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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
新創世記編
359/359

君の物語



 魔壕の某所にある背信街は、ベルゼブブと反乱軍の衝突による被害で未だに荒廃していた。

 街の住人たちによる精力的な活動のおかげで瓦礫撤去こそ戦闘の数日後には完了したが、損壊した建物はほとんどが現在もそのままになっている。


 街の中心にそびえ立つ巨城イース・ガリアも、つい三日前まで天井が無い状態だった。

 イース・ガリアは背信街のシンボルと言っても良い建物である。それが壊れたままでは格好がつかないし、どうも気持ちが締まらない、というのが街の住人たちの総意であった。魔界で最も文明レベルの高い魔壕の住人たちの美意識がそう思わせたのだろう。


 従って聖魔戦争後に行なわれた街の復旧作業では、イース・ガリアの修繕が最優先事項となった。

 作業はかなり大掛かりなものとなったが、魔壕に在住する優れた建築士と、高所でも地上と同じように作業できる飛行能力持ちの悪魔の存在が、工期を大幅に短縮した。彼らの体力に限界がない事と、彼らの作業が時間や天候にほとんど左右されないのも、工事が順調に進んだ大きな要因となった。

 そして背信街のシンボルは無事に元の姿を取り戻したのである。


 イース・ガリアの最上階はかつて皇帝ベルゼブブの私室だった。その内装は一言で表現すれば「巨大プラネタリウム」であり、床や壁や天井の至る場所に星々の光が浮かぶ神秘的な空間だった。また呆れるほど広い床の上には物がほとんど置かれていなかった。あるものといえば下階へと続く階段と、最奥にある円形の広場に架かった橋くらいだ。


 しかしその広大かつ閑寂とした空間は、現在かなり様変わりしていた。

 見渡せば空間のあちこちに円形の脚長テーブルが置かれている。決して大きなテーブルではないが、数は優に百を超えていた。全てのテーブルには白いクロスが敷かれ、三又蜀台やボトルグラス、そして今は空になっているが料理が盛られていたであろう皿が所狭しと並べてある。

 天蓋からは巨大なシャンデリアが幾十も吊るされ、火の消えたロウソクを沢山乗せていた。


 実はつい数時間前まで、この場所では派手なパーティーが催されていた。

 一体何のパーティーかはひとまず置いておくとして、実に数千もの悪魔がこのイース・ガリア最上階に集まって、一晩中飲んで食べて陽気に歌い続けていたのである。


 テーブルもシャンデリアも全てパーティー用に運び込まれた物だった。

 パーティーの最中はシャンデリアのロウソク全てに明かりが灯っていた。また、今はもう姿を消しているが“ジャック・オ・ランタン”というカボチャ頭の悪魔が数百体、ランプを持って歩き回っていたので、会場内は真昼のように明るかった。


 パーティーは先日の日没から明け方まで続き、大いに楽しんだ悪魔たちは皆すっかり良い気持ちになって、その大半が帰路についた。

 一方で、客が()けてから数時間たった今でも会場の床に寝転がっている者たちが何十名もいる。その内の八割は泥酔者であり、彼らは虚ろな瞳であらぬ方向を見たり、一人でゲラゲラ笑っていたり、なにやらぶつぶつ独り言を唱えていた。

 残りの二割は食べ過ぎで動けなくなった者と、心身ともに至って正常でありながら会場に残ってパーティーの余韻を楽しんでいる者たちだ。イース・ガリア最上階に入れる機会など滅多にないから、時間いっぱいまで滞在しようと思っている者も中にはいるかもしれない。


 ところで、まだ祭りの後といった雰囲気漂うこの空間に、一つだけ明らかにパーティーには似つかわしくない物が置かれていた。

 それは一台のベッド。四、五メートルの巨体がいくつも寝転がれるほど大きなベッドだ。それが円形広場の奥まった場所に置かれていた。


 ベッドの上には樹流徒が寝ていた。就寝用の簡素な白い上下の服を着て、まるで死んだように寝息一つ立てずに目を閉じている。

 またベッドの横には二つの影が立っていた。片方はカラスの頭部と人間の胴体を持った悪魔。もう片方は少年の姿をした悪魔だ。

 二体の悪魔は押し黙ったまま、どこか神妙な目つき顔つきで樹流徒の寝顔をジッと眺めていた。


 やがてカラス頭の悪魔アンドラスが、普段とは違う大人しい口調で喋り出す。

「キルトのヤツ、気持ち良さそうに眠ってるな」

「そうだね。きっと良い夢を見てるんだよ」

 少年の悪魔マルティムが同調する。

「良い夢か……。どんな内容なんだろうな?」

「さあね。キルトのことだから皆が仲良くしてる夢とかじゃないの」

「コイツ、パーティーのあいだもずっと一人で寝てたよな」

「ま、それは仕方ないよね。だってキルトは……」

「……」

「闇の者と戦った後、死んでしまったんだからさ」

 マルティムの言葉に、アンドラスは肩を落とす。


「なあ、本当にずっとこのまま目を覚まさないのか? オレにはキルトが死んだなんて今でも信じられないぜ」

「残念だけど難しいんじゃないかな。一応心臓は動いているけど、脳はずっと停止したままで意識は一向に回復しないからね。魔界中の悪魔が手を尽くしても彼を目覚めさせるコトはできなかったんだ」

「やっぱり光の者の力を使ったのが原因だったのかな……」

「元々キルトはただのニンゲンだからね。多分、彼という器が神の力に耐え切れなかったんだよ」

「酷い話だよな。何でよりにもよってコイツがこんな目に遭わなきゃいけないんだよ」

 アンドラスは拳を固く握り締める。

「しょうがないよ。キルトは最後の戦いで全力を出し尽くし、全てをやりきったんだ。きっと本人も満足してるさ」

「そうかな……」

「現世かぶれの君なら知ってるかもしれないけど、ニンゲンは人々の記憶から忘れ去られたとき完全に死ぬらしいよ。だからせめてボクたちがキルトのことを覚えておいてあげようよ。そのあいだ、彼は生き続けるんだ」

 珍しく真面目な口調で言うマルティムの言葉に、アンドラスは「そうだな」と相槌を打った。


「キルト。オレはオマエのこと、ずっと忘れないからな」

「ボクも一億年くらいの間は覚えておいてあげるよ」

「どうか安らかに眠ってくれ……」

 アンドラスが祈るように瞳を閉じた時――


「お前たち、いい加減にしてくれ……」

 ベッドに寝ていた青年がむくりと起き上がる。


「あ、起きてたのか、キルト?」

「お前たちの話し声で起きた」

「なんだよもー。折角“キルト死亡ゴッコ”してたのに」

 遊びを中断されたマルティムは大いに不服そうだ。

 しかし勝手に殺された樹流徒はもっと不服だった。彼は死んでなどいない。

 樹流徒がパーティーの間ずっと一人で寝てたというのもアンドラスの勝手な作り話だった。樹流徒が就寝したのはつい一時間前である。


「冗談にしても悪ふざけが過ぎるな」

 樹流徒が呆れながら笑うと、アンドラスは頭の後ろを掻いた。

「ワリィワリィ。マルティムがどうしても“キルト死亡ゴッコ”がしたいって言うから、つい……」

「なんだよ。自分だって結構乗ってたクセに」

 マルティムがつま先でアンドラスの足を軽く蹴る。

「まあ、アレだ。こんな機会でもないと、こんな遊びできないもんな」

「そうそう。細かいコトは気にしない、気にしない」

 全く悪びれない二人の態度に樹流徒は怒る気力も失せた。


「でもさー。闇の者と戦った後、キルトが無事じゃなかったのは本当だよね」

 とマルティム。

 普通は言い出しづらいそのような話をアッサリ持ち出してしまうのが彼の長所であり短所でもあった。


 今、マルティムが言った通り、闇の者との最終決戦のあと、樹流徒は決して無事では済まなかった。

 彼は意識を失い、それと同時にあるものを失ったのである。


 それは“記憶”。

 樹流徒は魔都生誕から最終決戦までの記憶をほぼ全て失ってしまったのである。

 原因は不明だが、樹流徒はサマエルとの対決前に奇跡の力を発揮した。その反動が彼の記憶消失だったと考えられる。お金でも食べ物でも、他人に分け与えたモノは消える。樹流徒の記憶もまた他者へ分け与えた格好になったのかもしれない。


 元々樹流徒はただの人間であり、彼の体が神の力に耐え切れなかった……というマルティムの話は、もしかすると真実かもしれなかった。現に樹流徒は最終決戦のとき、自分の体がもう長く持たない事を知っていた。

 それでも樹流徒が一命を取り留めたのは、おそらくサマエルが死んだからだろう。サマエルの死によって樹流徒は神の力を取り戻した。おかげで彼はかろうじて神の力の反動に耐えられたのだ。もしサマエルを倒すのが遅れていたら、樹流徒は自滅していたかもしれない。


 最終決戦のあと気絶した樹流徒は、すぐに魔界へ運ばれた。聞くところによれば、あのバルバトスが血相を変えて樹流徒を背負い悪魔倶楽部に駆け込んだのだとか。


 そのあと樹流徒は貪欲地獄にある魔女バーバ・ヤーガの家に運ばれ、三日後に目を覚ました。

 当時、樹流徒の混乱と狼狽ぶりは酷いものだった。何しろ彼は魔都生誕以後の記憶を全て失っていたのだ。目を覚ましたらいきなり見知らぬ場所にいて、初めて(・・・)見る魔界の住人たちが周りに集まってれば、誰だって驚くに決まっている。

 逆に悪魔たちも樹流徒が記憶を失っている事に驚き、慌てたという。


 しかし状況を把握したバルバトスらが樹流徒に事情を説明してゆく内、樹流徒は少しずつ落ち着きを取り戻し、彼らの話を信じ始めた。

 その後、樹流徒はかつて自分が関わった悪魔たちに、自分やバベル計画について詳しい話を聞いた。

 結果、驚くべき事に、樹流徒の記憶が断片的に蘇ったのである。ある程度詳しい話を聞いた頃には、今までの出来事を三分の一くらい思い出せた。

 思い出した記憶の中には、ルシファーと交わした「魔壕の王になる」という約束も含まれていた。そのため樹流徒は約束通り、魔界の第八階層の魔王になったのである。


 イース・ガリアの最上階は、今や樹流徒の私室だ。

 実はつい数時間前まで行なわれていたパーティーは、樹流徒の魔王就任とイース・ガリア修繕完了を祝うものであった。ちなみに主催者は樹流徒だが、パーティーを開こうと提案したのはマルティムである。


 現在マルティムは樹流徒の側近を務めている。樹流徒が依頼したわけではなく、マルティムが勝手になったのだ。動機はもちろん「楽しそうだから」それだけだった。

「キルトも魔王を名乗るなら最低限の人脈は作っとかないとね。ただでさえニンゲンが魔王になることを快く思ってない奴らだっているんだから、味方は増やしておいたほうが良いよ」

 だからパーティーを開いて有力悪魔を中心に大勢の客を招待しよう、というのがマルティムの意見だった。


 だが蓋を開けてみれば今回のパーティーはお祭り好きな悪魔が集まって派手に飲み食いするだけの馬鹿騒ぎだった。有力悪魔など誰一人来なかった。こうなる事はマルティムも知っていただろう。彼もただ単に派手なイベントを楽しみたかっただけなのだ。


 それでも樹流徒は、終わってみればマルティムの案に乗って良かったと感じていた。パーティーの中で数名の悪魔と知り合いになれたからである。彼らは皆、魔界史上初となるニンゲンの魔王であり、神の力の所持者である樹流徒に対して純粋な興味を持っていたようだ。そして樹流徒に対して概ね好意的だった。


 パーティーが終了したあと、樹流徒はベッドで眠りに就いた。彼の体は未だ眠気や疲労といった機能が失われたままだが、それでもベッドに転がって目を閉じると五分も経たずに眠れた。何も起きなければ太陽が高く昇るまでぐっすり熟睡できただろう。

 なのにアンドラスとマルティムがキルト死亡ゴッコなる悪趣味な遊びを始めたせいで、目を覚ましてしまったのである。


 樹流徒はベッドで上半身を起こしたまま、改めて呆れ顔で二体の悪魔を見る。

 アンドラスもマルティムも屈託の無い笑顔で樹流徒の顔を見返していた。

 樹流徒は腹が立つよりも幸福感を覚えた。形はどうあれ自分を慕ってくれる悪魔がいる。アンドラスやマルティムだけではなく、他にも大切な仲間が大勢いた。自分の意思で魔界の王になったことが、最近では正しい選択だったように思えてきた。


 樹流徒はベッドから降りる。

「おはよう魔王様(・・・)

 マルティムは朝の挨拶をして、下から樹流徒の顔を覗き込む。

「悪戯もほどほどにな」

 と、樹流徒。

 キルト死亡ゴッコは今日が初めてだが、マルティムの悪戯自体は今に始まったことではない。朝起きてみたら樹流徒の布団に勝手に潜り込んでいたり、樹流徒の私物をイースガリアの中に隠して宝探しをさせたり、念動力や瞬間移動の能力を使った悪戯をしたりと、彼の悪戯は日々エスカレートしていた。樹流徒のちょっとした頭痛の種になっていた。

「まあいいじゃん」

 やはりマルティムに反省した様子は無い。おそらくこの悪魔は今後も悪戯を繰り返すだろう。

 それでも優秀な側近として色々助けてくれる彼を、樹流徒は恨めなかった。


 と、そのとき下階から足音がして、数名の悪魔がどかどかと乗り込んでくる。パーティーはとっくに終わったというのに、樹流徒の私室はまだ悪魔が勝手に出入りできる状態だった。

 ――キルトはボクと一緒に遊ぶんだよ。

 ――いいえ。キルト様には魔王としての勉強を最優先して頂きます。それが魔王様の教育係である私の役目なのです。

 ――何が教育係だ。勝手になっただけのくせに。勉強なんかより、キルトは今日こそオレ様と血で血を洗う殺し合いをするんだよ。

 口々にそんなことを言い合いながら、彼らは樹流徒に近付いてくる。


「相変わらずキルトは一部悪魔から大人気だな。オレ知ってるぜ、こういうの現世じゃ“はーれむ”とか言うんだろ?」

 現世かぶれのアンドラスが知識を披露する。

 ハーレムとは少し違う気がするが、アンドラスが余りにも得意な顔をしているので、樹流徒は彼の名誉のためにも「まあ、そうだな」と曖昧に肯定しておいた。正しい知識はまた後ほど、周りに誰もいない時に、本人にこっそり教えてあげれば良いだろう。


 最上階に踏み込んできた悪魔たちは樹流徒の前まで来て「遊ぼう」「勉強しましょう」「殺し合おう」と騒ぎ立てる。

 彼らを制止したのは側近のマルティムだった。

「折角ここまで来てもらって悪いけど帰ってね。キルトは今日、誰とも付き合えないんだよ」

「え。何でだ?」

 聞き返したのは、押しかけてきた悪魔ではなく、アンドラスだった。

「だって、キルトはこれから現世に行くんだもん」

「現世……? 現世へ何しに行くんだよ? まさか根の国とかいう連中が動き出したのか?」

「違うよ。キルトは魔界の使者として現世に行くんだ。二十日後に聖界の使者と会うためにね。そうでしょ?」

「ああ」

 樹流徒は首肯した。


 今マルティムが言った通り、樹流徒はこれから聖界の使者と会うために現世へ向かう。

 きっかけは数日前のことだった。

 突如、聖界にいるラファエルから魔界に通信が入り「これから定期的に互いの世界の近況を報告し合おう」という提案が持ちかけられたのである。つまり情報交換をしようという誘いだった。

「魔界と聖界が交信するなど、少し前までだったら絶対にあり得ないことでしたよ」

 そう言って馬頭悪魔オロバスは興奮気味に驚いていた。

 魔都生誕以来の衝撃的な出来事を経験して、聖界と魔界の関係は早くも少し変わりつつあるようだ。


 もっとも、今回の提案は聖界と魔界の関係改善を目的としたものではない。

 これはラファエルの粋な計らいだった。

「聖界と魔界からそれぞれ一人ずつ使者を選び、彼らを現世に送って情報交換をしよう」

 というのが彼の提案だった。

 おそらく情報交換というのはただの建前である。本当の目的は、聖界の使者と魔界の使者が二人きりで会えるようにすることだった。

 魔界の王ルシファーはラファエルの意図を汲み取った。だからこそルシファーは魔界の使者に樹流徒を選んだのである。


「ふうん。ところで聖界の使者って誰だよ?」

 アンドラスは問う。

「さあね」

 と、マルティム。明らかに知ってて隠している顔だった。


 樹流徒が聖界の使者と会うのは二十日後だが、今日の内から魔壕を出発しなければいけない。

 何しろ現世への扉は三つ全て閉じられている(厳密に言えば一つは開いたままだが、魔界側から巨大な金属製の扉で蓋をして閉じてある)。そのため樹流徒が現世へ行くには悪魔倶楽部を利用するしかないのだ。

 悪魔倶楽部には現世の位置情報を記憶した鍵を預けてある。だが、魔壕から悪魔倶楽部までの道のりは遠い。そのため二十日前の今から出発しなければ、約束の日に間に合わなくなってしまうのだ。


 ちなみに現在バルバトスはルシファーの依頼で新しい鍵を開発中らしい。樹流徒が悪魔倶楽部からではなくイース・ガリアから直接現世に移動できるようにするための鍵だとか。それが完成すれば現世で根の国が動き出したとき即座に対応できるようになる。


「じゃあ、久しぶりに現世へ行って来る」

 着替えを済ませた樹流徒は、部屋の中にいる悪魔たちに言って歩き出す。

「あ、待ってくれよ。じゃあオレも連れてってくれ」

 アンドラスが追いかけようとする。

「はいはい。キミは少し寝てようね」

 マルティムは念動力で枕を操って、アンドラスの顔に押し付けた。樹流徒と聖界の使者を二人きりで会わせるための計画だというのに、邪魔者が付いていったら意味がない。それを承知しているマルティムのささやかな心遣いだろう。彼はこうして樹流徒の側近としてしばしば良い仕事をする。

 アンドラスが顔から枕を引き剥がしているあいだに、樹流徒は「ごめん」と一言残して私室を出ていった。


 背信街をあとにした樹流徒は、まず惑わしの森にある妖精王オベロンと女王ティターニアの邸に立ち寄った。妖精族は戦闘能力こそ低いものの不思議な力や道具を持っている。彼らが“寿命を延ばす薬”を持っていると樹流徒が知ったのは数週間前だった。偶然、背信街の悪魔から教えてもらった情報である。

 樹流徒は過去の記憶を全て取り戻したわけではないが、渡会の件については思い出していた。渡会は早雪の呪いを解く儀式のために寿命を半分失った。その寿命を回復させるために、樹流徒は妖精族から薬を貰うことにしたのである。

 オベロンとティターニアは、薬が欲しいという樹流徒の願いをあっさりと承諾してくれた。「オマエならばこの薬を悪用する心配はないだろう」とオベロンは言っていた。


 無事薬を受け取った樹流徒は現世に向けて再び出発した。妖精族のピクシーは樹流徒と一緒に現世へ行きたいとダダをこねたが、女王ティターニアに諭されて泣く泣く諦めた。それでも樹流徒に「現世で何かお土産を買ってくる」と言われて彼女の機嫌は簡単に直った。


 魔壕を後にした樹流徒は、その後も道中で幾つかの場所に立ち寄った。

 魔界の第七階層である暴力地獄では、黄金宮殿に寄ってガルダに挨拶した。聖魔戦争により鳥人の半数以上が犠牲になったため、宮殿内部は以前よりも心なしか静かだった。ガルダは樹流徒の訪問を喜んでくれた。「また太陽の国の戦士として降世祭に出てくれ」と樹流徒はお願いされたが、もう二度と戦闘行為をしたくない彼は丁重に断っておいた。


 第六階層の異端地獄では、海上都市ムウに立ち寄って町長カイムやアモンと会った。過去に魚を密漁していたアモンは、今でもたまに聖魚ジェレムを捕まえに行っているという。ジェレムは強い中毒性がある魚だ。アモンが密漁を完全にやめるまで、もう少し時間がかかるかもしれない。

 余談だがこの町に住んでいた人魚の悪魔ヴェパールは現在背信街に移住している。「キルトがなかなか遊びに来てくれないから、こっちから行きます」と言ってムウを出て行ってしまったらしい。


 続いて第五階層、憤怒地獄。予想通りと言うべきか、樹流徒がこの世界に到着すると魔王ベリアルが勝負を挑んできた。無論、樹流徒に戦意は無い。ついでに言えば時間も無かった。

 樹流徒は事情を伝えて決闘を断った。ベリアルは渋々承知したが「ならば現世から戻ったらすぐに勝負しろ」と言ってきた。おかげで樹流徒は帰りまでにベリアルとの戦いを回避する方法を考えなければいけなくなった。

 樹流徒はその後、魔界の造幣所でアライグマの悪魔グシオンと再会し、二人でトロッコに乗って坑道を駆け抜けた。前回同様トロッコを漕ぐのは樹流徒の仕事だった。グシオンはずっと樹流徒の膝の上でくつろいでいた。


 そして第四階層、貪欲地獄。

 樹流徒は忘却の大樹からほど近い場所に広がる森へ行って、魔女バーバ・ヤーガに会おうとした。あの日、意識を失った樹流徒は彼女の家に運ばれて介抱された。その時のお礼を改めてするためにここへ立ち寄ったのである。だが生憎バーバ・ヤーガは留守中だった。薬の材料を探してどこかを歩き回っているのかもしれない。


 森を後にした樹流徒はしばらくして偶然にもガーゴイル三兄弟と出会った。三兄弟は樹流徒との再会を喜び、相棒である巨竜ガルグユの背中に樹流徒を乗せて悪魔倶楽部まで運んでくれた。

「また会おうぜ。キルトには十分な礼をしてない。今度こそたっぷり返してやるからな」

 去り際、怒り顔のガーゴイルがそう言っていた。彼が言うとやはり別の意味に聞こえた。


 悪魔倶楽部は何も変わっていなかった。西洋風の小さな城のような外観をしてる。

 内装も相変わらずだ。ロウソクの薄暗い明かりや壁に設置されたドクロ型のランプなど、一見するとおどろおどろしい印象を受けるが、見慣れてしまえばこぢんまりとした良い店である。


 店内には自称人間嫌いの悪魔パズズや、赤い髪の女悪魔ゴモリーなど、常連客が何名かいた。

 そしてカウンターの奥にはいつも通りバルバトスがいる。

「ようこそアクマクラブへ」

 樹流徒が姿を現してもバルバトスは特に驚かなかった。だが心なしか口元は嬉しそうだった。


 バルバトスが酒を勧めてきたので樹流徒はそれを断って、代わりに悪魔倶楽部の鍵を受け取った。

 現世で聖界の使者と会うことを伝えると、バルバトスはにやりとして

「またいつでもアクマクラブに来い、とアイツ(・・・)に伝えてくれ」

 そのような伝言を樹流徒に預けた。


 魔獣グリマルキンが愛らしい猫の姿とは裏腹にバオーと野太い声で鳴く。彼の鳴き声に送られて、樹流徒は店の出口へ戻った。

 扉の先には不思議な闇がある。そこへ鍵を挿すと、漆黒の空間が揺らめいた。

 現世への扉が開く。昂る気持ちを抑えながら樹流徒は前へ踏み出した。



 龍城寺市内には中央公園と呼ばれる、だだっ広いだけの空き地がある。かつて幾度となく戦闘の舞台となったその場所には、未だ戦いの傷跡が深く残されていた。


 いつかこの公園は元の平和な光景を取り戻すだろう。

 しかしバベル計画により失われたモノの中には、二度と取り戻せないものもある。そしてこれからも世界は何かを失い続けるだろう。人間にも、天使にも、そして悪魔にも、数え切れない悲しみと絶望が待ち受けているだろう。それでも、きっといつか、命ある者たちは全ての困難を乗り越え、皆が同じ場所にたどり着く。そう樹流徒は信じていた。きっといつの日か……


 樹流徒が公園に到着すると、すでに聖界からの使者が来ていた。

 ベンチに、長い黒髪の少女が座っている。

 樹流徒は思わず笑みをこぼしながら彼女に走り寄った。

 ベンチの少女は立ち上がる。その瞳に樹流徒の姿を映すと、彼女の口元にも自然な笑みがこぼれた。


 樹流徒は少女と再会の握手を交わして、二人でベンチに並んで腰掛けた。

 樹流徒が記憶喪失になっていることと、皆から過去の話を聞いたことで失われた記憶がある程度回復したことは、ラファエルの口を通してすでに少女にも伝えられていた。


 そのため少女も樹流徒の記憶を元に戻すため、過去の話をしようと考えていたらしい。

 再会の挨拶を交わしたあと、彼女は優しい口調で語り始める。

「では、あの日の話をしましょう。私がアナタにひとつの予言を告げた、始まりの日の話を」

「ああ、聞かせてくれ。君が知っている物語を」

 少女の話に深く耳を傾けようと、樹流徒は静かに瞳を閉じた。

 優しい日差しが二人を包んでいた。




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