試合放棄
樹流徒の奇襲作戦が失敗してから十分が過ぎ、三十分が過ぎ……。
脱出不可能な空間の中で、たったニ人の鬼ごっこは続いていた。
ゲーム終了までの残り時間は着実に削られてゆく。樹流徒は大なり小なり焦りを感じ始めていた。
一方で、奇襲作戦が失敗したことへの落胆は余り無い。落胆している場合ではない、と言った方が正しいかも知れなかった。ただでさえ手強い敵が、警戒心を増したせいで一層厄介な相手になってしまったのだ。気落ちしている暇があったら、少年を捕まえるための新しい策を見つけなければいけなかった。
ただ、その新しい策を見つけるのが非常に困難だった。
奇襲作戦が失敗したすぐあと、樹流徒は次の手段として、物陰に身を潜ませながら音もなく敵に接近する作戦に出た。作戦と呼ぶにしては単純な手だが、相手に通用するならば何だって構わない。上手くいけば少年に気付かれず接近できるかも知れないし、待ち伏せする形に持っていけるかも知れなかった。
が、淡い期待を込めて実行に移したその作戦は、ただの徒労に終わった。
たとえ樹流徒がどれだけ息を止めて足音を殺しても、また、たとえ彼がどこに隠れようとも、少年は瞬時に樹流徒の居場所を特定できたのだ。まるで建物内全体の状況を常に把握しているかのようだった。
何故そのようなことができるのか、樹流徒には分からない。少年には並外れた聴覚や嗅覚があるのかも知れないし、他の能力を隠し持っているのかも知れなかった。魔空間の影響という可能性も有り得るだろう。ただ、いずれにせよ樹流徒の思惑は完全に外れた。
機動力では勝てず、不意打ちも、待ち伏せも通用しない。そのような相手を果たしてどうやって捕まえればいいのか。新しい策が見付かる気がしなかった。時間的にはまだそれなりの余裕がありながら、樹流徒は追い詰められていた。
少年は持ち前の運動能力と、念動力を駆使して、樹流徒の追跡をことごとくかわす。今や樹流徒の実力を見切った感すらあり、表面上は警戒心が薄らいでいる様子だった。ただ、最初の奇襲を受けてからというもの、二度と過度な気の緩みは見せない。ある程度樹流徒が近付くと、必ず逃げてしまうのだった。
「鬼さん、こっち、こっち」
小さな体が縦横無尽に店内を駆け回る。サーカスの綱渡りみたく廊下の手すりの上を走ったかと思えば、物が散乱した通路ででロンダートからのバック転を繰り出した。
樹流徒は、無意味なのを承知で追う。決して追いつけない相手の背中めがけて走りながら、必死に頭を絞った。普通に勝負しても勝ち目は無い。たとえ良い策が思い浮かばなくても、諦めずに最後まで考え続けるしかない。結局、それ以外に勝つ方法はないのだ。
果たしてその諦めない気持ちが何かを引き寄せたのか、思わぬタイミングで転機が訪れた。
ひらすら相手の背中を追い続ける樹流徒に向かって、少年はふと退屈そうな顔をする。
「お兄ちゃん。まさかこのまま終わりじゃないよね? 折角シュンカンイドウ禁止のハンディをあげたんだから、もうちょっと善戦してほしいな」
それは挑発であると同時に、樹流徒の奮闘を促す言葉に違いなかった。「最初の奇襲みたく、もっとボクを驚かせるようなことをしてよ」という、要求とも言える。
それ以外の意味はきっと無かった。
ところが、この少年の挑発が、次の刹那、樹流徒にある閃きをもたらす。
“瞬間移動禁止というハンディ”。この言葉がヒントになった。
そもそも今回の鬼ごっこ……相手を捕まえる必要があるのだろうか。それに樹流徒は気付いた。“相手を捕まえるのが不可能ならば、別の方法で勝てばいい”という観点に至ったのだ。
ゲーム開始から間もなく一時間になる。制限時間まで残り半分。
ここで、樹流徒は足を止めた。少年を追いかけるのを中止し、それどころか彼に背を向けて歩き出す。自ら相手との距離を開いてゆく。
「あれ? どこ行くの?」
少年は振り返って鬼の背に声を投げ掛ける。
それを無視して、樹流徒は脇目も振らず歩いた。エスカレーターの前に着くと階段を上ってゆく。
少年は小首をかしげ「何か企んでるのかな?」と、独り言を呟いた。
相手の追跡を放棄して、樹流徒が向かった先は五階だった。そこはCDやゲームが販売されているコーナー。ゲーム売買を主な目的としてこの店に来る樹流徒にとっては、店内で最も勝手を知っている場所だった。
入り口の正面にはレジが見える。左右に広がったスペースには棚が整然と並び、中に各種メディアが収納されていた。また右手奥には携帯型ゲーム機の体験スペースが設けられている。
樹流徒は、ゲーム体験スペースに足を向けた。そこには長机がニ脚並び、新機種のゲーム機が幾つか置かれている。また、各机には椅子が三脚ずつ設置されていた。
樹流徒はゲーム機を手に取って電源を入れる。バッテリー残量を見ると、画面の隅に89%と表示された。まだしばらくの時間使えそうだ。
確認が済んだので、椅子に深く腰掛け、そのままゲームを遊び始めた。
――ちょっと、何してるの? もしかして諦めちゃった?
少しして、樹流徒の頭上から少年の声が響く。本人の姿は見えなかった。
「鬼ごっこに飽きた」
樹流徒はゲーム機を操りながら答える。
――え~? どうして?
「お前は確か、ゲームは五分五分に近いほど面白いと言ったな?」
――うん。言ったけど……。
「この鬼ごっこのどこが互角だ? お前の言う通り、確かに瞬間移動禁止というハンディはもらった。でも、まだお前の方が圧倒的に有利じゃないか。だから僕はもう飽きた」
――そんなぁ。もうちょっとやる気出してよ。お兄ちゃんがそんな調子じゃコッチもつまんないじゃん。
「飽きてしまったんだから仕方ないだろう。だから僕はしばらくここで遊ぶことにする」
――そんなこと言って、本当はボクをおびき出すための作戦なんじゃないの?
樹流徒は少年の声を聞き流してしてゲームを続ける。その態度とは裏腹に、内心では相手がどのような反応を見せるか気が気ではなかった。もし少年が時間切れまでずっと様子見を続けようものなら、樹流徒は負ける。
これは一種の我慢比べだった。現状に耐え切れず先に動いた方が不利となる。とはいえ状況は互角ではない。少年側が完全に有利なことは言うまでも無かった。少年はこのあと樹流徒に近付きさえしなければ、確実に勝てるのだ。
無論、そのことは樹流徒も承知していた。承知した上で尚、このような賭けに出たのは、相手が先に動くと信じているからである。なぜなら、少年は勝負に勝つことを目的としていない。あくまでゲームを楽しむことを望みとしている。だからきっとこの状況が続けば何かしら行動を起こすはず。樹流徒は確信していた。
――あのさ~。忘れちゃったの? 二時間以内にボクを捕まえなきゃお兄ちゃん一生ここから出れないんだよ?
少年は樹流徒の不安を煽る。
「いいんじゃないか?この中でのんびり生涯を終えるのも悪くない」
――ボクがそんな見え透いたウソに引っかかると思うの?
「嘘なんかじゃない。とにかく僕はこっちのゲームに集中したいから、危害を加えるのだけはやめてくれ」
樹流徒は微笑して悠々とゲーム機を弄り続ける。心臓は不安と緊張で嫌な音を立てていた。
それからどのくらいの時が経っただろうか。
寂しげな空間の一角で、電子音が鳴り続けていた。樹流徒は未だ鬼ごっこそっちのけでゲーム機とにらめっこをしている。壁際に並ぶ鬼火の色とは対照的に、ディスプレイは青白い光をぼんやりと放っていた。樹流徒はその光からひと時も目を離さない。少年の存在を完全に忘れ去ってしまったかのように没頭していた。実際は没頭しているフリなのだが、なかなかの演技だった。
――おーい。あと三十分で二時間だよ。ボクの勝ちになっちゃうよ。
かたや、少年は樹流徒にやる気を出させようと、ひたすら彼を挑発し、煽っていた。だが暖簾に腕押し。樹流徒はその場をまったく動こうとしない。
この妙な我慢比べは、さらにもう少しのあいだ続いた。
ようやく事態が動いたのは、樹流徒の焦りがあと少しで限界に達しようとしていた、そのときだった。
「ホラお兄ちゃん。ボクはここだよ」
突然、少年がゲーム売り場に姿を現す。いつまで経っても鬼が動こうとしないので、とうとう痺れを切らせたのだろう。
狙い通りの展開に、樹流徒は「よし」と叫びたい衝動を抑えた。感情を顔や動作に表さないように気をつける。少年の姿を視界に入れず、椅子に腰掛けたまま眼下の四角い画面を凝視しボタンを押し続ける。その状態のまま
「お前もこっちに来て一緒にやらないか? 面白いぞ」
少年を誘った。
「でもボクが近付いたら捕まえる気なんでしょ? 魂胆がミエミエ過ぎて、引っかかるフリをしてあげる気にもならないよ」
「別にそんなつもりはないんだけどな」
「ま、お兄ちゃんが何を企んでても構わないけどね。それでもボクは絶対に捕まらない自信あるし」
今度は少年が樹流徒を挑発した。
それを無言で受け流し、樹流徒は次の動きを見せる。一旦ゲーム機の電源を落とすと、顔を上げて少年と視線を合わせた。続いて徐に口を開く。
「じゃあ、ひとつ“新しいルール”を作らないか?」
至極落ち着いた口調でそう言った。