南方の正体
傷ついた樹流徒の体が、魂魔を吸収したことで癒えてゆく。バフォメットにカウンターを放った際に痛めた肩、それから骨折した四本の指の内ニ本までは元通りになった。
残りの指と敵の爪にえぐられた左腕の付け根は治らない。それぞれ激しい痛みを伴ったまま樹流徒の体に残された。魔魂吸収による治癒能力は万能ではない。沢山の傷を負えば悪魔一体を倒したくらいでは回復が追いつかないのだ。
バフォメットは本当に強い悪魔だった。こうして痛手を負ってしまったが、命があっただけ幸運だったと考えよう。
心からそう思いつつ、樹流徒は体を蝕む痛みに渋面を作った。
それは忽ち驚きの表情に変わる。
宙を漂う魔魂が消えるや否や、周囲の光景に変化が起こり始めたからだ。屋上の床一面に描かれていた巨大な魔法陣が急激に光を弱めてゆく。明らかにバフォメットの死に合わせて起きた現象だった。
樹流徒の驚きが少しも覚めない内に、巨大魔法陣の姿は見えなくなった。まるで元々ここには何も存在しなかったかのように跡形も無く消えてしまう。
それにより、おどろおどろしい空間と化していた屋上が、ほぼ本来の姿を取り戻した。床に残された炎の焦げ跡とあちこちに飛散した血痕だけが、この場所で起きた戦いの生々しさを物語っていた。
それにしても少し後味の悪い結末と言えそうだ。悪魔に襲われて死なずに済んだのは良かったが、最終的にいくつかの謎が残ってしまった。悪魔たちがこの屋上で何をしていたのかは分からずじまい。それにバフォメットが死の間際に残した言葉の意味も気になる。スッキリしないことばかりだった。
樹流徒は釈然としない顔をする。
バフォメットを倒してしまう前に情報を得る方法は無かったのか?
そんな、今更考えても仕方がないことを頭に思い浮かべていると……
「怪我、大丈夫かい?」
不意に横から声を掛けられて、我に返った。
隣を見ると、そこにはいつの間にか南方が立っていた。背筋は真っ直ぐ伸びているが、バフォメットに蹴られた右肩から下が力を失ったように垂れている。
「はい。多分大丈夫です」
いきなり声を掛けられた樹流徒は半ば無意識的に返事をする。
「そうかい。それは良かった」
南方は綺麗な歯並びを見せて笑った。
「いや~。それにしても手強い悪魔だったね。俺ひとりじゃヤバかったわ」
続いて南方は左手で額の汗を拭う素振りをしておどける。台詞と態度が一致しないため、どこか嘘っぽく見えた。
それでも樹流徒は南方の言葉に共感した。もし一人で戦っていたら命は無かったかも知れない。院内で南方と出会い手を組んで戦ったからこそ、ラミアの群れやバフォメットに勝てた。それは紛れも無い事実だった。
「ところでさ。君、バフォメットの呪いが効かなかったみたいだね。驚いたよ」
南方はさっさと話題を変える。
そういえば、バフォメットの呪いがどうして急に解けたのか、その謎もまだ未解決のままだった。
「全く効かなかったわけじゃありません。一時的に体が動かなくなって焦りました。でも、すぐに効果が消えたんです」
樹流徒は、戦闘中自分の身に起きた出来事を正直に話す。
「へえ。そうなの? 何もせず勝手に呪いが解けちゃうなんて、俺の知る限り前例の無い話だなあ」
南方はネクタイを緩めながら言って
「あ……。でも、良く考えてみたらそんなに不思議な話じゃないかもね」
と、言葉を連ねた。
「何故です?」
「だってホラ。ロッカー室でも話したけど、悪魔には呪いが効かないんだよ。そして君には倒した悪魔を吸収して自分の力にする能力があるんだよね?」
「あ……」
樹流徒は、相手の言わんとすることをすぐに理解した。
「もしかすると、キルト君は悪魔を吸収したことで呪いに対する耐性みたいなモノができたんじゃないかな?」
「だから僕にはバフォメットの呪いが中途半端に効いたのか……」
有り得る話だった。南方の仮説は樹流徒の胸にストンと落ちた。
「つまり君の体は人間と悪魔の性質を併せ持ってるってわけだ。さしずめ“魔人”とでも言ったところかな」
すると南方がそんな風に言って、笑みを浮かべる。
なんでもなさそうなその言葉に、樹流徒はぎくりとした。遠回しに「君はもう人間じゃない」と言われたような気がして、心に動揺が走った。
動揺が収まると、入れ替わるように軽い不快感が込み上げてくる。冷たく突き放されたようでもあり、自分のコンプレックスをからかわれたような気分になった。
南方に一切の悪意は無かっただろう。ただ、今の樹流徒は自分の体が刻々と変化してゆくことへの不安に対してかなり過敏になっていた。相手が何気なく放ったのであろう言葉にもつい反応してしまうほど、神経質になっていた。
以前、樹流徒は「自分の体について余り深く考えないようにする」と決めたことがある。悩んでも解決する問題ではないし、どうしようもなく不安な出来事から意識的に目を逸らすことで、自分の精神を守る必要があったからだ。
ただ、気にしないと決めただけで本当に気にならなくなれば、人生はどれだけ楽だろう。
魔空間を突破してバフォメットを倒した今、樹流徒の張り詰めた緊張は急激に緩んでいた。そこへ南方のやや無遠慮な一言が投じられ、樹流徒の胸の奥底に塞き止められていた感情が呼び起こされてしまったのだ。
それだけ樹流徒は、自分の肉体が悪魔じみてゆくことを心底恐怖していた。南方の言葉は、樹流徒にとって不治の病の宣告にも似た辛い言葉だった。
樹流徒は険しい表情になる。南方の言葉を否定したい衝動に駆られた。「僕は人間です。魔人なんかじゃない」と言いたかった。何も起こらなければ、実際口にしていただろう。
それを邪魔したのは、バフォメットとの戦闘で負った傷だった。左腕の付け根がズキンと疼いて、樹流徒の喉まで出掛かった声を無理矢理引っ込ませる。まるで見えない力が樹流徒の行動を抑えたかのようだった。
そのお陰と言うべきだろうか、半分頭に血が昇っていた樹流徒は少し冷静になった。南方さんは別に僕を傷つけようと思ってあんなことを言ったわけじゃない……そう思い直せた。
樹流徒は、衝動的に言い返そうとしていた言葉を頭の中から追い出して、別の言葉を選ぶ。
「南方さん……。バフォメットに蹴られた肩は大丈夫ですか?」
と、相手を気遣った。
「ん? ああ。シャレにならんほど痛い」
南方は負傷した部位を擦りながら苦笑いする。
「正直ですね」
「まあね。それにしても参っちゃうよ。俺ら病院にいるってのに誰も診てくれる人がいないんだからさ。ドクターも看護士も、生きてるどころか全員どっかに消えちゃってるし」
傷が痛むのだろうか、南方の声が若干震えた。
「病院の人達だけじゃないですよ。市内中から死体が消えてます」
「おや。君もそのこと知ってたんだ?」
「市内を歩いていれば嫌でも気付きますよ」
「それもそうだ」
「悪魔の仕業……なんですよね?」
「だろうね」
「彼らは何のために市民の遺体を集めてるんです?」
「さあ。悪魔にとって人間の死体ってのは幾らでも使い道があるらしいからね。残念ならがら目的を絞る事はできないな」
「そうですか」
たしか、少年の悪魔マルティムも南方と同じようなことを言っていた。
「さて……。偶然立ち寄った病院でとんでもない探索をする羽目になっちゃったけど、幾つか収穫があったからそれなりに満足だよ」
「収穫というのは、バフォメットが最期に残した言葉ですか?」
「それもある。あとは床に描かれていた巨大な魔法陣かな。俺が見たところ、あれはかなり大掛かりな“儀式”を行うためのものだ」
「儀式ってなんです?」
普段の生活では聞き慣れない単語が飛び出したので、樹流徒はそれとはなしに尋ねる。
「え。う~ん……」
南方は説明に窮したように唸って、左手で頭の後ろを掻いた。
「そうだなあ。儀式は儀式としか言いようが無いね。なにせひと口に儀式と言っても数え切れないほど種類があるからさ」
「はあ……」
「例えば、さっきバフォメットが小さな魔法陣から炎や雷を呼び出して俺たちを攻撃しただろう? あれだって立派な儀式のひとつなんだよ」
「あれもですか?」
「うん。あの雷や炎は現世の自然現象とは似て非なるものだからね。バフォメットは魔法陣を使った儀式によって、本来魔界に存在する炎や雷を現世に召喚したんだ」
「魔界に存在するものが魔法陣を通過して現世に来た……ということですか?」
「まさにその通りだ。魔法陣っていうのは、いわば現世と魔界を繋ぐ扉だからね。正確には“異なる世界同士を繋ぐ扉”なんだけどさ」
その説明を聞いた途端、樹流徒はあることに気付く。
「待ってください。だったら、さっきまでこの屋上に描かれていた巨大な魔法陣も、魔界と関係があるんじゃないですか?」
「お。鋭いね。再び大正解だ。きっと、バフォメットは現世で魔法陣を使った儀式を行うことで、魔界に対して何かしらの影響を及ぼしたに違いない。勿論それが何なのかは分からないけど」
「やはり、バフォメットの目的までは分からないんですね」
冷風がびゅうと吹き抜ける。樹流徒の傷口に鈍痛が走った。
短い沈黙の後、南方が徐に口を開く。
「ところでまた話は変わるけど、今回の戦いで確信したよ。君は少なくとも悪魔の味方ではないようだ」
「なんですそれ。僕を疑ってたんですか?」
「まあね。君の能力を見ればそりゃ警戒したくもなるよ」
確かにそうかも知れない。樹流徒は納得した。もし逆の立場だったら自分も多かれ少なかれ相手を警戒していただろう。そう想像したら、南方の言い分はもっともに聞こえた。
「だけど俺のキルト君に対する誤解は今回の戦いで解けた。そこでだ。君にひとつ提案をしたい」
「提案?」
「そう。単刀直入に言おう。今後も俺らと協力する気はないか?」
「え。それって、どういう……?」
「だから協力だよ。一緒に魔都生誕の真相を探らないか? って話」
「本気ですか?」
唐突な申し出だった。病院を出るまで共闘しようという提案された時も意外に思ったが、それよりもずっと予想外な話だった。
「君、事務室で戦ったデウムスが“天使の犬”って言ったの覚えてるだろ?」
「ええ」
「今だから白状するけど……実はオレ、その組織の一員なんだよ」
南方はそう言って自分の胸に親指を立てる。これまで己の素性について頑なに口を閉ざしてきた男が、自ら正体を明らかにした。
それに対し、樹流徒は然程驚きはしなかった。南方の正体を聞いて、むしろ内心で「やはり」と呟いた。というのも、南方の正体についてはある程度予想がついていたからだ。
それに気付いたのは、三体のデウムスを撃破した直後だった。いま南方が言った通り、戦闘中にデウムスの一体が「天使の犬」という言葉を口にした。だがデウムスはそれが組織の名前であるとは一言も言っていなかった。にもかかわらず、戦闘終了後、南方は天使の犬を組織名だと知っているかのような発言をした。
あのときから、樹流徒は南方の正体に薄々感づいていたのだ。
「俺たちの組織……天使の犬について、簡単に説明しようか?」
「たしか、天使の命令で動く人間たちの組織ですよね? 天使の犬というのは悪魔が名付けた蔑称で、正式な組織名は別にあるとか」
樹流徒は、悪魔倶楽部で出会った女性悪魔から聞いた情報を並べる。
「へえ。こりゃまた驚いた。俺らの組織について知っているとはね」
南方は一瞬瞳を丸くしてから朗笑した。
「僕が知っているのは今言ったことだけです」
「いやいや。それだけでも大したものだよ。そういや君、この病院に悪魔がいることも知ってたよね。情報源はどこだい?」
「……」
樹流徒は無言になった。悪魔倶楽部の存在を南方に知らせるわけにはいかない。
女性悪魔によれば、天使の犬は悪魔を敵視している。そんな組織の一員である南方に、悪魔が訪れる店の話などできるはずがなかった。バルバトスたちを裏切ることになってしまう。
樹流徒が沈黙を守り続けていると、南方は柔和な笑みを浮かべた。
「ま、いっか。俺も君に全てを話したわけじゃないし、話せないことだってあるしね」
そう言って、勝手に納得したように頷く。
「で、話は戻るけど、どうする? 組織に協力してくれる気はあるかい?」
南方は改めて樹流徒に問う。
「協力といっても具体的には?」
「今回みたく一緒に戦ったり、情報の共有をするんだよ。君は魔都生誕の真相を知るのが目的なんだろう? 俺らと組んでも損はしないと思うんだけどなあ」
「確かにそうかも知れません。でも、情報の共有と言ってもアナタたちに話せないこともありますよ」
「分かってるってば。言ったろ? こっちにも君には話せないことがある」
「そうですか……」
樹流徒は少し考える素振りをして
「分かりました。前向きに考えてみます」
わずかニ、三秒後、少し曖昧な返事をした。
「やっぱ即決ってわけにはいかないか」
「ええ。良いですか?」
「うんうん。全然オッケー。それじゃ、もし君の前向きな考えってヤツが変わらなかったら“太乃上荘”へおいで」
「たのがみそう……?」
「こういう字を書くんだけどね」
南方は人差し指を使って空中に太・乃・上・荘の四文字を描く。
「知らない建物です。アパートですか? それとも宿泊施設?」
「市の北端に温泉街があるのは知ってる?」
「はい。それなら」
「太乃上荘はその温泉街に連なる施設の一つだよ。実は、今あそこが俺らのアジトになっているんだ」
「温泉の施設をアジトに?」
「別に本来のアジトが使えないってわけじゃないんだよ。でも、結界のせいで市内の水道とかガスとか全滅しちゃっただろう? その都合でちょっとね……」
「分かりました。北の温泉街にある太乃上荘に行けばいいんですね」
「そうそう。君、なかなか良い記憶力だね。俺くらいの歳になると段々物覚えが悪くなるから羨ましいよ。あ、でも綺麗なお姉さんの名前だったら一発で覚える自信あるけどね」
推定三十歳前後の男は、聞いてもいないことを勝手に喋って、はっはっはと声を上げて笑う。
終始やらたと軽い雰囲気の男だった。この人は本当に天使の命令で動く組織のメンバーなのか? という疑念が樹流徒の脳裏を過ぎる。
「よ~し。じゃ俺そろそろ行くとするよ。今回の共闘、どうもありがとね」
南方は左手をさっと上げて、別れの挨拶を手短に済ませた。樹流徒が頷く程度に頭を下げると、男は踵を返し、負傷した右肩をやや下に傾けながらゆっくりとした足取りで去ってゆく。
樹流徒は、南方の背中を見送った後、建物の中に入った。
村雨病院はすっかり元の状態に戻っている。魔空間を発生させていた悪魔はバフォメットだったのだろう。
樹流徒は階段を降りて、適当な階の適当な病室に入った。周囲に人気が無いことを入念に確認してから、悪魔倶楽部の鍵を取り出す。それを病室の窓に挿し込んだ。