弱点
再び睨み合いが始まった。ただし戦闘前の静かな対峙とは違う。樹流徒は戦いの興奮と体の痛みで息を荒くし、悪魔は口元を震わせて相手を威嚇するような鳴き声を発する。猛る両者がいつ飛び出してもおかしくない、激しい睨み合いだった。
空気が異様な熱を帯びる。それが僅かにも冷めぬ内に、樹流徒が動き出した。地を蹴り、悪魔めがけて突っ込む。前の攻防では変則的なカウンター攻撃を受けてしまったが、次こそは狙いを外すまいと神経を集中した。
迎え撃つ悪魔は下半身をいっぱいに伸ばして立ち上がる。長くごわごわした紫色の髪が翻り、頭頂部は天井近くまで接近した。今、悪魔の全長は間違いなく二メートルを超えている。これまで樹流徒の顎を見上げていた真紅の双眸が、彼の旋毛を楽に見下ろせる位置にまで上昇した。
その高さに少々度肝を抜かれたが、樹流徒は突進の勢いを緩めない。敵の懐に飛び込んだと同時に一撃を繰り出した。指先から伸びた爪が、見事悪魔の下半身に食い込む。充分な手応えが伝わってきた。
ところが、樹流徒の表情はみるみるうちに曇る。手ごたえに反して、攻撃があまり通じていなかったからだ。力任せにねじ込んだ爪は、悪魔の皮膚を貫通したまでは良かったものの、それ以上奥に突き刺さっていなかった。
原因は、悪魔の表面を覆っていた謎の液体だった。無色透明でややぬめり気のある、油と良く似た液体だ。それに触れた途端、樹流徒の爪が鋭さを失ってしまったのである。
悪魔がいつの間に謎の液体を纏ったのかは分からない。下半身の皮膚全体に液を放出できる孔でも存在しているのかも知れなかった。
樹流徒には舌打ちをする間すらない。驚くべき手段によって攻撃を防がれた彼は、一旦敵の懐から離脱しようと素早く決断した。相手を腹を蹴って反動で後ろに飛ぼうと動き出す。
このとき樹流徒にとって不運だったのは、敵が恐ろしく速いことだった。
樹流徒が足を振り上げようとしたときには、悪魔の上半身が彼に迫る。蛇の瞳を持つ女の顔が真っ赤な口を開けて、真上から覆いかぶさるように樹流徒を襲った。ついさっき樹流徒の左肩に食い込んだ牙が、今度は彼の右肩に突き刺さる。悪魔はすかさず喉の奥から紫色の液体を射出した。
意識が途切れてしまいそうな激痛が体を巡る。樹流徒はまた歯を食いしばった。口の隙間からぐっと声を漏らして、何とか痛みに耐える。
もし心の準備をしていなければ、気を失っていたかも知れない。ただ、幸いにも樹流徒はこの展開を予想していた。再び敵に噛み付かれることを前もって覚悟していた。だから耐え難い痛みを受けても何とか意識を保てた。
もちろん攻撃を受けたあとの対処も考えている。もし今度噛み付かれたれた場合には、即、自分もろとも敵を攻撃すると決めていた。
この悪魔は炎に強い。それに、ぴったり密着した状態の敵には腕を振り抜けないから、爪の攻撃もあまり威力を発揮しないだろう。となれば、残された武器はひとつしかなかった。
樹流徒はすうっと息を吸い込み、一気に吐き出す。口から刺すような冷気が放たれた。マモンの左首から得た能力である。
冷気は低く唸る風の音を伴って吹き荒んだ。全てを凍りつかせる白い粒子が半人半蛇の顔面から胸にかけて張り付く。一緒に樹流徒の肩や腕も巻き込んだ。
攻撃を受けた悪魔は、先ほど炎を浴びたときとは全く異なる反応を見せる。慌てた様子で樹流徒の体から飛び退いたところまでは同じだったが、着地と同時に力なくうなだれた。そのまま顎を床に着け、下半身はとぐろを巻き始める。まるで沸騰した湯の中に放り込まれたイカか海老のように身を縮ませた。
そうか、この悪魔は冷気が弱点だな。
敵の様子を見て、樹流徒は確信する。
出来ればもう一発、連続で冷気を浴びせたかった。ただ、生憎にも火炎弾と同様、火柱や冷気にも連射性能が無い。今すぐ悪魔に致命傷を与えるためには、爪で追撃するほかなかった。
いま、樹流徒の右腕はまったく動かない。自身が放った冷気をまともに浴びたせいで肩から先の感覚が完全に無くなっていた。
もはや頼りなのは左手一本だけだ。悪魔の牙に貫かれた左肩も決して万全な状態ではないが、やるしかない。
樹流徒は足に力を込めた。同時にうっと声をこぼす。一体何が起きたのか、凄まじい倦怠感に全身を襲われた。目の前がかすんで、視界が三重にブレる。この大事な場面で、突如訪れた体の変調だった。
原因も分からず、樹流徒は驚きとともに眉を潜める。それでもこの好機を逃すわけにはいなかなかった。悪魔は未だ床に蹲ったまま、迎撃の態勢を取るどころか動く気配すらない。いまを置いてほかに勝負を決める機会など無かった。
体調のことなど後で考えればいい。樹流徒は自らにそう言い聞かせ、全身を駆け巡る脱力感を振り払って跳躍する。
蛇の下半身は謎の液体にコーティングされており、爪の切れ味を殺されてしまう。狙うならば上半身だ。
視界がぼやけて狙いが定め難い中、体が落下する勢いを乗せて全力で腕を振り下ろした。左肩に走る痛みに耐えながら敵の首めがけ一撃を見舞う。
悪魔が引き攣れた叫びを発した。胴体から切り離された頭部が樹流徒の足下に転がる。円形の双眸はまだ輝きを失っていなかった。
樹流徒は息を飲む。首だけになった敵が自分の喉元に喰らいついてくるような気がした。
間もなく、悪魔の頭部と体がそれぞれ崩壊を始め、赤黒い光の粒となり空中を漂う。それを吸収しながら、樹流徒はようやく勝利を実感できた。
冷気を浴びた右腕に失われていた感覚が蘇る。だが、敵の牙に貫かれた両肩の傷は完全に塞らなかった。体内を蝕む倦怠感も抜けきらない。攻撃を受け過ぎたせいだろう。悪魔一体を吸収しただけでは全快に至らなかった。
恐ろしい敵だった。それ以上に戦い難い相手だった。
樹流徒は頭の中で死闘を振り返り、余韻に浸る。
と、その最中だった。不意に樹流徒の視界が明るくなる。暗闇の中にいるとは思えないほど周囲の景色がハッキリと見え出した。天井のシミが視認できる程明るい。色の識別までできる。
驚いて部屋を見回してみると、天井の蛍光灯は消えたままだった。戦闘で壁のどこかに穴が開いて、外明かりが漏れてきたという様子もない。空間自体は真っ暗闇のままだ。
変化が起きたのは空間ではなく、樹流徒の目だった。彼の瞳が半人半蛇の悪魔と同じ赤い光を放っている。
樹流徒はロッカーの扉にぼんやりと反射するニつの小さな光に気付く。それが自分の両目から放たれている光だと分かったとき、概ねを理解した。きっと半人半蛇の悪魔を吸収したことで暗闇でも利く目を入手したのだ。
まるで暗視スコープのような機能を持った瞳だった。さしずめ“暗視眼”とでも呼べば良いだろうか。電気がつかない市内では非常に重宝しそうな能力である。
もっとも、いくら便利な能力を手にしようと、樹流徒には喜びの欠片も無かった。己の体がますます化物じみたことへの恐怖。このまま悪魔を吸収し続けたら、一体どうなってしまうのか? という不安。それらの感情により、束の間、心の中が暗く満たされた。