終戦
終わってみれば聖魔戦争はわずか三日間で決着が付いた。人間のものさしで考えると、三日で終戦というのは極めて早い決着と言えるだろう。聖魔戦争の規模は投じられた兵の数も戦場の面積も人類史の中ではお目にかかれないほど大きなものだったから余計に早かったと言える。例えるならば桁違いに強力な嵐が一瞬で過ぎ去ったような戦争だった。
天使、悪魔ともにかなり多くの戦死者を出した。中には樹流徒が名前を知っている者も何名か含まれていた。海上都市ムウで樹流徒を毒殺しようとしたウトゥック。黄金宮殿で出会い降世祭では樹流徒を応援してくれたタウティとザリチェ。魔晶館の中で樹流徒に変身薬をくれた騾馬の悪魔アドラメレク。共にイース・ガリアへ侵入したルキフゲ。第一天で出会った徒手空拳の天使ファヌエルなどである。
死んだ悪魔は遥か長い時を経て魔界に転生する。それが何十万年先かは分からないが、今回の戦争で亡くなった者たちもいつか新しい命を得て魔界に誕生するだろう。もしかすると天使たちも聖界に転生するかもしれない。
戦争の結果は、光の者の復活阻止という目的を達成した魔界軍の勝利と言って差し支えなかった。
ただ、その事実を天使たちに伝えるのは酷である。多くの天使はそもそも神の復活を阻止された事どころか、その前提にある神の死すら認めていないのだ。そのような状態で真実を告げれば聖界は大混乱に陥り、秩序は完全に崩壊する。ゆえに今回の戦争は、表向きには聖界軍が勝利したということで決着を付けようと決まった。無論、神もまだ生存していることになっている。
意外と言うべきか、この案を最初に言い出したのはルシファーだった。彼も聖界の混乱など望んでいないのだろう。
「感謝する」
ミカエルはそれだけ言ってルシファーの提案を素直に受け入れた。
ルシファーは伝令役の使い魔(白い美しい鳥の姿をした使い魔だった)を飛ばして悪魔たちを全員魔界へ引きあげさせた。一方、ミカエルも天使たちに対して撤退する悪魔を攻撃しないよう命令を発した。今頃その命令が現世まで行き渡り、天使は聖界へ、悪魔は魔界へ、大半の兵が帰還を始めているはずだ。両軍の撤退が完了すれば、龍城寺市内もすっかり静かになるだろう。
神の遺骸は未だ第七天に残っている。だがミカエルにはもう神を蘇らせるつもりはないらしい。今回の件で何か思うところがあったのだろう。具体的にミカエルの考えがどのように変化したかは不明だ。ただ、彼はこう言っていた。
「今はまだ主がご不在であることを同胞に知らせるわけにはいかない。しかし聖界が復興すればいずれ全ての真実を皆に伝えるつもりだ。そして我々天使が主の庇護下から巣立てるように最大限努力しよう」
そのあとミカエルとルシファーはどちらからともなく抱擁を交わした。
また、ミカエルは詩織に対して取った行動に対して一部謝罪した。
「私は自分の行いを過ちだったと認めるわけにはいかない。ただ、我々の目的のために汝を利用したことは心から詫びよう」
地面に片膝を着き、軽く頭を垂れてそう言った。
詩織はあっさりミカエルを許した。
「私も相馬君も無事だったし、アナタを責めても仕方ないもの」
もう過去のことだ、と彼女はさらりと、淡々と、水に流してしまった。
ちなみに第六天で行なわれていたガブリエルとメタトロン、ウリエルとサンダルフォンの戦いはそれぞれ決着がつかず、ミカエルの仲裁によって止められた。
ガブリエルは詩織が無事に救出されたことを知って大いに喜んでいた。メタトロンとサンダルフォンは神の復活が失敗した事に酷くショックを受けた様子だったが、ミカエルから事の顛末を聞いて、納得はできないまでも理解はした様子だった。
一方、神の復活を阻止しようとしていたウリエルは喜ぶかと思ったが、彼もまた複雑な胸中を面に出していた。ミカエルたちの手前、気を遣ったという理由も考えられる。
思いはそれぞれだ。ミカエルたちだけではなく、この戦争に参加した全ての者が何かを感じているはずである。喜び、悲しみ、怒り、失望。中には死にたいほどの苦しみを抱えている者もいるかもしれない。それでも彼らは生きている。皆、新しい明日を歩き始めるのだ。
かつて天使と悪魔は同じ一つの種族だった。故郷である魔界で皆が平和に暮らしていた。今回の戦争をきっかけに、いつか彼らが共に同じ世界で暮らせる日が訪れるかもしれない。もっともそれを現実にするにはまだまだ時間がかかる。乗り越えなければいけない障害も多いだろう。
「でも、いつかそんな日が来るといいな」
樹流徒の何気ない一言に、ラファエルやガブリエルは深々と頷いていた。
そして今……樹流徒たちは第七天にいた。空も大地も全てが白の世界で、ルシファー、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエル、メタトロン、サンダルフォン、そして詩織。計九人で輪を作って立っていた。ルシファーとミカエルが中心となって、主に戦後処理について話し合っているのである。今後の天使と悪魔の関係。バベルの塔を消滅させるか否か、消滅させる場合はどのような方法を取るか。それを誰がやるか。神の遺骸をどこに安置するかなど、交換しなければいけない意見は山ほどあった。
その中でも真っ先に決まったのは、バベルの塔に関する取り決めだった。
結論から言えば、バベルの塔は全ての兵が聖界と魔界へ撤退を完了させ次第、すぐ消滅させることになった。
ルシファーによるとバベルの塔は時間が経過すれば自然消滅するが、それまでには数十年という歳月を要するという。しかし現世で儀式を行なえば塔を簡単かつ安全に消すことができるらしい。それにより龍城寺市を覆う結界(塔の内壁)は消滅し、聖界への通路も全て閉じるのだ。余談だがこの情報をルシファーに与えたのはリリスだった。リリスは表向きベルゼブブに協力しながら、裏では少数の協力者と共にバベル計画について密かに色々と情報を集めていたのだとか。彼女の働きがなければバベルの塔を消滅させる儀式の方法は分からなかったし、そもそも真バベル計画の実行方法も分からなかっただろう。
また、龍城寺市と魔界は三つの扉により繋がったが、それはバベル計画の一環であり、バベルの塔とは関係ない。つまりバベルの塔を消滅させても龍城寺市と魔界は繋がったままなのである。
これについては問題が少々複雑だった。というのも、三つの扉のうち二つはすぐにでも閉じることが可能だが、残り一つ――愛欲地獄に存在する扉だけは、儀式を実行する時期が限定されるため、バベルの塔みたくすぐ元通りにできるわけではないらしい。儀式が可能になるまでの間、龍城寺市と魔界は一つの扉で繋がったままという状態になる。
「三つの扉は同時に出現したのに、一度に閉じるのは無理なのね」
詩織が素朴な疑問を唱えると、ルシファーが答えた。
「それは三つの扉を同時に開けられる時期を狙って、ベルゼブブがバベル計画を実行したからだ」
それで詩織は納得したし、丁度同じ疑問を持っていた樹流徒も納得できた。
「まず魔界に戻ったらすぐに二つの扉は閉じよう。もう一つの扉は出入り禁止にして、悪魔が勝手に現世へ行けないようにする。逆にニンゲンが魔界に迷い込まないように、儀式を行えるまで魔界側の扉を物理的に塞いでおこう」
というルシファーの意見が採用され、この問題は一応決着がついた。
さて。他にも話さなければいけないことは沢山あった。脱獄したガブリエルの罪は簡単に許されたが、聖界で反乱を起こしたウリエルの罪まで許されたわけではない。ウリエルは「私は牢獄に戻っても構わないが、私の仲間たちは解放して欲しい」とミカエルに訴えていた。
また、メタトロンやサンダルフォンは樹流徒と詩織の扱いについて喋っていた。二人は神の力を持つ者。このまま現世に帰して良いものかどうか、現世に帰した場合は監視をつけるべきか否か、相談しなければいけないのだろう。
そして樹流徒もミカエルたちに話しておきたい事があった。
聖界の旅が終わり、詩織も無事に救出できた。しかし樹流徒の旅が終わったわけではない。そう。バベル計画の真の黒幕がまだ見付かっていないのだ。ベルゼブブに聖界の情報を流し、バベル計画の実行方法を教えたという謎の天使。その黒幕を倒さなければ樹流徒は戦いを終われない。
黒幕はいずれ樹流徒の前に姿を現すだろう、とベルゼブブは言っていた。だがいつどこから現れるかも分からない敵を、樹流徒はジッと待つつもりはなかった。
そこで彼はミカエルたちに話を聞いてみることにしたのである。ベルゼブブに聖界の情報をリークした天使に心当たりは無いか、皆に尋ねてみた。
「心当たりというほどではないが、気になっている存在ならば一人だけいる」
そう答えたのは銀髪の巨漢天使メタトロンだった。
「気になっている存在? それは?」
「サマエルという者だ」
初めて聞く名前だった。
「サマエルは私たちと同等かそれ以上の実力を持つ天使です。しかし彼は主が永眠された直後に聖界から姿を消しました。彼ならば密かにベルゼブブと接触して聖界の情報を提供できたかも知れませんね」
そうガブリエルが教えてくれた。
「じゃあ、そのサマエルという天使の居場所は?」
「不明だ。少なくとも聖界内にはいない、としか答えられない」
ミカエルが言った。
ならば樹流徒はこのあと天使サマエルを探す旅に出なければいけない。サマエルが黒幕という確証は無いが、他に手掛かりがない以上、その天使を探すしかなかった。仮にサマエルが黒幕ではなかったとしても、彼(女)を探している間に黒幕の方から樹流徒の前に姿を現してくれるかもしれない。
「これは何の根拠も無い憶測だが……」
と、ここでサンダルフォンが口を挟む。
「今回の戦争で我が軍の中に妙な動きをする者たちが少なからずいた。もしかすると彼らはサマエルと関係しているのではないか。私はそんな予感がしてならないのだ」
そういえば天使たちの中には戦闘を極力控え自分の生存を最優先している者たちがいた。結局彼らは何が目的だったのだろうか。ただ生き延びたかったのか。神の不在を疑い悪魔との戦いを拒否したかったのか。それともサンダルフォンの勘が的中しているのか。
「レミエルの件もある」
とラファエル。詩織を攻撃した天使レミエル。彼の行動の動機も分かっていない。同時にレミエルが有していた強力な力――詩織の体に灰化現象を起こした力の存在も不可解である。本来レミエルにあれほど強力な力はなかったはずだ、とミカエルは言っていた。こちらの問題もサマエルと関係あるかどうかは不明だが、気がかりであることには違いなかった。
何やら雲行きが怪しい。戦争は終結したというのに、もうひと波乱ありそうな雰囲気だった。
「もしサマエルについて何か分かった場合、イブ・ジェセルというニンゲンの組織を通じてキルトたちに情報を送れば良いのではないか?」
ミカエルがメタトロンに提言する。
メタトロンは肯定も否定もせず「イブ・ジェセルか……」と鸚鵡返しに答えた。
この場でその組織名が出たのはかなり意外だったが、話を聞いてみればメタトロンこそがイブ・ジェセルを管理している天使なのだという。そもそもイブ・ジェセルという組織を人間に命じて発足させたのもメタトロンだというのだから、樹流徒には急にこの天使が大物に見えた。もしこの場に仁万がいたら、組織への愛と忠誠心が最も深い彼のことだから、興奮のあまり卒倒していたかもしれない。
「そういえば……」
イブ・ジェセルの話になって樹流徒は重要な事を思い出した。
渡会と南方の件である。現在二人は組織および天使に対する反逆罪に問われている状態だ。しかし組織の統率者であるメタトロンの一声があれば、二人を無罪放免にしてもらえるかもしれない。もっとも南方は既に死んでいるかもしれないが……
二人のことをメタトロンに伝えると、メタトロンはサンダルフォンと数十秒程度の話し合いをしてから樹流徒に回答した。
「承知した。ではその二人を罰さないよう組織に命じておく」
意外と言っては失礼かもしれないが、寛大な処置が下された。
樹流徒は内心で胸を撫で下ろした。これで渡会と南方が組織から処罰を受けることは無くなる。イブ・ジェルのメンバーたちも喜ぶだろう。
「でも、早雪ちゃんたち大丈夫かしら……」
詩織が組織の面々を心配する。聖魔戦争で龍城寺市全域が戦場になった。果たしてメンバーが全員無事かどうかは分からない。
「あの人たちなら大丈夫だ。きっと皆無事だよ」
樹流徒は希望的観測を述べ、詩織は「そうね」と同意した。
「さて。私はそろそろ魔界へ戻らなければいけない」
ルシファーが光輝く翼を広げる。戦後処理の話し合いが必要だったとはいえ、魔界軍の王がいつまでも聖界に残っているわけにはいかない。神の不在を疑っている天使たちに妙な疑念を抱かせないためにも、彼は早々にこの地を去る必要があった。
それは樹流徒たちも似たようなものだろう。そもそも人間が聖界にいること自体、天使たちにとっては不自然極まりない。詩織が何らかの方法で天使たちの目を避けて第六天まで連れてこられたのも、そうした理由があったからだ。
「じゃあ、俺たちもなるべく目立たないように現世へ帰ろう」
「そうね……。帰りましょう。私たちの世界へ」
樹流徒と詩織はそう言い合った。
ところが、いざ二人が別れの挨拶を告げようとすると、メタトロンの口から予想外の言葉が飛び出す。
「気の毒だが、オマエたちを聖界から出すわけにはいかない」
「なぜ?」
詩織が理由を問う。
「先ほどからサンダルフォンと話し合っていたのだが、オマエたちが持つ力は野放しにしておくにはあまりにも危険だ。現世に戻すわけにはいかない。たった今その結論が出た」
「待ってください。キルトもシオリも主の御力を悪用するようなニンゲンではありません」
ガブリエルが異を唱える。
それにはサンダルフォンが対応した。
「たとえこのニンゲンたちが力を悪用しなかったとしても、彼らを利用する者が現れる危険性は排除できない。それとも確実に彼らが誰にも利用されないと断言できるのか?」
「それは……」
ガブリエルは答えに窮した。
「ならばどうしろと言うんだ? まさか俺たちに聖界に残れと言うのか?」
樹流徒が言うと、メタトロンは真正面から肯定した。
「その通りだ」
「しかし彼らは好きで主の御力を得たわけではない。むしろ力を得たせいで事件に巻き込まれた、ある意味被害者と言っても良い者たちだ。それを我々の都合で聖界に閉じ込めるのは些か乱暴ではないかな?」
口を閉ざしたガブリエルに代わってラファエルが反論する。
「そもそも一体何を問題視する必要がある。もし神の力を利用しようとする愚かなニンゲンが現われたら我々が裁きを下せば良いだけではないか」
ウリエルも乱暴な論調ながらラファエルを援護した。
天使たちの意見が真っ二つに割れた。
「汝はどうなのだ? このニンゲンたちの処置について、どう考える?」
メタトロンは天使の長であるミカエルの意見を求める。恐らく彼の答えがそのまま天使たちの最終意思決定になるのだろう。
ミカエルは既に自分なりの考えを用意していたらしく、即答する。
「結論から言えば、最低でも片方には聖界に残ってもらいたい」
「片方とはどういうことだ?」
「私は基本的にはガブリエルたちと同意見だ。主が永遠の眠りに就かれた今、できれば二人を無理矢理聖界に閉じ込めるような真似はしたくない。彼らを利用しようと企む者が現われれば、ウリエルが言った通り、相応の処罰を下せば問題ないだろう」
「では、なぜ片方は聖界に残らなければいけないのですか?」
「万が一のためだ。仮に二人が力を悪用するつもりが無く、また彼らが誰にも利用されなかったとしても、彼らの意思とは無関係に不測の事態が起こる危険性は無いと言い切れない。だから最低でも一人は聖界に身を置いてもらい、力の監視と研究をさせてもらう必要がある」
「確かに不測の事態が起こらないとは断言できないね。主の暴走を見てしまったから、余計にそう思うよ。キルトたちが宿している力は今の我々が制御や解析できるものではないんだ」
ラファエルがミカエルの意見に歩み寄る。
「そういうことだ。だから不測の事態に対処するための研究を行なうためにも、彼らの協力が必要なのだ」
理屈は通っていた。そして誰よりも穿った意見だった。その証拠にミカエルに反論する者はいない。
「しかしこれはあくまで私の希望に過ぎず、強制するつもりはない。あとは汝ら自身が決めると良い」
ミカエルは、樹流徒たち本人に決定権を委ねた。
樹流徒と詩織は顔を見合わせる。どちらかが聖界に残るか。あるいはミカエルたちの意見を拒否して二人で現世に戻るか。でなければ二人とも聖界に残るか。
答えたのは詩織だった。
「今すぐ返事はできないわ。よければ相馬君と二人で話をする時間を貰えないかしら」
「そうだな。それが良い」
ミカエルはあっさり承諾する。
「二人きりにして良いのか? 密かに逃げられる恐れもある。もし彼らが現世に戻るならば監視をつける必要があるのだぞ」
サンダルフォンが懸念すると
「心配は無用だ。この二人は黙って逃げるような真似はしない。責任は私が取る」
ミカエルは迷わず言った。