演技
樹流徒がカウントを数えているあいだ、少年は階段を駆け上がっていた。
身軽な動きであっという間に二階、三階を通過すると、四階に到着したところで立ち止まる。そしてエスカレーターの手すりに腰掛けて、鬼ごっこの鬼が追いかけてくるのを悠長に待ち構えた。
ほぼ真下にいる樹流徒は、一度だけ頭上を仰いで少年の位置を確認した。相手はかなりすばしっこい。少年が階段を上ってゆく様子を見たとき、普通に捕まえるのは難しいと分かった。悪魔相手ではスタミナ切れに期待するのも無理だろう。何か、手を打つ必要があった。
樹流徒は少年を追って階段を上る。ただし、本気は出さない。あたかも全力疾走しているかのように演技をして、走る速度をかなり抑えた。一般男子高生が必死に走る程度のスピードに調節する。
実は、これこそ樹流徒が打った手だった。
少年は、樹流徒のことを“タダのニンゲン”と認識している。樹流徒が常人を超えた身体能力の持ち主であることをまだ知らない。
そこにつけ込めないだろうか、と樹流徒は考えた。「ニンゲン相手なら大丈夫だろう」と悪魔が高をくくって油断したところを狙う。隠しておいた力で不意打ちを食らわせ、相手が驚いている内に捕まえてしまう……という作戦だ。
思いついたのは、カウントダウンをしている最中だった。樹流徒が走り始める前から、既に勝負は始まっていたのである。
この作戦に不安要素があるとすれば、一発勝負という点だろう。ひとたび隠した力を見せてしまえば、もう二度と同じ手は通用しない。失敗は許されなかった。決行するタイミングを誤れば全てが水泡と帰す。
樹流徒は、全力で駆けるフリをすることに全力を注いだ。悪魔に演技を見破られてはならない。力を隠していることを悟られてはいけない。
そのようなことを考えている内、気付け三階のすぐ手前まで到達していた。
少年はまだ手すりに座っている。「鬼さん、はやくしてよね」と嬉しそうに樹流徒を呼んでいた。
その明らかに油断しきった態度は、樹流徒にとって都合が良かった。相手が油断してくれればしてくれるほど、作戦は成功しやすくなる。
相手の様子を見る限り、案外すぐに勝負がつくかも知れない。
樹流徒が事態を楽観しかけた、そのとき。
突然、彼の足元ががくりと揺れた。エスカレーターが急に下へ向かって流れ始めのだ。
虚を突かれた樹流徒は、体のバランスを失って後方へ転倒しそうになる。しかし咄嗟に手すりを掴んで持ちこたえた。そのままの姿勢で下へ下へと戻される。
エスカレーターはモーター音も鳴らさず不気味に動いていた。こんな現象を起こせるのは悪魔しかいない。
「ボクもただ逃げ回ってばかりじゃ面白くないからね」
少年は手すりに腰を下ろしたまま、宙に投げ出した両足で振り子の動きをする。鬼の慌てふためく様子を楽しそうに見物していた。
樹流徒は体勢を立て直しながら、このゲームを楽観視しようとしていた自分が甘かったことに気付く。少年は想像以上に厄介な相手だった。
恐らく、少年は“念動力”に類する力を持っている。念動力とは、その名が示す通り“思念の力だけで物体を動かす能力”である。瞬間移動もそうだが、俗に超能力と呼ばれている力の一種だ。
樹流徒が店に入ってすぐ自動ドアが勝手に閉まったのも、今回エスカレーターが勝手に動いたのも、きっと、念動力のような特殊能力が起こした現象だったに違いない。
少年は外見こそか弱そうな子供の姿をしてはいるが、少なくとも“魔空間の発生”“瞬間移動”そして“念動力”という3つの能力を扱える。樹流徒が今までに出会ってきた悪魔の中でも強力かつ異質な力を操る恐ろしい相手だった。
そう考えると、勝負の内容が命の奪い合いなどではなく、鬼ごっこだったのは、不幸中の幸いだったのかも知れない。
下に戻された樹流徒は、階段の流れに逆らって今度こそ3階に到着した。
息つく間もなく、前方より黒い板状の物体が飛来してくる。テレビだった。少年の念動力に操られた薄型テレビが、目にも止まらぬ速さで樹流徒の頭部を襲う。
樹流徒は反射的に全身を伏せて回避行動を取った。
テレビは扇風機みたく高速回転しながら彼の上を通過する。先にある壁に激突した。派手な音と共にディスプレイの破片やその他もろもろの部品を飛び散らせる。最後は無残な姿になって落下した。
樹流徒は肝を冷やす。もし今の攻撃をまともに受けていたら、と想像して息を飲んだ。
「あ~あ、残念。もうチョットでお兄ちゃんのアタマ吹っ飛んでたのに」
悪魔が平然と恐ろしい事を口走る。
「鬼ごっこには、鬼を攻撃しても良いなんてルールは無いぞ」
「あはは。ゴメンゴメン。今みたいなのはなるべく控えるからさ。そう怒んないでよ」
「冗談じゃない……」
このままの調子で勝負を続けていたら、少年を捕まえる前にうっかり殺されかねない。
樹流徒は三階の壁際に駆け寄り、黒く染まった窓の前に立った。ガラスを砕いて魔空間から抜け出そうと試みる。
ある程度力を込めた拳を叩きつけてみた。手応えからして普通ではなかった。漆黒の窓は分厚い鉛板のように硬い。渾身の一打を見舞っても破壊するのは無理そうだった。
ならば、と今度は悪魔倶楽部の鍵を試してみる。無駄なあがきだった。ガラスに鍵が刺さらない。
「ムダだってば。ココからは出れないって言ったでしょ。諦めてゲームの続きを楽しもうよ」
と、少年。
残念ながら、樹流徒は相手の言葉に従うしかなかった。
鬼ごっこで勝つ以外脱出する方法がないと証明された今、何がなんでも時間内に少年を捕まえなければならない。
樹流徒は再びエスカレーターを駆け上がる。勿論、全力疾走しているように見せかける演技は忘れていなかった。作戦はまだ続行中である。
四階に到着すると、少年は廊下の真ん中で体を横にして寝そべっていた。
「早く。早く。ボクはここだよ」
と、樹流徒に向かって手を振る。それから一度仰向けに寝転がって、首跳ね起き(両手を床に突き、首と肩で全身を支え、体のバネを利用して跳ね起きる技。ネックスプリングとも呼ばれる)を披露した。それから尻や膝の埃を払う動作を見せる。明らかに挑発していた。
樹流徒は冷静さを保って相手の挙動や表情に注意を払う。お互いの距離が大分縮まったにもかかわらず、少年はまるで警戒していないように見えた。
早くも勝負を仕掛ける好機が訪れたかも知れない。今ならエスカレーターの上と違って足場が動く心配もなかった。あとは作戦を決行するか、次の機会を待つか、決めるだけだ。
慎重な足取りで少年に近付きながら、奇襲のタイミングを測る。樹流徒は、まるで自分が獲物を狙う肉食動物にでもなったような気分だった。獲物を捕獲できなければ自分の命に関わる点など、まさにそのものだ。肉食動物は獲物を捕まえなければやがて飢え死んでしまうし、樹流徒は少年を捕まえなければ永遠に魔空間の中に閉じ込められてしまう。樹流徒の場合飢え死にの心配は無いかも知れないが、その内精神が破壊されてしまうだろう。
そんなのは御免だった。絶対に少年を捕まえて、この空間から出なければいけない。
樹流徒は今、まさに命がけの狩りをしていた。
互いの距離が縮まってくる。十五メートル前後まで近付くと、少年はようやく身構えた。しかし逃げる素振りは見せない。
十メートル……とうとう五メートル。お互いの細かな表情が目視できる位置にまで近付いた。
少年は大胆だった。相手をタダの人間だと思い込んでいるにしても接近を許し過ぎだった。
樹流徒は音もなく息を吸い込む。肺胞を緩やかに膨らませながら、作戦を実行しようと決意した。
そして次の瞬間、彼は体内から一気に鋭い息を吐き出す。同時、後ろ足で力の限り地面を蹴った。全身が鉄砲玉の如く飛び出す。勢いで髪が天を衝いた。
少年は「わっ」と目を丸くする。いきなり凄まじい速さで迫ってきた鬼から逃れるべく、横っ飛びをした。その機敏な身のこなしと反応速度は、奇襲を仕掛けた樹流徒を逆に一驚させる。
逃がすわけにはいかない。樹流徒は、逃げる獲物を追う。腕を、肘を、指を、めいっぱい伸ばした。肩が外れてしまうのではないかというほど力を込めた。
だが、無情にも獲物まで少し届かない。少年の素早さは樹流徒の予想を幾分超えていた。
それでも樹流徒は諦めない。彼が隠しているのは身体能力だけではなかった。まだ、悪魔の能力が残っている。指先から悪魔の爪を伸ばし、リーチを長くした。それにより少年が逃げ切ったかに見えた勝負の行方は、一変して際どくなる。
いける! 樹流徒の直感が告げた。
少年の顔から余裕の笑みは消えている。驚いた表情のまま、歯を食いしばっていた。
勝負は本当に一瞬だった。そして紙一重だった。
樹流徒の指先には微かな手応えもなかった。爪が届くまであとあと2、3ミリ。たったそれだけあれば、彼の爪は少年の服をかすめていたであろう。
失敗である。樹流徒の策は惜しくも、文字通り空振った。
ただ、落胆している暇は無い。本来の狙いは外れてしまったが、樹流徒にはまだ追撃のチャンスが残されていた。
焦って跳躍した少年は、逃げる方向まで選ぶ余裕が無かったのだろう、樹流徒の一撃をかわしたまでは良かったが、そのまま商品を展示している台に突っ込んだのである。衝撃で台に乗っていたノートパソコンが床に落下した。
樹流徒はこの事態に素早く反応する。即座に敵めがけ再突撃した。見れば、少年は台にもたれかかり観念したように目を瞑っている。
樹流徒は今度こそ勝利を確信した。あとは腕を伸ばすだけで、このゲームが終わる。
ところが、すっかり諦めたように見えた少年の瞳が、ぱっと見開かれる。
かと思えば、樹流徒の耳にガツンという硬い音が聞こえた。同時に目の前が真っ暗になる。
突然の状況に、樹流徒は我知らず立ち止まり、一歩後退した。あと少し相手を捕えようとしていたのに、いきなり目の前で幕が下りたかのように視界が塞がっていた。
確か、以前にも、似たような状況があった。図書館で戦ったビフロンスという悪魔からカウンター攻撃を受けたときの記憶が、樹流徒の脳裏に蘇る。
少年は無邪気な笑みを取り戻していた。目には目を歯に歯を。そして演技には演技を。彼は、追い詰められたフリをしつつ、念動力を使って床に落ちていたノートパソコンを飛ばしていた。それが見事に樹流徒の無防備な顔面を捉えたのだ。
初めから全て狙っていたのか、或いは咄嗟の思い付きだったのか、それは本人しか分からない。
樹流徒は、己の顔面に貼り付いていたパソコンが落下した音で、全てを理解した。そのときにはもう悪魔は安全な距離を確保していた。
一連の際どい攻防に決着がついて、両者は向かい合う。
「あぶなかった~! お兄ちゃん走るの速いね。それに悪魔みたいな爪も持ってるしさ。ホントにニンゲンなの?」
少年はやや興奮気味に言葉を連ねる。言い終えてからさりげなく数歩下がって、樹流徒との距離を広げた。先程までとはうって変わって警戒心を覗かせる。
樹流徒にとっては最悪のシナリオだった。もう同じ作戦は使えない。加えて相手の油断を完全に払拭してしまった。