一勝二敗
樹流徒が手に持っていたゲーム機には、レースゲームのソフトが入っていた。
レースゲームとは、その名からも想像がつく通り、プレーヤーが乗り物を操作してレースコースを駆け抜け、ライバル相手に順位やタイムなどを競うことを主な目的としたゲームである。乗り物の種類はスポーツカー、バイク、ボートなど、ゲームによって様々だ。
ゲームの対戦相手は全てコンピュータが動かしてくれるが、近年ではゲーム機の通信機能などを利用してプレーヤー同士で対戦できる作品が多い。ゲーム機の本体が沢山あれば複数のプレーヤーが一緒に遊べるのだ。携帯型ゲーム機の場合は、ソフトが複数必要なこともあれば、一つだけで遊べる場合もある。
これから樹流徒たちが勝負するゲームは、ソフト一本だけで通信対戦ができるタイプだった。
そして、いま樹流徒たちがいるゲーム体験コーナーには、同じゲーム機の本体がいくつか置いてある。樹流徒と少年が通信対戦をしたければ可能な環境だった。
しかし、樹流徒は通信対戦を避け、タイムアタックでの勝負を望んだ。
大抵のレースゲームにはタイムアタック(もしくはスピードラン)と呼ばれるモードが搭載されている。これは、数あるコースの中から好きな場所を選択して自己最速タイムを目指すという、本来プレーヤーが一人で遊ぶための機能である。
樹流徒は、そのタイムアタックでの対戦を要求した。時間の許す限り一つの同じコースを交互にプレイして、最終的に最も速いタイムを叩き出したほうが勝者となる……という形式を希望する。一見どうでも良さそうな要求だが、勝つためには絶対にこれを通さなければいけなかった。
どうか相手がこちらの意図に気付かないように。
樹流徒が祈っていると……
「お兄ちゃんの好きにすればいいよ。それより早く始めよう」
少年から色よい返事がきた。まさかゲームモードの選択に重要な意味があるとは考えなかったのだろう。細かい話などどうでもいいから、一刻も早くゲームがしたいという気持ちもあったに違いない。
樹流徒は相手の要望に応えた。少年が手に持っているゲーム機に手を伸ばして、電源を入れる。
何も映っていない画面に絵が現れると、少年は椅子の上で足をバタバタさせて喜んだ。
勝負を始める前に、少年には三十分の練習時間が与えられる。無論この時間経過も鬼ごっこの残り時間には影響しない。
少年はゲームを始めると忽ち心を奪われた様子だった。画面の中で疾駆するマシンを一心不乱に操っている。その姿は本当にタダの子供みたいだった。
かと思いきや、時折悪戯な笑みで樹流徒の顔を見上げ「警戒は欠かしていない」とアピールするあたり、やはり悪魔である。
魔空間の片隅でゲームに熱を上げる悪魔と、その様子を傍観する人間……一種異様な時間が過ぎてゆく。
少年は、ゲーム機に触れるのは今回が初めてらしいが、恐ろしく飲み込みが早かった。
樹流徒は決してゲームが得意な人間ではないものの、多少の心得はある。その彼から見ても相手の腕は天才的だった。
「もういいや。勝負始めようか」
少年は練習時間を十分以上も残してゲーム機を置く。このとき既に、樹流徒はレースゲームでは相手に敵わないことを察していた。
準備が整い、いよいよ勝負が始まる。同時に、しばらくのあいだ停止していた鬼ごっこの残り時間二十分が削られ始めた。
少年は余程ゲームの腕に自信を持ったのか、タイムアタックに使用するコース、それから先攻・後攻、すべての選択権を樹流徒に譲る。
樹流徒は遠慮なく権利を受け取った。
対戦コースは、初心者用の一番簡単なものを選択する。走りやすく距離が短いのが特徴である。また、樹流徒が一番まともなタイムを出せそうなコースでもあった。
このコースを選んだ理由は、レースゲームで勝つためではない。少しでも接戦を演じて少年をゲームに熱中させるためであり、ひいては鬼ごっこで勝利を挙げるためであった。
先攻は樹流徒。彼はかつてこれほどまで真剣にゲームを遊んだことはなかった。また、することになるとは夢にも思っていなかった。断崖絶壁の道路でチキンレースをするかのような心地でゲーム機を握る。手には、じわりと薄い汗が滲んだ。
ゲーム開始から早くも十分程度が経過。
初心者用のコースは距離が短いため、必然的に一回のプレイタイムも短くなる。ゲーム機が二人のあいだをせわしなく往復した。
これまでの最速タイムを記録しているのは少年。それでも樹流徒は善戦していた。相手を楽しませるのに十分な成績を残している。
接戦になれば、勝負は自然と盛り上がった。二人は、自分がプレイする番が回ってくるたびに相手の手からゲーム機を奪い取る。それほどの白熱ぶりだった。もっとも、樹流徒の興奮は演技である。
そして迎えた少年四回目のタイムアタック。
樹流徒は少年の後ろに立って、相手の背中越しにゲーム画面を覗く。これまでも少年がプレイしている最中は同じようにしていたため、ごく自然な振る舞いだった。
よもや、この何気ない位置取りが樹流徒の狙いであることを、相手は知る由もないだろう。
少年はすっかりゲームの虜になっている。新ルールの存在もあって、樹流徒の動きを警戒する素振りは欠片も無い。
このときが来るのを待っていた。にわかに弛緩した空気が流れ始めたいまこそが、樹流徒が勝負を仕掛けるまたとない好機だった。
樹流徒は静かに息を飲む。
頭の中で「今だ!」と叫んだ。もしかしたら口でも叫んでいたかも知れない。同時に両腕を飛ばして少年の肩をしっかりと掴んだ。
しかし少年は動じない。後ろを振り向きもしれなければ、驚く様子もなかった。
「どうしたの? ゲームの妨害? それともまさか自分が作った新ルールの存在を忘れちゃったわけじゃないよね?」
そう言って、変わらずディスプレイに目を落とし余裕の笑みを浮かべる。
樹流徒は答えなかった。無言で少年の後頭部を見据えたまま、そっと口を開く。
何かを感じ取ったのか、少年の腕が微動した。
次の刹那。樹流徒の口から火柱が放たれる。荒ぶる炎が、瞬きする暇すら与えず少年の全身を包み込んだ。
ゴウゴウと音を鳴らして赤々と輝く光は、鬼火の明かりをかき消す。その光景を凝視する樹流徒の瞳にも炎が宿った。
空間が元の明るさを取り戻したとき、少年はその場から忽然と姿を消していた。火柱を浴びて一部溶けた椅子と、少年の手からこぼれて床に落下したゲーム機だけが残されている。
ただ、悪魔の死亡時に現れる赤黒い光の粒が存在しないのを見る限り、少年はまだ生きていた。
――なにするんだよ! ボクを殺す気だったのか?
と、間もなくどこからか少年の声が響く。今までとはうって変わって、不機嫌そうな口調だった。今にも飛び掛って来そうなくらい怒っている。
かたや樹流徒も一か八かの勝負を終えた直後だけあって、少なからず興奮していた。
彼はひとつ深い息を吸って、抑えた声色で少年に告げる。
「僕の勝ちだな」
――は? なにそれ?
「“瞬間移動を使ったらお前の負け”というルールだろう」
――あっ!
少年はしまったといった感じの声を発する。
が、即座に反論を行う。
――ちょっと待ってよ。ボクを拘束しないって約束したよね。お兄ちゃんは炎を吐いた時にボクの肩を掴んでたじゃないか。アレは拘束だよ。先にルール違反をしたのはソッチだ。
「確かに僕は“十五分後(後に少年の提案で二十分後に変更)にはお前を心身共に一切拘束していない状態にする”と約束した。だがゲームの最中もずっと拘束しないとは、一言も言ってない」
――そんなのズルいよ! 屁理屈だ!
「でも、嘘はついてない」
――う~ん……。くそ~。
少年が唸る。
樹流徒には、彼が頭を抱えて悔しがる様子が簡単に想像できた。
それから声が途絶えて数秒の後……
――あ~あ。まあいっか。今回は素直に負けを認めてあげるよ。
少年が折れた。
彼は瞬間移動で樹流徒の前に姿を現す。その表情は明るかった。
「いや~。まさか自分で作った特別ルールに足下すくわれちゃうなんてね」
少年は少し照れくさそうに笑って、人差し指で頬を掻いた。
「お前がゲームに興味を持ってくれなければ、間違いなく僕が負けていたな」
「そうだね。でもまさかお兄ちゃんが炎を吐くとは思わなかったよ。もしかして本気でボクを殺す気だった?」
「いや。お前の反射神経なら必ず瞬間移動で逃げてくれると踏んでいた」
「ホントかな~?」
少年は笑顔で小首を傾げる。
どうも疑われているようだが、樹流徒の言葉は本音だった。
樹流徒が最初に仕掛けた奇襲作戦をかわしたように、少年は凄まじい反射神経を持っていた。もし、少年が拘束された状態から攻撃を受ければ、必ず瞬間移動で逃げてくれる。と、樹流徒は信じていた。
それに、少年の並外れた反射神経と敏捷性を認めていたからこそ、樹流徒はわざわざ少年の背後に回りこむ必要があったのだ。
たとえゲームに熱中している最中でも、少年を捕まえるのは難しい。下手に捕まえようとすれば逃げられてしまう。樹流徒が確実に相手を拘束するには、かなり近い距離から手を出すしかなかった。その上で相手の視覚の外から攻撃できればもっと良い。
結果、樹流徒が考えたのは“少年のゲームプレイングを後ろから覗き込む行為”だった。それならば相手の背後に接近しても不自然ではないし、手を伸ばせば確実に捕まえられる。
ただ、それを実行するには、ゲームを交互に遊ぶ必要があった。通信対戦の場合だと二人で一緒にゲームをすることになるので、少年の背後に回り込むチャンスが無い。かといって、ゲームをしながら少年の後ろに移動するのはあまりにも不自然だ。
そのため、樹流徒はタイムアタックを提案した。本来一人で遊ぶためのゲームモードを、あえて二人の勝負に選択した。
この事実に少年が気付く日は来るのだろうか。
ともあれ、恐怖の鬼ごっこは終わった。
「ま、いいや。鬼ごっこではソッチの勝ちだね」
少年はどこか含みのありそうな物言いをする。
「じゃあ、約束通り外に出してもらえるな?」
樹流徒が尋ねると
「もちろんさ」
少年はパキンと指を鳴らした。
窓ガラスが一斉に元の透明色を取り戻し、鬼火が消えてゆく。魔空間は瞬時に家電量販店の建物内に切り替わった。
樹流徒はその場景を目にして、ようやく胸を撫で下ろすことができた。窓から射しこむ光がやけに明るく見えた。
すると、そんな彼の様子を見て、少年がニヤリとする。
「あ、そうそう。そういえばボク、お兄ちゃんにひとつだけウソついてたんだよね」
いま思い出したように言った。
「嘘?」
「うん。ジツは、魔空間を維持するためには空間を作った本人もその中に存在してなきゃいけないんだよ。例外なくね」
「……」
樹流徒は微かに眉を寄せる。一体、少年が何を言いたいのか、いまひとつ要領が掴めなかった。
「つまりね。お兄ちゃんを閉じ込めておくためには、そのあいだずっとボクも魔空間の中に閉じこもってなきゃいけないってワケ」
少年は表現を変えて同じことを説明する。
それで樹流徒はようやく相手の言葉の意味を理解した。
「じゃあ、もしかして、僕が負けたら一生ここから出られないというのは……」
「うん。あれウソ。だってボク、お兄ちゃんが死ぬまでずっと魔空間の中で待ってるなんて退屈過ぎてムリだもん。かといってボクの手で殺すのもメンドーだしさー」
「何故そんな嘘をついた?」
「そんなの……お兄ちゃんに鬼ごっこで本気出させるために決まってるじゃん。ソッチが負けて泣き出したところでタネ明かししてあげようと思ってたんだけどね」
少年は口の両端を更に持ち上げて今までで一番嬉しそうな表情になる。
怒り。呆れ。そして感心。樹流徒は複雑な気持ちに襲われて、寸秒口を閉ざした。それから
「鬼ごっこでは僕が勝ったけど、レースゲームと騙し合いではお前の勝ちだな。僕の一勝ニ敗だ」
そう言って微苦笑した。合わせて少年も朗らかに笑う。
「あ、そうだ。ところでお兄ちゃんの名前は? 最初興味ないから聞かなかったけど、今ならチョット知りたいな」
「樹流徒。お前は?」
「ボクは“マルティム”」
「マルティムか……」
「じゃあねキルト。楽しかったよ。もしどこかで会ったらまた遊んでねー」
少年の姿をした悪魔・マルティムは、最後に無邪気な笑い声を残して忽然と姿を消す。アッサリした別れだった。
その後、樹流徒はアンドラスにホラー映画を見せるために必要な道具を回収した。
途中、不意に携帯電話の手動式充電器が目に入って、もしかしたら詩織が使うかもしれないと考え、それも拝借する。
必要なものが揃ったので出口へ。
すると、樹流徒が自動ドアに近付いたと同時、扉が勝手に動き出した。左右に割れたドアは開きっぱなしのまま停止する。
マルティムが最後にささかなサービスをしてくれたらしい。
「ありがとう」
樹流徒は頭上に向かってお礼を言う。
返事は無かった。




