魔魂
突如現われた南方は、倒れたロッカーの上に片足を乗せ、右手にはリボルバー式拳銃を所持していた。
乾いた音の正体は発砲だったらしい。黒塗りの銃身から飛び出した三発の弾丸が、頑強な悪魔の体を貫いたのだ。
「よっし命中」
南方は暢気な声を発する。命の奪い合いをしている戦地には不似合いな、緊張感の欠片も無い声だった。ただ、その軽薄な態度とは裏腹に、射撃の精度は恐ろしく高かった。
首から上の二ヵ所を正確に撃ち抜かれた悪魔はまだ動かない。肉体の崩壊こそ起きていないが、もはや瀕死状態に見えた。
南方の出現により、悪魔有利で進んでいた戦いの形勢は一気に逆転する。樹流徒がようやく事態を飲み込んだとき、南方は既にもう片方の悪魔を狙い撃ちできる位置まで移動していた。
五つの穴を持つシリンダーが回転する。銃口から放たれたニ発の弾丸が、半人半蛇の胸部と頭部を撃ち抜いた。距離が近いとはいえ、この暗闇で再びの両弾命中である。二度続けばもうマグレではない。南方の銃の腕前は、その道において完全な素人である樹流徒の目から見ても相当なものだと分かった。
銃弾を受けた悪魔は、今度もべちゃりと水を叩きつけるような音を鳴らして地に伏せる。そのまま二度と動かなかった。
樹流徒に決死の覚悟を迫ったニ体の悪魔は、余りにも容易く葬られた。異形の身体が火に焙られた紙の如く消失してゆく。それは蛇の尾から始まり頭に向かって段々と進んでいった。火の粉を撒くように赤黒い光が空中へと放出される。それは樹流徒の体に吸い込まれ、彼の傷と倦怠感を完全に拭い去った。
新しい悪魔の増援は無い。物陰に潜んでいる者もいない。今度こそ戦いは終わったようだ。
際どい死線を乗り越えて、樹流徒は急激な安堵に襲われる。
ただしそれも束の間。彼の心は、南方対して警戒心を働かせた。何故、この男がこんな場所にいるのか? 銃を所持していることや、素人離れした射撃の腕前など、相変わらず謎だらけの人物だった。
「やあ驚いたな。誰かと思ったら君じゃないか。危うく悪魔と間違えて撃つところだったよ」
南方は新しい銃弾を装填しながら樹流徒に語りかける。その口調は毒気を抜かれそうなほど穏やかだった。
ただ、弾丸の補充が完了した後も、南方の手は銃のグリップを握り締めている。トリガーにも人差し指を添えたままだった。樹流徒が相手を警戒しているように、南方もまたこの場にいた樹流徒のことを警戒しているようだった。
樹流徒はロッカーから飛び降りて、南方の近くに着地する。
二人は正対した。南方の瞳に、樹流徒の両目が発する赤い光が映り込む。
「アナタは南方さん……でしたよね? 助かりました」
「あれ。俺の名前覚えててくれたんだ。感激だな」
樹流徒が礼を言うと、男は頬を緩ませた。まるで数年来の友とばったり出会ったかのような表情だ。
「そういう君は、確かキルト君だったよね? 俺も覚えてたよ」
「はい。南方さんも食堂の扉からこの部屋に飛ばされてきたんですか?」
「まあね。そしたらいきなり目の前に君と悪魔が現れるからビックリしたよ」
「でも、何故アナタがこの病院に?」
「おや。再会したと思ったら、この前みたいに質問攻めかい? 参ったな」
南方は、はははと小さな声を出して笑いながら頭の後ろを掻く。答えをはぐらかすような態度だった。
それでも樹流徒が黙っていると、男は問いに応じる。
「俺がここに来たのはタダの偶然だよ。病院のベッドで休憩させてもらおうと思ってね」
「はぁ……」
偶然? 本当にそんなことがあるのか? それに、休憩するにしても普通病院を選ぶだろうか?
樹流徒は訝しんだ。しかし深く追求しても口を割りそうな相手ではないので、疑問を口にするのはやめておく。
すると、何か言いたいのを押さえて沈黙する樹流徒に向かって、南方は微笑ましいものを見るような眼差しを送った。
それに気付いた樹流徒が微かに眉を寄せると、男は少し急いだ様子で口を開く。
「偶然ここに来たっていうのはホントさ。でも、建物に入ってみたら悪魔が巣食っていることに気付いてね。魔都生誕に関する情報を収集できるかも知れないと思って中を調査することにしたんだよ」
「それで……何か分かりましたか?」
「いや。だって俺、いま来たばかりだからね。悪魔と戦う前に食堂で腹ごしらえでもしようと思ったんだよ。そしたらココに飛ばされちゃってさ。参ったよね」
「……」
本気なのか? それとも冗談なのか?
樹流徒は絶句する。魔空間の中で食事をしようとする男の神経を疑った。
「ところで君こそ何でこんなトコにいるのかな? 俺も同じ質問に答えたんだから、教えて欲しいな」
今度は南方が質問する側に回る。
「大体アナタと同じ理由です」
「へえ。じゃあ、君もこの建物の中を調査中ってワケかい?」
「アナタと公園で別れた後、僕は魔都生誕の真相を探そうと決めたんです。ここに潜む悪魔が何か知っているか知れないかと思って……」
「なるほど。それじゃ俺たち、目的は同じというわけだね」
南方はここでようやく武器を手放す。右腰に装着しているホルスターの中に拳銃を収めた。
そして空になった両手をポケットに突っ込む。
「アナタは一体何者なんです? 最初に会ったときは答えて貰えませんでしたけど」
「そりゃコッチの台詞だよ。君のその赤く輝く瞳は一体何なのかな? まるで悪魔みたいじゃないか」
「これは……」
指摘されて、樹流徒は暗視眼を発動したままだということに気付く。
すぐに解除したが、今更隠しても遅かった。
「君は生身で悪魔と戦っていたようだし……。それに俺の見間違いでなければ、“魔魂”を吸収していたみたいだけど」
「マコン? なんですそれ?」
樹流徒は相手の追求をかわすついでに、質問を返した。
「ホラ。悪魔が死ぬと体が消滅して赤黒い光の粒になっちゃうでしょ? あの光の粒を魔魂って言うんだよ。“悪魔の魂”と書いて魔魂」
「そんな名称があったんですね」
「あったんだよ。で? 改めて聞くけど、その魔魂を吸収してしまうキルト君は一体何者なのかな?」
「ただの一般人です。僕自身、自分の体がどうなってしまったのか全く分からないんです」
「本当かい? もしその話が事実なら不思議だね。実に興味深い話だなあ」
南方は顎に手を添えて、樹流徒の頭からつま先までをじっと眺める。
「すいませんけど、余り凝視しないで欲しいんですが」
「ああ悪い悪い。俺も男をジロジロ見る趣味は無いから大丈夫だよ」
南方は笑顔で返してから
「ところでキルト君、物は相談なんだけどさ」
と、やや真剣な表情になって言った。
「なんです急に?」
「どうだろう。俺たち折角こうして再会したことだし、病院を出るまで一緒に行動しないか? 共闘ってヤツだよ」
「共闘ですか?」
樹流徒は鸚鵡返しに尋ねる。
些か唐突な申し出だった。魔都生誕の秘密を探るという共通の目的があるにしても、己の正体を明かそうとしない南方の口からそのような提案が出たことが意外だった。
「だってさ。俺らって利害が一致してるじゃない。それに敵対する理由も無い。悪い話じゃないと思うんだけどな」
「そうですね……」
樹流徒は相手の口元に置いていた視線を首下の辺りに落とす。
それからすぐに心を決めて頷いた。
「分かりました。協力して病院内を探りましょう」
「おや? 随分と早い決断だね」
「南方さんには初めて会った時色々な情報を頂いたし、今も助けてもらいましたから」
「ふ~ん。律儀だね。それともアレかい? 君ってばもしかして、借りは返さないと気が済まないってヤツ?」
「そんなのじゃないですよ」
「ははは。まぁなんでもいいや。とにかく交渉成立だね。ヨロシク」
南方は樹流徒の肩をポンポンと叩く。
いま、ここに一時的な共闘関係が生まれた。秘密を抱えた者同士の微妙な関係だが、今までほとんど一人で悪魔と戦い続けてきた樹流徒にとっては、味方ができたことは心強かった。
「それじゃあ取りあえず魔空間を構築している悪魔を探そうか。あ、でもその前にキルト君には魔空間の説明をしとかないといけないよね」
「いえ。それについては多少知ってます。偶然ですが知る機会があったので」
「あ、そうなの? へぇ。どんな機会だったのか詳しい話を聞きたいね」
「それよりも、今倒した蛇みたいな悪魔が魔空間を発生させたてたんじゃないんですか?」
「まさか」
南方は手を左右に振る。
「あの半人半蛇の悪魔は“ラミア”と呼ばれる種族だ。彼女たちに魔空間を生み出す力は無いよ」
「そうなんですか」
「うん。ついでだからラミアについてもう少し詳しく話しておこうか」
南方はそう言って、半人半蛇の悪魔について勝手に解説を始める。
「ラミアは現世に姿を現すと子供を次々とさらっては喰う悪魔なんだ。個体によっては体内の毒袋から即効性の毒液を吐き出す」
「毒液……そうか」
樹流徒は、先刻まで自身を襲っていた倦怠感の正体に気付く。
あれはラミアの毒液が原因だったに違いない。傷口に吐きかけられた液体がそれだったのだろう。思い返してみれば体調がおかしくなったのもそれを食らった後だった。
「恐ろしい悪魔ですね。風貌も、能力も、子供をさらって喰うという行動も」
樹流徒は素直な感想を口にする。同時に、己が命拾いをした実感が湧いてきた。魔魂吸収による回復能力がなければ、今頃ラミアの毒に侵されて取り返しのつかないことになっていたかも知れない。
「うん、そうだね。特に初めて対峙した時は恐ろしくて厄介な悪魔に違いない」
南方はまず樹流徒の言葉を肯定してから
「けど、ラミアという種族の祖にまつわる逸話を聞くと、多少印象は変わってくるかもね」
と、付け足した。
「どんな逸話なんですか?」
「お、興味あるかい? 良ければそれも話そうか?」
「はい。じゃあ、少しだけ」
「よしよし。リクエストにお応えしちゃいましょう」
南方の口元が心なしか嬉しそうに曲がった。
「ラミアの祖といえば、ギリシャ神話に登場する海神ポセイドンの孫娘だ。彼女は全能の神ゼウスの寵愛を受けた美しい女性だった」
「つまり、ラミアはゼウスの妻だったんですか?」
「ううん。彼女はいわゆる愛人でね。しかもゼウスには他にも沢山の愛人がいた」
「なるほど」
「まあそれはさておき、次に登場するのが今度こそ正真正銘ゼウスの妻・ヘラだ。ヘラは、愛人のラミアに対する怒りと嫉妬から、ゼウスとラミアの間にできた子を全て殺してしまう。更にラミアに対して恐ろしい呪いをかけてしまうんだ。もし彼女が子を産んだ場合、彼女がその子を食べてしまうという呪いをね」
「自分が産んだ子を食べる呪い……」
聞いただけでぞっとするような話だった。
「そう。しかもラミアは不眠の呪いまでかけられた。彼女の体が半人半蛇になったのはそれらのショックが原因とも言われているし、ヘラに姿を変えられたためという説もある」
「なんだか悲しい話ですね」
「うん。そして正気を失ったラミアは、他の母への嫉妬から子供をさらって食うようになったんだ」
「なるほど。確かにこういう話を聞くと、恐ろしいだけの悪魔も少しだけ印象が変わります」
「だろう?」
南方はどこか満足げな笑みを浮かべた。
「けどさ。この話、ちょっと残念だよね……」
「え。何がです?」
「ああ……実はね。“悪魔という種族には呪いが効かない”んだ」
「呪いが聞かない? それってどういう……」
「そのままの意味だよ。悪魔には呪いが効かない。だから、もしゼウスの愛人・ラミアが悪魔という種族だったら、きっとヘラの呪いにもかからなかったんだろうな……とか思ってさ」
「そういう意味ですか」
南方の口から飛び出す話は、何もかも樹流徒が初めて聞く話だったし、興味深い話でもあった。
ただ、樹流徒は南方の話よりも、南方自身の存在がますます気になった。
なぜ、この人はここまで悪魔について詳しいのか? 単に詳しいだけではない。彼は、悪魔が実在することも、魔都生誕を起こしたのが悪魔のしわざだということも知っていた。
樹流徒が改めて不思議に思っていると、南方は口の両端を軽く持ち上げる。
「いやあ。ちょっと余分な話をしちゃったね。時間も惜しいし、そろそろ行こうか」
そういえば、魔空間を生み出した悪魔が去ってしまう前に病院の中を調査しなければいけなかった。それを思い出した樹流徒の全身は戦闘体勢に戻る。
「分かりました。行きましょう」
二人は会話を断ち、揃ってロッカー室を後にした。




