人間として
甚だ意外なルシファーの提案に、樹流徒は軽く眉根を寄せた。
「俺が魔王に……?」
「そう。貪欲地獄のベルフェゴール、異端地獄のラハブ、そして魔壕のベルゼブブ……彼らが死んだ今、複数の階層で魔王が不在となっている。その座に就くつもりはないか? 特に汝には魔壕の王になってもらいたい。実力的に考えてもベルゼブブの代わりになるのは汝くらいしかいないだろう」
驚いたのは樹流徒だけではなかった。ルシファーの背後に控えた悪魔の群れが急に騒がしくなる。
樹流徒が魔王になることについて肯定的な意見、否定的な意見、双方が飛び交った。ただ、この場に集まっているのは主に樹流徒と顔見知りの悪魔だけに肯定的な意見が多数を占めていた。“人間だけでなく悪魔と天使のためにもサマエルと戦った樹流徒には、魔王の座に着く資格が十分にある”という声が圧倒的に大きかった。
それに反して樹流徒自身はルシファーの提案に否定的だった。
「すまないが俺は魔王にはなれない。さっきも言った通り、現世から離れるわけにはいかないんだ」
樹流徒には根の国との戦いが控えている。今はまだ現世に留まる必要があった。魔王になる以前に、彼は魔界への移住すら不可能なのである。
すると、その程度は大した問題ではないようにルシファーは言う。
「心配には及ばない。要はキルトが現世と魔界を自由に移動できれば良いのだ。それならばキルトは普段魔界にいながら、根の国が動き出した場合は現世で活動できるようになる」
「そんなことが可能なのか?」
「可能だ。いま現世と魔界は三つの扉で繋がっている。その内二つは閉じるが、残り一つは当分のあいだ閉じられない。その扉が開いている間は例の鍵が使用できるはずだ」
例の鍵というのは悪魔倶楽部の鍵を言っているのだろう。確かにあの鍵を上手く利用すれば、現世と魔界を自由に出入りできる。
「また現世に使い魔を常駐させて根の国の動向を監視させる。何か不穏な動きがあればすぐキルトの元に情報が届くだろう」
至れり尽くせりな話だった。この提案内容ならば、樹流徒が魔界で暮らすのも決して不可能ではない。
だが腑に落ちなかった。
「なぜそうまでして俺を魔界に誘う?」
樹流徒は疑問を呈する。ルシファーほどの悪魔がタダの好意や単なる思い付きで自分を魔王に勧誘しているとは、どうしても思えなかった。
それについてルシファーは包み隠さず答える。
「キルトは神の力と命を宿す者だ。それを保有することは魔界にとって非常に大きな意味がある。神とはそれほど特別な存在なのだ。たとえ神がいなくなった今でも」
「……」
「一方で、神の力とは無関係にキルトの存在を望む者たちがいる。フルカスの言葉を借りれば、汝には我々を惹きつける魅力があるのだ。他の能力を考慮しても魔王としての素質は十分ある。神の力とキルト自身の存在。その両方を魔界は欲している」
「理由はそれだけか?」
「いや、他にもある。天使たちが神の力を研究するためシオリを手元に置いたように、我々もまた汝を手元に置いておきたい。それも一つの重要な目的だ」
「要するに魔界でも神の力を研究したい、と?」
「そうだ。しかし研究のために汝の自由を阻害するような真似はしない。ただ我々は協力して欲しいのだ。汝が宿す神の力が今後不測の事態を招かないとも限らない。ゆえに我々も神の力の暴走を未然に防ぐための手立てを見つけたい。そのためには汝に魔界へ来てもらい、自発的に協力してもらう他ないのだ」
「……」
「さらにあともう一つ、キルトを魔界に呼びたい理由がある」
「それは?」
「汝の中に閉じ込められた同胞の魂を解放することだ」
「悪魔の魂を?」
「我々悪魔に完全な死は無い。たとえ肉体が滅びても、果てしなく長い時間をかけていつか再び魔界に転生する。己自身への転生を永久に繰り返すのだ」
「永遠の転生……か」
「ただしこの世に一つだけ、我々の転生を断ち切る力が存在する」
「魔魂吸収能力だな?」
樹流徒の言葉に、ルシファーは頷いた。
「そう。汝に宿る神の力だ。その力によって吸収された悪魔の魂は永遠に檻に閉じ込められたまま蘇ることはない」
「つまり俺が今まで取り込んだ悪魔の魂を解放するのに協力して欲しい、という意味か」
「まさしくその通りだ」
「俺が倒した悪魔を甦らせるのか。魔都生誕を引き起こした悪魔たちを……」
それは樹流徒にとって決して気分の良い話ではなかった。
「汝の気持ちは分かる。だが理解して欲しい。取り返しのつかないことをしたとはいえ、彼らもまた我々と同様、闇の者の掌で踊らされていただけなのだ。そして彼らは私の大切な友だ。また汝の手によって一度は死という罰を受けている。それらを踏まえた上で頼もう。どうかあの者たちを許して貰いたい」
「……」
樹流徒は悩む。魔都生誕を引き起こした悪魔たちを転生させるべきなのか。彼らがバベル計画で故郷を滅ぼした罪を許すべきなのか。
努めて冷静に、心を鎮めて考えたあと、樹流徒はおもむろに口を開いた。
「分かった……。全てを許す」
時間にすればものの一分足らずで出した結論だったが、強い葛藤を乗り越えての決定だった。
心を決めた理由は三つある。
一つ目は、ルシファーが言った通り、樹流徒に倒された悪魔たちは既に“死”という罰を受けていること。
二つ目は、転生した悪魔が前世の悪魔と同一人物とは限らないこと。
いつかアライグマの悪魔グシオンがこんな事を言っていた。
――蘇生と転生とは別物だよ。ボクたちはたとえ同じ姿で生まれ変わっても前世の記憶をほとんど残してない。それに前世の自分とは性格やモノの考え方がまるで違うことも多い。中には前世と違う姿で生まれてくる悪魔もいる。それは最早自分とは呼べないんじゃないかな。
バベル計画に関わった悪魔たちが長い時を経て転生したとしても、それは前世の彼らとは別人物なのかもしれない。ならば最初から許すも許さないも無かった。
そして三つ目の理由は、元凶である闇の者を討った今もう誰も恨みたくない、と樹流徒が思ったことだった。
だから樹流徒は全てを許した。バベル計画に関わった悪魔の転生を認めた。
「感謝する。闇の者が消えた以上、第二のバベル計画が起きる心配は無い。何より私が二度とあのような真似はさせない。この私の全身全霊にかけて誓おう」
ルシファーは胸に手を当てて約束した。
「しかし、魂の解放自体は認めても、俺は魔界に行くと決めたわけじゃない」
「承知している。もし汝が現世に残ると決断すれば、同胞の魂を解放するのは諦めよう。神の力の研究も諦める。どちらも魔界でなければ実行できないのだからな。無論、だからといって汝が気に病むことは無い」
「……」
これまでのルシファーの言い分は理解できた。自分が魔界に必要とされている理由は分かったし、その裏にあるルシファーの考えや気持ちもある程度は汲み取れた。
それだけに、魔界に行くという選択肢は無いと思っていた樹流徒の心は、少し傾く。
神の力の研究や、悪魔の魂を解放すること対して、早くも前向きな考えが芽生え始めていた。特に神の力については樹流徒自身の問題と言っても良い。研究に協力する義務があるとは言わないまでも、協力する価値は十分にあった。神の力を制御する方法が分かれば自分のためになるし、他人に被害が及ぶ危険性を無くすこともできる。
ルシファーの提案は、今や悪い話ではない。魅力的ですらあった。
そんな樹流徒の心境を察してか、ルシファーは話を続ける。
「一つ助言を加えるならば、先々を考えた場合、汝は魔界を活動拠点にした方が良いだろう」
「どういう意味だ?」
「近い未来、キルトは根の国と戦う運命にある。来るべきその日に備えて仲間が必要だとは思わないか?」
「……」
「もし汝が魔界に移り住み、魔王となって悪魔との信頼関係を築いてゆけば、彼らはきっといつか汝の助けになってくれるだろう。それとも神の力があれば、仲間など必要ないか?」
「いや。そんなことはない」
樹流徒は強く否定した。たとえ神の力があろうと、全知全能の存在になったわけではない。
最終決戦の直前に行なった自分自身の演説を、樹流徒は忘れていなかった。人も天使も悪魔も一人では生きていけない。どれだけの力を手に入れても、個人が出来ることには限界がある。現に今、自分がこうして生きていられるのも、色々な人たちの助けがあったからだ。それは綺麗事などではなく、純然たる事実だった。
ゆえにルシファーの提案はますます一考する価値があった。いずれ始まる根の国との戦いに備え、樹流徒には仲間が必要だった。
また、樹流徒にとって悪魔はいつの間にかとても身近に感じられる存在になっていた。たった数ヶ月前まで彼らをタダの架空生物だと思っていたのに、ここまで認識と心境の変化が起こるなんて自分でも信じられないくらいだった。一緒に戦ってくれる仲間が欲しいという思い以上に、悪魔のことをもっと知りたいという願望は大きかった。
ルシファーは微笑する。
「これはあくまで提案だ。汝がどの道を進むにせよ、無理強いはしない。あとは汝の選択に全てを委ねよう。ニンゲンとして現世で生きるか。それとも我々悪魔の一員として魔界へ行くか。全ては自由だ」
そう言って彼は、樹流徒の意思に従う約束をした。
今後一生を左右すると言っても過言ではない、重要な選択である。
即答は出来なかった。樹流徒は真剣に考える。
ルシファーはもう何も言わなかった。彼の後ろに佇む悪魔たちも、樹流徒に答えを急かしたりしない。
沈黙の中、熟考が続いた。
そして悩みに悩んだ末、樹流徒はようやく結論を出した。
「ルシファー。お前はさっきこう言ったな。人間として現世で生きるか。悪魔の一員として魔界へ行くか。それは俺の自由だと」
「あの言葉に嘘偽りは無い」
「ならば俺は両方を取る」
「両方?」
「俺はあくまでただ一人の人間として、魔王になる」
樹流徒は、生きていこうと思えば現世のどこかで普通に生きていけると思った。
ただ、家族と故郷と親友を失った今、彼を現世に係留するものは何も無い。根の国の脅威から人類を守れれば、樹流徒が現世に残る必然性は無いのだ。今後、現世と魔界を自由に移動できるならば尚更である。
一方で、魔界に行きたいという思いは、熟考を重ねれば重ねるほど膨らんでいった。まだ見た事の無い新しい世界、新しい出会い、そして現世では決して味わえないであろう未体験の生活に、胸が躍った。
悪魔についてもっと知りたい。魔界の全てを見てみたい。根の国との戦いに備えて仲間も増やしたい。
樹流徒は魔界へ行こうと決めた。ただし悪魔の一員ではなく、純粋に一人の人間として。
「なるほど。それも良かろう」
ルシファーは優しい笑みを浮かべた。
「ではキルトよ。汝にはベルゼブブの代わりに魔壕の王になってもらう。それで良いか?」
最後の確認に樹流徒は深く頷く。
誰からともなく、ルシファーの後ろに控えていた悪魔たちが一斉に弾き出された。
彼らはあっという間に樹流徒の周りに集まって騒ぎ出す。
「予言しよう。汝はきっと良い王になる」
ルシファーはそう言って、樹流徒を取り囲む異形の群れを瞳に映した。
「スゲーよキルト。魔壕の王になるんだろ? だったらオレも魔壕に移住するぜ。そしてキルトから現世の話を沢山聞かせてもらうんだ」
アンドラスがつぶらな瞳を輝かせる。
「ボクは元々魔壕に住んでるんだ。ニンゲンの魔王だなんて今から楽しみだよ」
少年の悪魔マルティムは悪戯っぽい表情をしていた。
「さすが、このオレが目をつけた獲物だけのことはある。オマエとの再戦が楽しみだぜ」
獅子の頭を持ったマルバスは酷く興奮している。
「シオリを助けてくれてありがとね。でも、どうすれば聖界にいるあの子に会えるのかな? もう一度バベル計画を実行すれば良いのかな?」
女性悪魔サキュバスは何やら物騒なことを口走っている。
「やあキルト。君が私を現世に送ってくれたお陰で貴重な資料が手に入った。これなら魔動機関車が完成しそうだよ。もし上手く行ったら、今度はゼヒ魔壕にも鉄道を敷かせてくれ」
憤怒地獄の悪魔クロセルはそう言って、樹流徒に悪魔倶楽部の鍵を返却した。
「俺様がキルトに空の飛び方を教えてやったんだ。魔王程度にはなってもらわないとな」
偉そうに言ってパズズは腕組みをしている。
「私はキルトがどんな王になるのか見届けたい。だから私も魔壕に移住することを今、決めたのだった」
クラゲの悪魔フォルネウスは相変わらず独特な言い回しで喋る。
「魔界にはニンゲンの王を認めない者も沢山いるだろう。そんな中、キルトがどこまでやれるか見せてもらおうか」
リリスが妖艶な笑みを浮かべた。
「……」
漆黒の地母神カーリーは無言でキルトに熱い視線を送っている。
「ほう。魔界史上初となるニンゲンの魔王ですか。なかなか興味深いですな」
好奇心旺盛な馬頭悪魔オロバスも別の意味で熱いまなざしを樹流徒に向けている。
「魔界も新しい時代を迎えるのね」
赤い髪を伸ばした女性悪魔ゴモリーが呟く。彼女の足下で座るフタコブラクダが大きな欠伸をした。
「ソーマキルト。世界の秘密を暴く者よ……。どうやら、私の占いは正しかったようだ」
老騎士フルカスが、髭の奥で笑みを浮かべている。
「やっぱりキルトはオレたち悪魔と縁があるみたいだな」
「これでもっと沢山キルトと遊べるね」
猫の頭部を持った兄弟悪魔ゴグマゴグが並び立っている。
「私は最初からキルトが大物になると分かってましたよ。すみません嘘です」
五芒星の悪魔デカラビアは一人で何か言っている。
「オレはあんなヤツに喧嘩を売ってしまったのか。下手したら命が無かったぞ……」
悪魔倶楽部のコック、ロンウェーは少し離れた場所で密かに安堵していた。
「キルト。またムウに来て下さいね。絶対ですよ」
水色髪の少女ヴェパールがにこにこしている。
「ウセレムの件では世話になったからな」
海上都市ムウの町長である鶫の悪魔カイムも樹流徒の来訪を望んでいるようだ。
「これでお互い魔王同士だな。オマエにその実力があることは私が保障しよう」
魔王ガルダが大きな嘴を広げて言う。
その隣で元魔王のアナンタが十数本の蛇頭を縦に揺らしていた。
「オレもオマエの実力は保障してやるよ。なにしろこのオレの次に強いんだからな」
炎の魔王ベリアルも少しひねくれた言い回しだが樹流徒を認めた。
そして……
「いつか現世で偶然出会ったニンゲンが、今や魔王とはな……。世の中には不思議なことがあるものだ」
悪魔倶楽部の店主バルバトスが感慨深げに言う。彼の足下で灰猫グリマルキンがバオーと野太い声をあげた。
樹流徒は口元にかすかな笑みを浮かべ、悪魔たちの声に応える。彼の瞳はどこまでもまっすぐを向いていた。
「オマエら知ってるか? 現世には“善は急げ”って言葉があるんだぜ。こうなったら今すぐキルトと一緒に魔界へ戻るべきだろう。というか、このまま皆で背信街まで押しかけるってのはどうだ?」
アンドラスの言葉に、悪魔たちは盛り上がる。
彼らの勢いに押されて樹流徒は首を縦に振るしかなかった。でも、悪い気分は全くしなかった。
イブ・ジェセルのメンバーとは急なお別れになってしまうが、樹流徒はまたいつでも現世に戻ってこられる。組織の人たちと会う機会はこの先何度でもあるだろう。
「よし、行こう」
人間の魔王と、悪魔の群れは、共に歩き始める。
目指すは魔界。自由と、危険と、活力に満ち溢れた広大な世界。
が――樹流徒が一歩踏み出したときだった。
突然、彼の目の前が真っ暗になる。
手足が激しく痺れ、全身に悪寒が走った。明らかな体調の異変が樹流徒を襲う。
だが彼には焦りも恐怖も無かった。
前触れがあったからだ。虹色の光に包まれた樹流徒の体は確実に滅びへと向かっていた。他の者たちは誰も気付いていなかったようだが、樹流徒自身は、もう自分の体が長く持たないことを知っていた。
異種族同士を繋いだ奇跡の光。他者の思いを力に変える能力。その代償をキルトは払ったのだろう。
訪れるべくして訪れた瞬間だった。
――この戦いが無事に終わったら俺はどうなってもいい。だから頼む。たった一時でもいいから天使と悪魔に協力し合う心を与えてくれ。そしてサマエルと戦う力を俺にくれ。
樹流徒の願いを、神の力はそのまま叶えたのかもしれない。
ぷつり、と樹流徒の意識が途切れた。
彼は受身も取らず前のめりに倒れる。
驚いた悪魔たちが一斉に樹流徒の体を覗き込んだ。彼らの叫び声は、もう樹流徒の耳には届かない。
地面に横たわった樹流徒の顔は、全てをやりきった者のようにすっきりしていた。