地を這う恐怖
静まり返った病院内を、たった一人で駆け回る。同じ廊下を何度も走り抜け、あちらの部屋に入ったり、こちらの部屋に入ったりを繰り返した。だが、どの部屋に飛び込んでも最終的には病院の入り口に戻されてしまう。
樹流徒は未だ一階に留まっていた。正面左手に顔を向ければ受付が見える。背後では漆黒の壁が穏やかに揺れていた。
「また部屋を間違えたか……」
彼がスタート地点に立つのも、これでもう六回目だった。
予想通り、この魔空間には正しい扉をくぐらなければ玄関まで戻される罠が働いているようだ。どの部屋の扉を選べば正解なのかは、まだ分かっていない。何かヒントのようなものがあれば良いのだが、それすらも見つかっていなかった。残念ながら、一部屋ずつ順番に調べる方法を続けるしかない。
樹流徒は先が思いやられた。なにしろ一階だけでも三十前後の部屋数がある。もしワープの罠が上の階までずっと続くとしたら、悪魔の元にたどり着くまでには相当な時間がかかるだろう。
もしかすると、それが院内に潜む悪魔の目的かも知れなかった。病院に侵入者が現れたら、魔空間の迷宮に閉じ込め、時間を稼ぐ。そのあいだに悪魔は何かの企みを実行しようとしているのかも知れない。
それとも深読みのし過ぎだろうか。
樹流徒は思ったが、その考えとは裏腹に両足は先を急いだ。
次に彼が向かった場所は食堂だった。部屋の前には透明なケースが設置され、中に食品サンプルが並んでいる。食堂内は他の部屋同様、取り立てて変わった様子は無い。四人用の白いテーブルが並んでるだけの、ごく自然な風景だ。
食堂の入り口を通り過ぎると、ほかの部屋と同じように侵入者をワープさせる罠が作動した。視界が真っ白になり、樹流徒の体は別の場所に飛ばされる。
ワープ技術といえば人類の夢のひとつだが、樹流徒は今の時代にそれを体験できるとは思わなかった。改めて考えても、魔空間が生み出す効力と、それを扱う悪魔の存在は謎に満ちている。
マルティムは「なぜ悪魔が魔空間を作り出せるのか、実はボクたちも知らない」と言っていた。非科学的な力を追及した結果でもなければ、長年特殊な修行を行なったわけでもない。悪魔は自分たちですら知らないあいだに魔空間を操れるようになっていたらしい。
果たして、本当にそのようなことがあるのだろうか? 樹流徒は頭の隅で疑問を感じていた。いくら悪魔が現世の常識が通じない異世界の住人とはいえ、少し釈然としない部分がある。
食堂の入り口からワープした先で樹流徒が目にしたものは、完全な暗闇だった。一面白の世界に包まれたかと思えば、次は漆黒の世界である。点滅する景色に、軽い立ちくらみを覚えそうだった。
それはそうと、ここはどこなのか? 樹流徒は辺りを見回す。
すぐに、部屋が真っ暗なのは窓がついてないせいだと気付いた。窓が無いということは、ここは多分地下室だろう、と見当をつける。
目が暗闇になれるまでには多少の時間がかかる。樹流徒は立ち止まり、瞼を下ろした。
その状態のまま両手で宙を探ると、指先に無機質な感触がぶつかる。一体何とぶつかったのだろうか、と思って掌で擦ってみると、形や大きさからして恐らくロッカーだった。拳で軽く叩いてみると、ガシャンといかにもそれらしい音が返ってくる。ひょっとすると、この部屋は職員が着替えをするためのロッカー室なのかも知れない。
闇の中で静止したまま、数分が経った。
瞼を持ち上げると、闇に慣れた樹流徒の瞳に辺りの景色がぼんやりと映る。列を成すロッカーが見えた。部屋は相当広く、天井の大きさから判断して三十畳以上はありそうだ。しかし大病院に身を置く職員の数を考えれば、この広さも納得だった。
樹流徒は壁に手をつきながら歩き出す。
今度も玄関まで飛ばされてしまうのだろうか、などと考えつつ、部屋の出口を目指した。
――ズ……ズズッ
と、その時。
樹流徒の耳は、何かが地面を擦る音を捕まえる。分厚いビニールシートを引きずるような音だった。それは寸秒で途絶えてしまったが、決して空耳などではない。間違いなく、聞こえた。
――ズズッ
再び何かが地面を擦る。最初よりも大きな音だ。
樹流徒は警戒心を強めた。得体の知れない存在が、ロッカーの裏に姿を隠しながら徐々に忍び寄ってくる。
悪魔か?
喉まで出かかったその言葉を押し殺して、いよいよ迎撃の構えを取った。注意深く耳を澄ませ、瞬きをニ、三回する。
音の発生源が正体を表したのは、次の刹那。
シャーッという尾を引く奇声と共にロッカーの陰から異形の影が姿を現した。
樹流徒は全身の筋肉を緊張させる。悪魔との遭遇に、心臓が軽く跳ねた。
壁とロッカーに挟まれた窮屈な通路で、両者は向かい合う。互いの距離は大人が一足飛びをすれば届きそうなくらい近かった。
現れた悪魔は、人間の女に似た上半身と蛇の下半身という姿をしていた。半人半蛇の悪魔だ。地を這うように姿勢を低くして、シグナルレッドに輝く両目で樹流徒を見上げている。その瞳はコンパスで描いたように真ん丸な形をしていたが、それを高い位置から見下ろす樹流徒にはやや楕円形に見えた。まるで悪魔が目を吊り上げているように錯覚する。
「オマエがバフォメットか?」
樹流徒は相手の挙動に注意しながら尋ねた。
対して、半人半蛇の化物は返事をしない。口の隙間から長い舌を伸ばし、2叉に分かれた先端を宙で震わせた。そこから粘着性のある唾液が糸を引いて垂れ落ちる。音もなく床に滴り、小さな水溜りを広げてゆく。
樹流徒は一歩退いた。相手から向けられる刺すような殺気を肌で感じ取り、全身が微かに戦慄く。
獣の姿を持つ悪魔と遭遇したことはあるが、蛇の下半身を持った悪魔と戦った経験はまだなかった。敵がどのような動きをするのか全く想像できない。非常に戦い難い相手だった。
一触即発の睨み合いが続く。
樹流徒は敵の動きに集中する余り、いつからか無意識に呼吸を止めていた。息苦しさを思い出したのと同時に、張り詰めた緊張に堪えかねる。衝動で、自ら動き出した。
樹流徒は口から小さな炎の塊を放つ。けん制の火炎弾が赤々と輝いて闇を裂いた。
悪魔は上半身に勢いをつけ、体の形状からは想像できない跳躍力で真上に飛ぶ。近距離から放たれた火炎弾を素早い反応で回避した。そして跳躍の勢いそのまま頭を天井にぶつけながら蛇の下半身をバネのように縮ませる。
火炎弾は悪魔の背後にある壁に衝突し、大きな火の粉を八方に散らした。
火花が地面で弾けた頃には、樹流徒が前に飛び出す。悪魔が着地してくるのを狙って爪を突き出した。
それは虚しく空を切る。悪魔は空中で下半身を回転させて攻撃をすり抜けた。しかも回避運動の勢いを利用して尾の一撃を樹流徒のわき腹に見舞う。蛇の体を持つ悪魔ならではの変則的なカウンター攻撃だった。
予測不能な悪魔の反撃をまともに食らった樹流徒は、わき腹に鈍い痛みを覚えて数歩後退する。息を吸うと体の中がじんと痛んで、思わず口を小さく開いたまま吐息を漏らした。
そんな彼の反応に好機を見出したのか、悪魔が畳み掛ける。素早く地面を滑ってあっという間に両者の距離を詰めた。
樹流徒は迫り来る脅威に対して防衛本能を働かせる。敵を突き刺そうと反射的に爪を振り下ろした。
その動作を待っていたかのように、悪魔は再び宙へと逃れる。先程と比べて低い跳躍だった。そして、顎が外れてしまうのではないかというくらいの大口を開いて樹流徒に跳びかかる。樹流徒の爪が床で小さな火花を散らした時には、彼の左肩に噛み付いていた。
ひと際太くて長いニ本の牙が、樹流徒の皮膚をいとも簡単に突き破る。
悪魔はすかさず蛇の下半身を青年の上体に巻き付けた。強烈な締め付けで樹流徒の動きを封じてから、舌の先で血を啜り始める。
樹流徒はかつて無いほど恐怖した。自分のすぐ耳元に悪魔の顔があって、ピチャピチャと血を舐める音が聞こえてくる。
流石に焦った彼は、咄嗟の判断で、すぐそばに置かれているロッカーめがけて全力で突進した。上半身の身動きは封じられているが下半身の自由は残されている。自分もろとも悪魔の体をロッカーに叩きつけた。
だが、それは迂闊な行動だった。
樹流徒の体当たりを受けたロッカーニ台がガランガランと派手な音を立てて倒れる。樹流徒も一緒になって倒れ、ロッカーの上に転がった。床から舞い上がった埃の勢いが、衝撃の強さを物語っていた。
にもかかわらず、悪魔は樹流徒の体から全く離れない。離れるどころか、蛇の下半身はいっそう強烈に樹流徒の体を締め付け、口から伸びた牙もしっかりと彼の肩に食い込んでいた。
転倒した樹流徒は自力で起き上がることが出来ない。完全に身動きがとれなくなってしまった。悪魔の拘束から逃れるための攻撃が、己をますます不利な状況に追い込んでしまったのである。
圧倒的優位な体勢に持ち込んだ悪魔だが、攻撃の手を緩めようとしない。樹流徒の体を固定したまま、喉の奥から紫色の液体を吐き出した。そのいかにも毒々しい色をした液体は、先刻の唾液とは違い粘着性が無い。樹流徒の傷口にさっと零れて染み込んでゆく。
樹流徒の肩に耐え難い激痛が走った。傷口に塩を塗られた時の痛みとはこういうものなのだろうか。声にならない声が喉の奥から飛び出した。僅かにでも気を緩めれば意識を持っていかれてしまいそうだ。
樹流徒は歯を食いしばった。同時、このままでは殺される、と感じた。命の危険に反応して体内がアドレナリンを爆発させる。脳の血がふつふつと煮えたぎった。
本能的な怒りが命じるままに体が動く。樹流徒は咄嗟に口を開き、悪魔めがけて火柱を放出した。自分の肩もろとも敵の顔を焼く。
顔面を炎に包まれた悪魔は、驚いたように大きく飛び退いた。壁にぶつかってビチャリと生々しい音を立てる。
一方、樹流徒は自ら傷口を焼いたことで更なる激痛に襲われた。身悶えして、立ち上がることすらままならない。
半人半蛇の顔に燃え広がった炎はすぐに消えてしまった。
悪魔は舌を出して激しく尾を振る。火柱をまともに浴びたにもかかわらず、余り大した痛みを負っていないようだ。それでも樹流徒の攻撃を警戒しているのか、彼がまだ起き上がれない状態なのにもかかわらず、飛びかかろうとはしなかった。
そのあいだに樹流徒は体を起こす。払った代償は決して安くはなかったが、体の自由を取り戻すことに成功した。




