適した熱さになる。そのためいつしか近辺には温泉街が形成されていた。
温泉街には情緒溢れる木造の温泉宿や公衆浴場、土産屋などが建ち並んでいる。その中には「現在、天使の犬のアジトとして使われている」と南方が話していた太乃上荘の姿もあった。
太乃上荘は三階建ての木造旅館で、建物の材質が新しいことから建築もしくは改築されてまだ日が浅いと思われる。温泉街にふさわしい風情ある佇まいをしているが、逆にアジトと呼ぶにはやや不似合いかも知れない。
それでも天使の犬がこの建物をアジトに選んだのは、温泉の存在があったからに違いない。
太乃上荘の裏手に回ると草木を雑に切り開いただけの林道があった。その道を下ってゆけばやがて赤鬼川の岸に辿り着く。目の前には温泉街共有の外湯があり、人の手が殆ど加えられていない野天風呂を楽しむことができた。市内のライフラインが壊滅した今、川から流れ続ける熱水は非常に有用な自然の恵みである。
「あった……ここだな」
初めて訪れた建物の前で、樹流徒は立ち止まった。前髪の隙間から見える看板には『太乃上荘』の四文字が並んでいる。間違いなく南方から聞いた旅館の名前だった。
ようやく目的の場所を発見できて、樹流徒の表情はわずかに緩む。
市を封鎖している結界が近いせいで、辺りを漂う霧の濃度は極めて高い。視界はすこぶる悪く、結界から数キロ離れた温泉街の隣町で方向感覚が狂いそうになった程である。今は二十メートルくらい先を見るのがやっとだった。そのため温泉街に入ったあとも、樹流徒は太乃上荘を発見するのに大変苦労した。
ただ、樹流徒を苦しめたのは濃霧の存在だけではなかった。
悪魔倶楽部を出てからすでに相当な時間が経っている。最後に鍵を使用した場所・村雨病院を出発地点として温泉街まで到着するのに長く見積もっても三、四時間あれば足りるだろうと踏んでいたのに、実際には間違いなく倍以上の時間を費やしていた。霧で視界が遮られただけでは、ここまで時間はかからない。
樹流徒を苦しめたもう一つの存在は、ほかならぬ悪魔だった。道中、悪魔との戦闘や逃走に、樹流徒は当初想定していたよりも遥かに多くの時間を割いてしまったのだ。現世を闊歩する悪魔の数が急激に増加したのが原因だった。
市内をうろつく悪魔が増えれば、樹流徒が襲われる頻度も上昇する。当然ながら戦闘の回数も増えた。敵と遭遇するたびに逃げ隠れしても、毎回首尾よく難を逃れられるわけではない。機動力が高い悪魔に狙われたり、複数の敵に退路を絶たれた場合などは、戦闘に突入せざるを得なかった。
自分の命を守るためならば、樹流徒は迷わず戦った。問答無用で襲い来る悪魔を全て倒した。言葉が通じない問答不能の凶暴な悪魔も……。
敵の断末魔を聞いたり、地面に飛び散った血痕を見ると、戦闘のあとで樹流徒の心に湧き起こってくるのは助かったという安堵ではなく強烈な不快感だった。それだけに敵として現われる悪魔の存在は、時間と精神力の両方を樹流徒から奪い、彼を苦しませた。
視界を塞ぎ方向感覚を狂わせる濃霧。増加する悪魔たち。それらの影響で、村雨病院から温泉街までの道のりは実際の距離よりも恐ろしく長いものとなった。
その一方で、樹流徒を救った存在もいた。
それは詩織である。もし彼女がいなければ、樹流徒が温泉街に到着するのはもう少しあとになっていただろう。
というのも、実は、これまで樹流徒がしてきた悪魔倶楽部の客に対しての情報収集を、今後は詩織が請け負ってくれることになったからである。彼女自身の口から出た提案だった。
店に常駐している詩織ならば、全ての客に声をかけることができる。それに彼女は自分が何もできないと少なからず悩んでいる様子だった。なので樹流徒はこの提案を聞いたとき、快く賛同した。実際ありがたい申し出だった。
助かったよ、伊佐木さん。
無事目的地にたどり着いた今、樹流徒は改めて心の中で詩織に礼を言う。
すぐに気持ちを切り替えた。これからいよいよ組織の者たちと対面する。多少の緊張と共に、まだ見ぬ生存者と出会えるかも知れない可能性に期待感が高まった。
太乃上荘の入り口を見ると、玄関の引き戸は閉まっており人気は無い。組織のアジトなどというからてっきり見張りの一人でも立たせているものかと勝手な想像していたが、意外にも無警戒だった。周囲に悪魔が出現するかもしれないことを考慮すれば迂闊とすら思える。
戸に手をかけて引いてみると抵抗無く開いた。対悪魔用の罠が張ってある恐れも考え、樹流徒は警戒しながら玄関の先へ一歩踏み込む。
建物の中は真っ暗だった。ここでは暗視眼の力が役に立つかも知れない。暗視眼は、村雨病院に出現した半人半蛇の悪魔ラミアから得た能力で、これを使えば暗闇の中でも目が利くようになる。電気がつかない市内では重宝する能力だと思っていたが、早速出番が回ってきたようだ。
樹流徒の瞳が赤く輝き、視界に映る景色が真昼の太陽に照らされたように色付く。
真正面にはロビー、左手にはフロントが見えるが、いずれも無人だった。右手には大きなついたてが置かれており奥の様子は分からない。足元を見れば、玄関には靴が一足も置かれていなかった。玄関ではなく各部屋の前で脱ぐ様式になっているのかも知れない。
辺りはしんとしていた。耳を澄ませても会話の声や足音は何一つ聞こえない。組織のメンバーどころか、この場所を教えた南方すらもいないのではないか? と思えるほど完全な静寂だった。
その上で、樹流徒は建物の中に誰かがいるような気がした。悪魔の力を吸収した影響か、それとも敵の襲撃をたびたび受けたことにより感覚が研ぎ澄まされたせいか、樹流徒は意識を集中することで目に映らぬ他者の存在をそこはかとなく察知できるようになっていた。野生の勘と呼ばれるものに近いかもしれない。
だとすれば、所詮勘は勘でしなかなかった。この建物の中に人がいるという確信は無い。結局は直接確かめてみるしかなかった。
樹流徒は靴のまま建物の中を進み、慎重な足取りでついたてに近付く。
向こう側を覗くと、こぢんまりとした応接間になっていた。ガラス張りのテーブルを挟んで長いソファが二脚置かれている。人はいない。
ロビーを抜けて廊下を行くと、すぐに大広間が見えた。広さ六、七十畳といったところだろうか。やんちゃな子供ならば思わず駆け回りたくなりそうな空間だ。ここにも人の姿は無い。
次に樹流徒が目を留めたのは、大広間の斜め向かいにある出入り口だった。そこには紫色の暖簾が架かっており、扉が存在しない。十中八九、厨房だろう。
人の存否を確認するため、樹流徒は厨房らしき部屋に入る。
暖簾の下をくぐると、思わぬものが視界に飛び込んできた。
樹流徒が入った部屋は予想通り厨房だったが、どう見ても普通の状態ではなかった。部屋いっぱいに段ボールが置かれているのだ。床だけでは到底並べきれない数の箱が、ロープで固定されて天井付近まで積み上げられている。足の踏み場どころか、奥の様子が見えないほどスペースが無かった。
奇怪な光景を前にして、樹流徒は寸秒固まる。が、すぐに冷静になって足下を見やった。そこには半開きになった段ボール箱が幾つか並んでいる。
一体、中には何が入っているのか? ちょっとした好奇心から覗いてみると、どの箱にも食料や飲み物が詰め込まれていた。米とそれ以外の精製食品。ミネラルウォーターやジュースのペットボトル。インスタント食品からスナック菓子、缶詰まで。一般の店で手に入りそうな飲食物が無秩序に押し込まれている。
樹流徒は今一度部屋に積まれた段ボールの山を見上げた。あれらの中身も全て食べ物や飲み物が入っているのかも知れない。だとすれば、この厨房自体が一つの巨大な冷蔵庫みたいなものだった。
南方さんの話は本当だった。と、樹流徒は確信する。あの男が言った通り、この旅館は天使の犬のアジトで間違いないようだ。もしそうでなかったとしても組織の者たちが食料庫として利用しているのは間違いない。
何故なら、太乃上荘の従業員が厨房をこんな風にしたとは思えない。一方で、組織の人間がやったと考えれば納得できる。彼らも結界に閉じ込められて市内から出ることができない。いつになったら外に出られるか分からない以上、食料を備蓄しておこうと考えるのは当然のことだった。一室を埋め尽くすダンボールの山は、組織のメンバーが市内から集めた水や食料に違いない。
と、その時。
樹流徒は突として背後に人の気配を感じた。咄嗟に暗視眼の能力を解除して踵を返す。
暖簾をくぐって廊下に一歩出ると、思わず息を飲んだ。
そこにはいつの間にか一人の女が立っていた。歳は二十代前半くらいだろうか。黒髪のハードパーマには強いウェーブがかかっている。カーキ色のジャケットとデニムパンツを着用していた。シルバーのリングがはめられた指の中には自動式拳銃がしっかりと握られている。
女は完璧に足音を殺して樹流徒のすぐ近くまで迫っていた。いくら厨房内の光景に意識を奪われていたとはいえ、樹流徒は最低限の警戒は欠かしていなかったし、簡単に誰かの接近を許すことなどありえなかった。
それだけに、樹流徒の背後を取った女の歩行術は常人技ではなかった。彼女は組織のメンバーに違いない、と樹流徒に想像させるのには十分な能力だった。
「動くんじゃない。頭の後ろで両手を組んで、膝を着きな」
ハードパーマの女は落ち着いたハスキーボイスで命令した。初対面の樹流徒に対し、不審なものを見る目つきと銃口を突きつける。相当警戒しているようだが、女に怯えた様子は一切無かった。トリガーにかかった人差し指は微かにも震えず、それどころか銃を構える姿がどことなく様になっていた。
樹流徒は相手の指示に従って、頭の後ろに手を回し、床に両膝を着く。
「アンタ何者?」
女は第一声を発した時よりも更に落ち着きを持った態度で質問する。
「待って下さい。僕は敵じゃない」
樹流徒は身の潔白を証明しようとするが、急な状況につき単純な言葉しか頭に浮んでこなかった。
「敵じゃないって言われてもねェ……。ハイそうですかと信用するわけにはいかないんだよ。それよりちょっとでも妙な動き見せたら容赦なくブッ放すからさ。せいぜい気をつけなよ」
女は不敵な笑みを浮かべる。素性の知れない樹流徒に脅しを与えた。もしかすると脅しではないかも知れない。銃口は樹流徒の額に向けられたままピタリと止まっている。
「アナタは南方さんの仲間でしょう? 僕はあの人からこの場所を聞いて尋ねてきたんです」
時間の経過によって多少余裕を取り戻した樹流徒は、機転を利かせて南方の名を出す。
「え」
ハードパーマの女性は一瞬驚いた顔をした。銃口の角度を少しだけ下へ落とす。
「アンタ、南方と知り合いなの?」
「ええ。あの人から僕のことを聞いてませんか?」
「全く。悪いケド結局アンタ誰なの?」
「相馬といいます。一般市民です」
答えると、女は何かに気付いたらしく「ああ」と相槌を打つ。
「私、アンタのこと知ってるかも。そういや南方が“魔都生誕の影響から奇跡的に逃れた青年がいる”とか言ってたわ」
「僕のことです……きっと」
「あっそ。ふうん。なるほど。へえ。アンタがね」
女は樹流徒の正体にある程度納得がいったようだった。同時に樹流徒に対する興味と緊張を失ったらしく、随分適当な態度になる。
「立ってもいいよ。ただし、両手はそのままで」
女の許しが出て、樹流徒は膝を起こす。
「南方さんはいないんですか?」
「いないよ。アイツ今、付近の偵察に出てるから」
「そうですか。偵察に出られるなら、バフォメットから受けた傷は大丈夫だったようですね」
「骨折してたよ。私が治してやったケドね」
「え。アナタが?」
「そう私が」
「しかし、治すといっても一体どうやって骨折を……」
樹流徒が尋ねようとすると
――おい。貴様何者だ。
出し抜けに、廊下の奥から若い男の声がした。
樹流徒がそちらを見ると、誰かが接近してくる。暗闇ではっきりとは分からないが、整った目鼻立ちをした青年に見えた。歳は樹流徒と同じくらいだろうか。やや細身でレザーパンツとジャケットに身を固めている。
樹流徒を貴様呼ばわりしたその青年は、ハードパーマの女性と同じく武装をしていた。ただし懐に隠し持った銃などではない。もっとあからさまな武器を所持していた。左の腰に差した刀である。