新情報
マルティムとの鬼ごっこで想定外のタイムロスを喫した樹流徒。彼にはひとつ気がかりなことがあった。
それは、果たしてアンドラスがまだ店の中に残っているかどうか、である。図書館の前で死体の火葬を行ったこともあり、樹流徒が現世に戻ってから既に三時間半は経過している。アンドラスが店を去ってしまった可能性は高そうだった。
もしそうなったら、次にアンドラスと会えるのがいつになるか分からない。そのあいだにも、現世で何かを企んでいるという悪魔・バフォメットが目的を果たしてしまう恐れがあった。用事が済めば、バフォメットはどこか別の場所へ行ってしまうだろう。その頃になってアンドラスから情報を得ても手遅れだった。樹流徒が現世に戻ったことも骨折り損になってしまう。
しかし、その不安はタダの取り越し苦労に終わった。
樹流徒が悪魔倶楽部に戻ってみると、アンドラスはまだ客席に残っていた。彼はテーブルに頬を着いて、まるで座ったまま寝ているみたいな姿勢を取っている。
その様子を見て、樹流徒はひとまず安心した。
店内に残っているのはアンドラスだけではない。パズズの姿も見えた。獅子の頭部と二対の翼が特徴的な悪魔は、椅子の上でふんぞり返り、ワイングラス片手にどこか恍惚とした表情で天井を見上げていた。
また、樹流徒と面識の無い客が一名増えている。人間の女性と良く似た姿を持っている悪魔だ。
ほかに客はいない。
店主バルバトスは相変わらずカウンターの向こうで仁王立ちをしている。樹流徒の顔を見ると無言で微笑した。
そして、詩織はアンドラスのテーブルに置かれた皿を下げようとしているところだった。
彼女も、現世から生還した樹流徒の姿に気が付いたようだ。少し足早になって、店の奥にある扉の中へと消えたかと思ったら、またすぐに姿を現した。
皿を片付けて手ぶらになった詩織は、仕事を中断する許可をバルバトスから得て、樹流徒に歩み寄る。
二人は入り口のそばで顔を向かい合わせた。
「お帰りなさい相馬君。怪我は無い?」
「ああ。そっちは? 仕事の調子は」
「大丈夫。特に問題ないわ」
詩織はいつもの抑揚のない感じで答える。
「他に何か変わったことは?」
「そういえば、さっきバルバトスさんから私専用の鍵を貰ったの」
そう言って、詩織はポケットを探る。
中から取り出した鍵は、樹流徒が所持しているものと同じデザインをしていた。黒い矢羽を模した鍵……間違いなく悪魔倶楽部の鍵だ。
「良かったな。これで君も現世と店を自由に行き来することができる」
「ええ。だから今後アナタは自分の好きな場所で鍵を使って」
「分かった」
樹流徒は首肯してから
「それじゃ今すぐ現世に戻ろう。君の鍵はまだどこにも繋がっていない状態だろう?」
詩織を店の出口へ促す。
「そうね。お願い」
詩織の了承が得られたので、樹流徒は踵を返し、店の扉を開いた。その先にある黒い空間に鍵を差し込む。詩織と一緒に通り抜け、図書館の二階に出た。次からはお互いに自分専用の鍵を使用して、店に戻る。
「それじゃあ行きましょう」
「あ。待ってくれ。そういえば君……これ要るか?」
樹流徒は家電量販店で入手した品物が入っているビニール袋を詩織に差し出した。
「これは?」
「携帯電話の手動式充電器。僕は君が使っているメーカーを知らないからコネクターも全種持ってきた」
「貰って良いの?」
「ああ。今は通話もメールも、携帯サイトも全部利用もできないから、余り必要ないかも知れないけど」
「ううん。そんなことない。ケータイは時計がわりに使っているし、データフォルダに時々閲覧したい大切な画像も入っているから」
「そうか。じゃあ……」
樹流徒は詩織に充電器を渡す。
それからニ人は改めて各々の鍵を使って悪魔倶楽部に入店した。これにより詩織の鍵にも図書館ニ階の位置が記憶されたとこになる。
店に戻ると、詩織は一言「ありがとう」と言い、仕事に戻るべく足早にカウンターへ戻っていった。バルバトスと短い言葉を交わして、再び扉の奥へと消えてゆく。
彼女の背中を途中まで見送って、樹流徒はアンドラスの元へ急いだ。
カラス頭の悪魔は、未だテーブルの上に頬を貼り付かせ、寝ていた。瞼は半開き。クチバシは鋭角で開きっぱなし。ぼうっとしているというより、まるで心神喪失の状態だった。鼻の穴から酒臭い息が漏れている。
樹流徒が挨拶代わりに「大丈夫か?」と声をかけると、悪魔は虚ろな瞳だけをゆっくりと彼に向けた。
「よう……。キルトじゃん。オレだよ。アンドラスだよ」
「知ってる。まさか酔ってるのか?」
「酔ってないッス。オレ、アンドラス」
酔っ払っているようだった。悪魔の中にもアルコールで酔う体質の者がいるらしい。人間みたいなアンドラスの姿に、樹流徒は妙な親近感を覚えた。
ただ、このような状態ではまともに会話ができるか怪しい。樹流徒は取りあえずDVD鑑賞用の道具をテーブル上に並べてゆく。先にホラー映画を視聴する準備だけでもしておこうと考えた。
途端、アンドラスが俊敏な動きで体を起こす。円形の瞳を輝かせ、テーブル上に置かれたDVDプレーヤーをジッと見つめた。魔界に存在しない現世の文明を目の前にして、よほど好奇心を刺激されたらしい。全身が細かく震えていた。酔いなどすっかりどこかへ吹き飛んでしまったようである。
「おお! もしかしてこれがほらー映画なのか? こんな小っちゃいキカイで見れるのか?」
クチバシの奥から興奮気味のしゃがれた声が飛び出す。
「早速見るか?」
「もちろんだとも。急げキルト」
「ああ」
樹流徒はDVDのパッケージを開封する。「早く早く」と急かすアンドラスの隣で手際良く準備を進めていった。
その様子を、ニつ奥の席に座るパズズが横目でちらと窺っていた。
間もなく全ての準備が完了し、最後にプレーヤーの電源が入る。
アンドラスはいよいよ興奮していた。彼の期待感に比例するように、全身を揺らす振幅が次第に大きくなってゆく。
DVDは問題なく再生され、音と映像が流れ始めた。
映画制作会社のロゴが登場したあと、いよいよ映画本編が始まる。物語は冒頭に無人の森を映し、静かな立ち上がりを見せた。対照的にアンドラスは背中の翼を暴れさせて狂喜乱舞する。飛び散った黒い羽が、グラスの高い位置で揺れる酒の水面に舞い降りた。
樹流徒は、アンドラスの向かいに置かれている椅子を引いて静々と腰掛けた。ネズミ頭のビフロンスや、マルティムとの戦いで疲労した精神を休ませることにした。そっと瞼を下ろすと、目の奥がじわりと痺れるのを感じた。
休息に入って、しばらくすると……
―――い……
―――いやぁぁぁぁぁぁッ!
悪魔倶楽部に突如響き渡る絶叫。そして恐怖を煽る効果音。
バルバトスも、詩織も、働く手を休めて音の発生源に視線を送った。店の隅で床を舐めていたグリマルキンは驚いて駆け出し、カウンターを乗り越えてバルバトスの足下に着地する。
壁際の客席で不気味な光が点滅していた。DVDプレーヤーの四角い画面の中では、一人の女性が戦慄している。アンドラスが視聴中のホラー映画は、物語のヒロインが恐ろしい怪奇現象と初遭遇する緊迫の場面を迎えていた。
ただし、たった今店内を駆け巡った悲鳴は、映画のヒロインが発したものではない。人間の女性よりも低くて潰れた声質をしていた。
「いやああッ。もう止めてくれ」
アンドラスの叫びであった。
彼は酷く怯えている。画面の中で恐怖を演じている女優よりも余程狼狽していた。クチバシを激しく開閉し、血走った目玉を剥いている。その表情は、そこら辺のホラー映画よりもずっと恐ろしかった。
「止めるといっても、これから面白くなるところじゃないのか?」
と、樹流徒。彼が言う通り、映画はここからが見せ場だった。主人公をはじめとした登場人物たちが更なる恐怖の真っ只中に放り出されようとしているところだ。
「無理無理! 有り得ねぇぇ! 幽霊有り得ねぇ! 怖過ぎだろ」
アンドラスは狂ったように頭を色々な方向へ振るわせる。人間が首を左右に振る動作と同じだろうか。とにかくDVDの再生中断を要求した。
「実在する悪魔がフィクションの幽霊を怖がってどうする」
「いいからもう止めてくれ。吐くぞ! これ以上怖くされたらオレは吐くぞ」
「分かった。止めるよ」
樹流徒は相手の望み通りDVDを停止した。
アンドラスは心底安堵したみたく深い吐息を漏らす。
「ありがとよキルト。オレが期待した通りの……いや、それ以上の怖さだったぜ。こんなに楽しかったのは久しぶりだ」
「良かったな」
とても楽しんでいるようには見えなかったけど。と、樹流徒は心の中で付け足す。
「それにしてもニンゲンのエイゾウギジュツってヤツはオレが知ってる頃のよりも随分進歩したんだな」
アンドラスは感心しつつ、未だに荒い鼻息を整えた。
ややあって、店内の空気がすっかり落ち着ちを取り戻したところで
「え~と。それで? オマエは何が聞きたいんだっけ?」
アンドラスが樹流徒に尋ねた。
「バフォメットという悪魔の行き先が知りたい」
「ああ、そうだったな。たったいま思い出したぜ」
アンドラスは首を縦に大きく振ったあと、もう一度、今度は小さく頷く。
先刻グラスに飛び込んだ黒い羽は、酒の底に沈んでいた。
アンドラスはそれを取り除くと、グラスにクチバシを突っ込んだ。舌と喉を湿らせてから、徐に話し始める。
「バフォメットはな……“ムラサメ病院”って場所に用があるらしいぞ」
「あそこか」
樹流徒はその場所を知っていた。
“村雨病院”は、市の中心である龍城寺駅から徒歩で約1時間北上した場所にある。とても大きな病院なので、市民ならば知らぬ者は殆どいないだろう。
それにしても、悪魔が病院なんかに何の用事があるというのか? 樹流徒は漠然と嫌な予感を膨らませた。
「バフォメットは相当強いからな。ハッキリ言って近付かない方が身のためだぜ?」
アンドラスが警告する。
「いざとなったら逃げる」
「ふうん。逃げれりゃいいけどな」
「……」
嘘や脅しには聞こえなかった。アンドラスの言い方からして、バフォメットは本当に危険な悪魔なのだろう。もしかするとマモン以上の力を持っているかも知れない。
ただ、それでも樹流徒は引くつもりは無かった。バフォメットが何を企んでいるのか、確かめなければいけない。
彼はアンドラスに礼を言ってその場を離れた。
次に向かった先は、パズズの席。パズズは人間嫌いを自称する悪魔である。以前、樹流徒が話しかけたときも「失せろ」の一点張りで取り付く島もなかった。しかし、もう一度話しかけてみれば、万が一にも口を利いてくれるかも知れない。雀の涙ほどの期待を胸に、樹流徒はパズズに近付く。
先ほどまでワイングラス片手に天井を仰いでいたパズズは、両手のナイフとフォークを上手に操り魚を食べていた。カレイと良く似た丸い体つきの白身魚だ。表面には香ばしい緑色のソースが滴っている。
「パズズ。食事中すまない」
樹流徒が声をかけると、獅子頭の悪魔は手を止めた。
「すまねェと思うなら話しかけンじゃねーよ。オレ様はニンゲンがあんまり好きじゃねェんだ」
視線を皿の上に置いたままそう吐き捨て、再び両手を動かし始める。
これ以上この悪魔に話しかけても余計に怒らせるだけかも知れない。相手の反応を見て、樹流徒は早々に切り上げることにした。
それでも、パズズの人間に対する敵意が以前よりも少しだけ薄れているように感じたのは気のせいだろうか。声色も心なしか以前より柔らかい気がした。
直後、獅子の鋭い眼光が樹流徒の顔を射抜く。人間への敵意に満ちた目だった。前回とまるで変わっていない。
樹流徒は「やはり気のせいかも知れない」と思い直して、静かにその場を後にした。
店内にはまだ声を掛けていない客がいる。その悪魔に話を聞くため、今度はそちらへ向かった。