真の黒幕
「へえ……。正確に心臓を貫いたつもりだったけど、まさか心臓が無いとは思わなかったよ。面白い体してるね、樹流徒君」
「南方……さん……?」
「冗談だよ。君の体内構造が人間と別物なのは分かってるから。心臓が無いのも知ってたよ。俺は敢えて急所を外して攻撃したんだ。なにしろ君にはまだ死なれちゃ困るからさ」
南方の口調は機械が喋っているように平坦だ。そのため台詞の軽さが却って不気味だった。
「南方さん……。これは……一体?」
樹流徒は膝を着いたまま貫かれた胸を手で抑えた。南方に負わされた傷という現実がまだ信じられない。体の痛みと精神的なショックで腰は起こせず、言葉も切れ切れになった。
南方は温度の無い表情のまま、形だけの笑みを浮かべる。
「オマエは以前より強くなったが、勘だけは鈍ったようだな」
今度は口調どころか言葉遣いまで別人だった。
樹流徒は容易に狼狽が収まらない。目の前にいる男は本当に南方なのか?
「お前は一体……?」
「まだ分からないのか?」
どこか嘲笑うように言って南方は両手を腰の高さで広げる。それを合図に彼の姿が変化した。
人間の男が、見る間に十二枚の翼を持つ天使になる。赤茶色の髪と黄金の瞳を持つ若い男の天使だ。背は百九十センチ前後。ミカエルたちと同じ白と青の衣に身を包み、両手には芸術的な装飾が施された銀のブレスレットを装着していた。
「その姿は……。まさか天使が南方さんに成りすましていたのか?」
他者の姿に変身できる天使がいても不思議ではない。現世に派遣された天使がどこかで南方を目撃し、彼の姿を借りたのかもしれない。樹流徒は単純にそう考えた。
普段の樹流徒ならばそのあとすぐに違和感を覚えただろう。もし本当に眼前の天使が南方の姿をコピーしただけならば記憶までは真似できない。先ほど公園で過去の思い出を語る事もできなかったはずである。しかし今の樹流徒はそんな簡単なことすら気付けない状態だった。
十二枚の翼を持つ天使は、無感情な顔を捨てて邪悪な微笑を浮かべる。そして冷静沈着な性格を思わせる声音を発した。
「いや。私は本物の南方だ。イブ・ジェセルのメンバーであり、短い間だがオマエの仲間だった、正真正銘の南方万だ。さらに言えば、そもそも南方などというニンゲンは初めからこの世に存在しない」
「初めから? どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だ。南方は私が現世で活動するための仮の姿であり、彼個人は元々この世にいない。オマエたちが知る過去の南方も、全て私というわけだ」
「そんな馬鹿なことが……」
「信じられないだろうが紛れも無い真実だ」
「じゃあ、南方さんは……天使だったのか?」
気付かなかった。気付けるはずがなかった。南方は多少軽薄な言動が目立つが、誰よりも人間味のある人物だった。その彼が天使だったなんて、本来であれば冗談にもならない話だ。
しかしその冗談にもならない話が現実とすれば、樹流徒は騙されていたことになる。あの日、道端で南方と出会ったときから今までずっと、本当の正体を偽られていたことになる。
傷の痛みと驚きで全身硬直した樹流徒に向かって、天使は己の名を明かす。
「私の名はサマエル」
サマエル。
樹流徒はその名を良く知っていた。いま最も強く記憶にある名前だった。
サマエルといえば、ベルゼブブに聖界の情報を流しバベル計画の方法を教えた疑いがかかっている、真の黒幕容疑者だ。
南方の正体が天使で、自分を攻撃してきた。それだけでも動揺が生じているのに、天使の名がサマエルだと知って、樹流徒は現状に対し心の理解が追いつかなかった。
それでも彼は正気を保ちながら相手に語りかける。
「南方さん。いやサマエル……。お前は偶然イブ・ジェセルのメンバーとして龍城寺に潜んでいたのか? 俺にはそう思えない。今にして思えばお前との出会いすら作為的なものを感じる」
「何が言いたい?」
「お前が全ての元凶なのか?」
サマエルが黒幕という確証は無い。ただサマエルは聖魔戦争とバベル計画が終わったこのタイミングで正体を現し、恐らく中央公園で樹流徒が来るのをずっと待っていた。それがほとんど答えと言っても良かった。
サマエルは肩を揺らしてク、ク、クと笑う。
「オマエの故郷が滅びた元凶が私なのか、と問われればその通りだ。ベルゼブブにバベル計画の実行方法を教えたのもこの私だ」
彼はその事実を簡単に認めた。最早隠す必要も無いという意味か。
両者の間に短い沈黙が流れる。
静寂の中、樹流徒の心は徐々に現実を受け入れ始めた。血の気が引くように焦りと動揺が冷めてゆく。代わりに言いようの無い激しい興奮が胸の奥底から湧き起こってきた。落ち着いていられるはずがない。ついにたどり着いたのだ。真の黒幕に。長い旅の果てにある本当の終着点に。
「見つけたぞ。俺はずっとお前を探し続けていた」
興奮は、自分では制御できないほど深い怒りへと変わった。命を懸けて追い求めてきたモノがすぐ目の前に立っている。一生分の怒りを込めた鋭い目で、樹流徒は敵を睨んだ。
対してサマエルは心外そうな態度を取る。
「なぜそこまで私に対して怒りを燃やす? 良く考えてみるのだな。私は全ての元凶ではない。真の元凶は創世神か、あるいは聖なる光を宿す者(光の者)だ。私とて被害者の一人に過ぎない」
冗談のつもりでそんな台詞を口にしているのか。もし本心から言ったのだとしても、樹流徒には言い訳以下の言葉にしか聞こえなかった。
たしかに全ての悲劇は創世神が光の者と闇の者に分離したことに端を発しているのだろう。サマエルが一連の事件を引き起こした遠因もしくは近因にもなっているに違いない。だが、それはサマエルが犯した罪を正当化する理由にはならなかった。
あるいはサマエルは心にもない事を言って樹流徒を挑発しているつもりなのだろうか。しかし既に樹流徒の怒りは頂点に達していた。どのような挑発を用いてもこれ以上彼を怒らせるのは無理だった。
「家族、友人、平穏な日常。そんなモノを奪われたのが悔しいのか? 私は南方として数年間ニンゲンたちの中で生きてきたが、未だに理解できない感情だ。そういう感情が存在すると知識の上では知っていてもな……」
「当たり前だ。お前に人の心が分かるものか」
樹流徒は怒りのままに吠える。大切なものを失う痛みが理解できていれば、サマエルはバベル計画など考えなかったはずだ。
サマエルはふっと息を吐いて笑った。
「第一、理解する必要性が無い。私はオマエ個人やニンゲンの感情について深く知りたいとは思わないのだから。それよりも知りたいのはオマエの記憶だ。オマエは私が持っていない情報を色々蓄えているに違いない」
そう言ってサマエルは樹流徒の頭に手を伸ばす。まるで天使ラファエルが樹流徒の記憶を読み取ろうとした時のように。
まさかサマエルにもその力があるのか?
「オマエの記憶、全て見せてもらうぞ」
どうやら間違いなさそうだった。サマエルは樹流徒の記憶を読み取ろうとしている。
させまいと樹流徒は魔法壁を展開した。二重構造の防壁がサマエルの手を弾く。
サマエルは弾かれた己の手のジッと見つめたあと、路傍に散らばったゴミでも見るような目で樹流徒に視線を戻した。樹流徒の抵抗に対して軽く苛立っているように見える。
魔法壁の消滅と同時、サマエルが目にも留まらぬ速さで手刀を突き下ろした。綺麗に並んだ指が鋭利な刃となって樹流徒の肩を貫く。
新たな激痛に樹流徒は悶絶した。貫かれた胸のダメージも癒えていない。気を抜けば意識を失いそうな痛みだった。そのような状態で反撃や逃走に移るのは不可能である。
「そうだ。そうして大人しくしていれば、しばらく生かしておいてやる」
サマエルは淡々と言って、行動不能になった樹流徒の頭を掴む。そして彼の記憶を瞬時に読み取った。
全てを知ったサマエルは天を仰いで哄笑する。冷静で冷酷な直前までの雰囲気を一変させ、勇猛な闘士の如き荒々しい空気を纏う。
「そうか、そうか。良くやってくれたな、相馬樹流徒よ。オマエが無事現世に生還しただけでも十分嬉しいが、さらにオマエは魔界に滞在中、多くの悪魔を葬ってくれた。私にとって最高の贈り物だ」
「何を言っている……?」
樹流徒の生還をサマエルが喜ぶ理由が分からない。しかし樹流徒が倒した悪魔の数を「最高の贈り物」と言って満足する理由はもっと分からなかった。いくらサマエルが天使であり悪魔に対して良い感情を持っていなかったとしても、喜びようが尋常ではない。
「今すぐそれを理解する必要は無い。嫌でもこの後すぐ知ることになるのだから」
サマエルは落ち着きを取り戻しながら意味深長な言葉を呟き
「それよりも素晴らしい働きをしてくれたオマエに褒美の一つくらい与えてやらねばな」
などと言い出す。まるで樹流徒を手下扱いだった。
ふざけるな。と樹流徒は鋭い眼光で答える。
「そう熱くなるな。では褒美として私の計画について話でもしようか」
「計画?」
「そうだ。私には偉大なる計画がある。果たさねばならぬ使命と言っても良い。それはバベル計画の動機でもある。真実を追い求めてきたオマエならば気になるのではないか?」
「……」
樹流徒は黙って話を聞くことにした。サマエルが言う「偉大なる計画」の内容はたしかに気になるし、話を聞いている間に雀の涙程度でも体のダメージを回復させたいという気持ちもあった。
樹流徒の返事を待たず、サマエルは勝手に喋り出す。もしかすると褒美云々というのは建前で、最初から自分の計画について語るつもりだったのかもしれない。その証拠にサマエルの口調は心なしか程度に弾む。
「数年前、光の者が死んだあの日、私の偉大なる計画は動き出した」
「……」
「ミカエルやウリエルもそうだが、私もまた神の死を最も早く察知した天使の一人だった。私はすぐに行動を起こした。まだ大半の天使が何も知らない内に、私は現世に向かう準備を済ませ聖界を去ったのだ」
「まるで神が死ぬと前もって分かっていたかのような始動の早さだな」
樹流徒の指摘を受け流して、サマエルは話を続ける。
「現世に降り立った私は、バベル計画の舞台となる地を求めて旅に出た。もっとも、旅などと言うのは大袈裟かもしれない。地球上を飛び回っていたら、わずか一日で目的地を発見できたのだから」
「龍城寺にたどり着いたんだな」
「そうだ。バベル計画は現世で最も霊的エネルギーが高い場所で実行される。当時の私は根の国の存在など気付かなかったが、龍城寺に圧倒的な霊的エネルギーが満ちていることは察知できた。この地こそ現世で最もバベル計画を実行するに相応しい場所だとすぐに確信できた」
「……」
「私は南方というニンゲンに扮して龍城寺で行動を始めた。まずは現世で儀式を行いベルゼブブと交信した。神の死、聖界の現状、真の創世記、そしてバベル計画の実行方法をベルゼブブに教え、奴と協力関係を結んだ。天使が神を蘇らせる前に聖界へ乗り込み、奴の復活を阻止しようと話を持ちかけたのだ」
「しかし、お前の目的は神の復活阻止ではないはずだ」
もしそれが目的なのだとしたら、既にサマエルの計画は達成されていることになる。
「無論だ。しかし神は私にとってこの世で唯一の脅威と呼べる存在であり、私の計画を達成する上で最大の障害でもある。ゆえに、奴の復活だけは止めなければいけなかった」
「だからベルゼブブにバベル計画を実行させたのか」
「そうだ。しかし私の予想や期待とは裏腹に神は不完全ながらも復活してしまった。それを阻止してくれたオマエには感謝している」
「お前に感謝されるためにやったわけじゃない」
樹流徒にとって真の黒幕であるサマエルに礼を言われるほど気分の悪いことはなかった。
「分かっている。だが結果的にオマエの働きで神が骸に戻ったのは事実だ」
「……」
「バベル計画には神の復活を阻止する目的の他に、もう一つの目的があった。それは天使と悪魔を戦わせることだ。私の最終目的を叶えるには聖界の戦力が邪魔だった。そのため私は天使に悪魔の軍勢をぶつけようと考えたのだ」
「戦争自体も一つの目的だったのか……」
こんな身勝手な話があって良いのか、と樹流徒は眉を曇らせた。聖魔戦争で多くの兵が死んだ。たとえサマエルの最終目的が何だったとしても、個人の都合のために戦争を起こすなどあってはならない事だった。
不快な表情を浮かべる樹流徒を見て、逆にサマエルは堪え切れなくなったように微笑を浮かべる。まるで樹流徒を怒らせることに愉悦を感じているようだった。そもそもそれが目的でサマエルはこの話を始めたのかもしれない。
これまでの言動を振り返っても、サマエルには相手を挑発しようとする節があった。誰に対してもそうなのか。相手が樹流徒だからこその態度なのか。
そんなことは気付きもせず、樹流徒は一つ疑問を唱える。
「しかし……ベルゼブブはお前の話を疑わなかったのか?」
サマエルはベルゼブブに様々な情報を与え、共に神の復活を阻止しようと誘いを持ちかけた。それらをベルゼブブが全てあっさり受け入れたとは考え難い。
「無論、疑っていたはずだ。だが、私が現世に降り立ちベルゼブブに取引を持ちかけている時点で、もう神がこの世にいないことの証明になっていた。少なくとも神が死んだ事実だけは、ベルゼブブも信じられたはずだ」
「……」
「結果としてベルゼブブはバベル計画完成前に命を落としたが、代わりにオマエたちが計画を実行してくれた。おかげで私の計画は成功したも同然だ」
「サマエル。お前の真の目的は何だ? 光の者の復活を阻止し、天使と悪魔に戦争させて、一体何を企んでいる?」
樹流徒は話の核心に迫る。
するとサマエルから意外な言葉が返ってきた。
「計画の最終目標を話すためには、先に私の正体を明かす必要がある」
「正体? 天使サマエルがお前の正体じゃないのか?」
「いつ誰がそんなことを言った。南方と同様、サマエルさえも、私の仮の姿に過ぎない」
かつてなく嫌な予感がした。樹流徒の背筋に謎の悪寒が走る。
「私の真の名を告げよう」
そう言って、サマエルは、己の本当の正体を明かす。
「我が名は“深遠なる闇を纏う者”。お前には闇の者と言った方が分かり易いかもしれんな」