天使の犬
その悪魔は女性だった。
果たして悪魔に性別というものが存在するのかは不明だが、間近で見た彼女の姿は、人間の女性と酷似していた。違う点があるとすれば、肩の下まで伸びた髪が燃えるように赤いことくらいだろうか。頭上には大小の宝石を散りばめた豪華な冠を乗せ、裾がふわりと広がる漆黒のドレスを纏っていた。
彼女が腰掛けている椅子のすぐ隣には、大柄なラクダが寝そべっている。背中にはニつのコブが波打っていた。フタコブラクダだ。
こちらは客といった風ではない。悪魔の乗り物だろうか。
ラクダを連れた女性悪魔は、青白い指先を操りカクテルグラスの足を軽く傾倒させる。中に注がれた酒も動きを同期させ水面を傾けた。
彼女の周囲にはしっとりとした雰囲気が漂っている。足元の動物さえ目に入らなければ絵になりそうな光景だった。
樹流徒は、この女性悪魔が何か重要な情報を持っていることに期待して声を掛ける。
「食事中済まない。少し良いか?」
「……」
彼女は呼びかけに反応しない。沈黙を守ったままグラスの縁を口元に当てる。まるで樹流徒の存在に気付いていないみたいだった。
樹流徒は、もう一度話し掛けてみようか迷ったが、少しのあいだ音を立てず相手の反応を窺う事にする。彼女がそれを望んでいるような空気を、どことなく感じ取った。
すると、少しして悪魔がグラスの底をテーブルに着ける。顔だけをゆっくり樹流徒の方へ向けた。
「良くニンゲンを見かける店ね。アタシに何か用?」
そして艶かしい声を発する。不躾に声をかけてきたニンゲンの話を聞いてやろうか、という態度になった。
樹流徒は改めて口を開く。
「現世と魔界が繋がったのは知っているか?」
「ええ。もちろん」
女性悪魔は紫がかった唇で微笑んだ。
「それを実行したのが誰か知らないか? あと、そいつの目的も」
「残念だけど何も知らないわ。アタシ、そういうことに余り興味が無いから」
悪魔は人差し指で前髪を弄る。
彼女の足元で寝そべっているラクダが大口を開けて欠伸のような動作を見せた。
「ならば、ほかに現世に関する情報を持ってないか? あれば教えて欲しい」
「現世の情報ね……」
悪魔は瞳を閉じる。束の間、記憶を探るような仕草を見せてから「そういえば」と漏らした。何か心当たりがありそうだった。
「何か思い出したのか?」
「ええ。といっても、これはアタシのお友達から聞いた話なんだけど」
「構わない。聞かせてくれ」
「そのお友達が現世へ遊びに行ってみたら“天使の犬”と遭遇して危うく殺されかけたみたいなの。さっき魔界に逃げ帰ってきたわ」
「天使の犬?」
初めて聞く言葉だった。しかも殺されかけたとは随分穏やかではない。
「天使の犬はね。言葉通り、天使の手足となって働くニンゲンたちのことよ」
「え」
樹流徒は驚きの声を上げた。
天使が実在することに驚いたのではない。何せ悪魔がいるくらいである。彼らの対となる存在として知られる天使が存在していたとしても、容易に納得できた。
それよりも樹流徒が驚いたのは、天使に従う人間がいるという話である。天使を信奉する人間ならば世界中に大勢いるだろうが、実際天使の命令に従って活動する人間がいるなど、聞いたことがなかった。
「天使の犬というのは、組織や団体なのか?」
「ええ。悪魔を目の仇にしている、目障りな連中よ」
女性悪魔は再び髪に手を伸ばし五本の指で宙に流す。肩の辺りでふわりと広がる後ろ髪は本当に炎が燃え盛っているようであった。
「ちなみに天使の犬っていう名称は、アタシたちが勝手に付けたんだけどね。侮蔑の意味を込めて」
「じゃあ正式な組織名は?」
「忘れたわ」
女性悪魔は冷たい口調で答える。忘れたというより、知ってても口にするのが忌々しいという感じだった。
「そうか。で……天使の犬が今現世にいるんだな?」
「アタシのお友達はそう言ってたけれど」
悪魔は答えてから、カクテルを軽く口に含む。
“現世にいる”ということは、“龍城寺市内にいる”と考えても良いだろう。女性悪魔の話が本当ならば、天使の犬は市内にいることになる。
「分かった。ありがとう」
樹流徒は、最も欲しかった情報こそ入手できなかったものの、意外な話を聞くことができて多少の満足を覚えた。天使の犬という組織のメンバーに会うことができれば、何か貴重な情報を得られるかもしれない。
これで全ての客に声をかけた樹流徒は、ようやく詩織とバルバトスの元へ向かった。
「ようこそアクマクラブへ」
樹流徒が近付くと、カウンターの奥に立つバルバトスが笑みを浮かべた。彼は店内でもフードを浅く被ったままだ。その下で輝く赤い瞳が心なしか優しい形になった。
「バルバトス。新しい情報が入った」
「聞こえていた。またすぐ現世へ行くのか?」
「ああ。そのつもりだ」
「分かった。また来い」
バルバトスと簡単に言葉を交わした樹流徒は、続いてその隣に立つ詩織に声を掛ける。アンドラスと女性悪魔から入手した情報を、彼女に詳しく説明した。
詩織は真面目な顔つきになって話に耳を傾ける。
全てを聞き終えた後、彼女はすぐさま樹流徒に質問を行った。
「じゃあ相馬君はこれから村雨病院へ行くのね?」
「ああ。そこでバフォメットが何をしているのか、確かめてくる」
「それも気になるけれど、天使の犬という組織のことも気になるわね。私たちにとって味方だと考えたいけれど」
「話を聞いた限り、敵ではない気がする」
樹流徒は憶測を語る。その中には少なからず願望も込められていた。
「そう……。ところで、アナタは休まなくてもいいの?」
「多分大丈夫。伊佐木さんは?」
「私も平気」
「余り無理はするなよ」
「ええ。アナタも」
「ああ」
樹流徒は小さく頷いた。
それからカウンターに背を向けて、落ち着いた足取りで店の出口へ向かう。
客席を横切る最中、アンドラスが陽気な動きで手を振ってきた。樹流徒はひとつ頷いてそれに応える。悪魔倶楽部の雰囲気にも、現世と魔界の往復にも既に慣れた感があった。