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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
聖界編
342/359

鼓動



 純白のドレスに赤い花が咲く。それは少女の血によって描かれた薔薇の大輪だった。


 詩織の胸を射抜いたのは天使だった。聖界の住人が身につける衣を纏い、白い翼を背負っているので間違いない。若い男の姿をした長身の天使だった。銀色の髪を肩よりも下まで垂らし、刃物のように尖った目の中で青い虹彩を輝かせている。

「レミエルか! なぜ汝がここにいる?」

 ミカエルは上空に出現した天使を驚きの目で見た。


 レミエルは第六天でガブリエルが遭遇した天使である。本来であれば彼は第六天に踏み入る権限を持っていないが、何故か白亜の塔付近に広がる森に潜んでいた。そのレミエルが今度は第七天に姿を現し、あろうことか詩織を攻撃したのである。


 第六天と第七天を繋ぐ台座はサンダルフォンとメタトロンが守護しているが、彼らは現在ウリエルやガブリエルと交戦中だ。その隙を突いてレミエルが第七天に侵入するのは、さほど難しくなかったと思われる。

 樹流徒たちはレミエルの凶行を止められなかった。天使が姿を消して近くに潜んでいるなど、誰も気付けなかったし、想像できなかったのだ。もし樹流徒たち四人の内誰か一人でもそれに気付いていれば、レミエルの攻撃から詩織を守れただろう。

 神の機能が完全停止した直後、樹流徒たちは精神的余裕を欠くなどの理由で周囲を警戒する余裕がなかった。また四人の注意は主に詩織や神へと注がれていた。その瞬間をレミエルが狙っていたかどうかは不明だが、結果的に樹流徒たちは侵入者の自由を許してしまった。


 それにしても不可解なのはレミエルの行動目的である。レミエルはおそらく神ではなく詩織に狙いを定めて攻撃した。一体何のためにそのような真似をしたのか。まさか気が触れたわけでもないだろう。


 もっともレミエルの行動にいかなる理由があろうと、樹流徒はそれを許すわけにはいかなかった。

 できれば今すぐレミエルに飛びかかりたい。彼に一撃見舞った上で、詩織を攻撃した理由を問いただしたい。胸の内から強烈な衝動が沸き起こってきた。

 本来その衝動に抗う必要は無いのだろう。しかし樹流徒は抗った。レミエルを攻撃している暇があったら詩織を助けなければ、という気持ちが不意に働いたからだ。

 樹流徒は頭上の天使を睨むと、神の遺骸に向って駆け出す。その後姿をレミエルは冷たい目で見下ろしていた。


 神の元にたどり着いた樹流徒は、爪を使って詩織を拘束するものを貫く。神の肉体はもう再生能力を発揮しなかった。ラファエルの表現を借りるならば、今の神こそまさしくタダの抜け殻に過ぎない。

 いとも簡単に詩織を救出できた。彼女の体に異常は無い。樹流徒の能力により心臓が停止していることと、その心臓をレミエルの弓に射抜かれたことを除けば、だが。

 詩織の胸に咲いた血の薔薇を見て、樹流徒は立ちくらみを覚えそうになった。


「レミエル。汝には色々と説明してもらおう」

 ミカエルの鋭い眼光が上空の天使に向けられる。

「私から情報を引き出すのは無理ですよ」

 レミエルは臆さず相手を睨み返すと、掌に大きな雷の玉を浮かべた。

 玉はすぐに弾けて辺り一帯を眩い光で照らす。余りの眩しさにラファエルは腕で目を隠した。

 突き刺すような閃光の中で、レミエルの姿が忽然と消える。ガブリエルから逃げたときと全く同じ手口だった。

 もしそれがこの場にいる全員に通用すると思っていたのだとしたら、レミエルは迂闊だったと言わざるを得ない。


 ミカエルが宙を舞っていた。激しい光に向かってはばたく彼の姿は、太陽に近付くイーカロスを連想させる。

 薄く閉じられた瞳は少し眩しそうにしながらも、迷わず空の一点を注視していた。ミカエルは光の発生源に近い高さまで到達すると、虚空から剣を抜き放って振り下ろす。一見そこには誰もおらず、彼の攻撃は無人の場所に対する見当違いな攻撃に見えた。

 だがミカエルの剣は明らかに空気以外の抵抗を受けて減速する。振り下ろされた刃がそこに潜む者を切りつけたためだった。


 悲鳴も怒号も断末魔も無い。ただ地面でボトッと淡白な音がして細長いものが転がった。それがレミエルの腕であることに樹流徒が気付くまで、若干の時間を要した。


 透明化していたレミエルの姿が現われる。ミカエルに片腕を切り落とされながらも、レミエルの表情は誰もがぞっとしそうなほど冷静だった。まるで操り人形のようだった。


 ルシファーの手から一筋の柔らかな黄金の光が放たれる。光は逃げようと身を翻したレミエルの体に巻きついて鎖となった。あのベルゼブブさえをも行動不能にした黄金の鎖である。レミエルの体は抵抗するが鎖から抜け出せず、翼を広げることも叶わずに白い大地へ激突した。その姿もまた海原に墜落したイーカロスを連想させる。

 墜落したレミエルは仰向けに倒れて動かなくなった。まだ死んではいない。聖魂は発生しておらず、うつろな目は遠い空に浮かぶ紫の惑星を見上げていた。


「ルシファー。彼女を助けてくれ」

 詩織を横抱きに抱きかかえた樹流徒がルシファーの元まで駆けてくる。悔しいが樹流徒には他者を蘇生する力も傷を癒す力もない。ルシファーに頼る他無かった。

 詩織の体は慎重に地面へ寝かされた。

 ルシファーが詩織の胸に手を当てる。彼の掌から黄金の光が広がると、血で赤く染まったドレスが見る間に元の純白を取り戻した。新たな血が広がってくる様子も無い。そして心なしか詩織が呼吸をしているように見えた。

「どうなんだ? 彼女は助かったのか?」

 樹流徒は回答を急かす。詩織は生き返ったのか? レミエルに射抜かれた胸の傷は塞がったのか?


 答えは決して良いものではなかった。

「蘇生は成功した。傷を癒す能力はあまり得意ではないが、何とか止血にも成功した。しかし彼女は完治していない」

 ルシファーは若干眉を曇らせている。

「完治していないって、どういう意味だ?」

 蘇生も成功して胸の傷も修復できたならば、完治したと言って良いのではないか。

 そう思った矢先だった。


 詩織の体に異変が起こる。彼女の手を見ると、指先が変色していた。皮膚が灰色に染まっている。というより、それは灰そのものだった。詩織の手が灰になってサラサラと崩れ始めているのだ。

「何だ、これは?」

 恐ろしい夢を見ているような錯覚に樹流徒は襲われた。それほど奇妙であり、絶望的であり、現実の出来事として受け入れがたい光景が、彼の視界に映し出されている。


 詩織の体を灰に変えているものは恐らくレミエルの攻撃の効果だろう。樹流徒が信じられないのは、ルシファーほどの実力者がその効力を止められないことだった。

 それについてはルシファー自身も、ミカエルも甚だ意外らしい。

「この灰化現象は恐ろしく強大な力により引き起こされている。回復は困難だ」

 ルシファーが言うと

「おかしい。なぜレミエルにこれほどの力がある?」

 地上に降り立ったミカエルが、詩織とレミエルを交互に見やる。

 片腕を失い光の鎖に捕らわれたレミエルは、いつの間にか観念したように目を閉じていた。


 極めて緩やかに、目で変化が分からないほどずつ、詩織の体は灰化が進行してゆく。

「伊佐木さんはどうなる?」

「残念だが、私の力では灰化を遅らせることしかできない。このままではシオリは全身灰となって完全に消滅するだろう」

 冷酷な事実をルシファーが告げる。

 樹流徒は改めてレミエルを睨みつけた。殴りかかるような勢いで彼に近付く。そして鎖からはみ出したレミエルの襟首を掴んでねじり上げた。

「なぜ伊佐木さんを撃った? いや、それよりも彼女を救う方法を教えろ」

 レミエルは先の質問には答えなかった。だが後の要求には応じた。

「その少女を救う方法は無い。彼女はもう助からないし、誰にも助けられない。ルシファーが言った通り、そのまま全身灰になって消えるだけだ」

「……」

 樹流徒は絶句し、慄然する。震える手でレミエルの襟首を放り出して、すぐさま詩織の元に戻った。

 詩織の体は両手の指先から少しずつ灰になって、サラサラと流れてゆく。

「ルシファー。彼女を助ける方法は無いのか? 僅かな可能性でもあるならば教えてくれ」

「……」

「頼む。俺にできることなら何でもする」

「残念だがレミエルの言葉は本当だ。彼女を救う方法は無い」

 ルシファーは地面に散った灰の粉に目を落とす。

 ならばラファエルとミカエルはどうなのか? 彼らも詩織を救う方法に心当たりがないのか? 樹流徒は救いを求める目で二人の天使を見た。

 ラファエルとミカエルは揃って沈痛な面持ちをしていた。それが何よりの答えだった。

「そんな……」

 樹流徒の両肩から力が抜けた。


 ラファエルとミカエルは、レミエルの体を挟んで立つ。

「彼の処置はどうする?」

 ラファエルが問う。表面上は冷静だが、レミエルに対する怒りのせいか幾分口調は重い。

「しばらく牢獄へ閉じ込めるか、それともこの場でさらなる処罰を課すか……」

 ミカエルが言うと

「いや、その前にシオリを攻撃した動機を確かめさせてもらおう。なぜレミエルがあれほど強大な力を使えたのかも併せて調べさせてもらう」

 ラファエルがレミエルの額に手を伸ばす。レミエルの記憶を覗こうというのだろう。「詩織を救う方法は無い」と明言していたレミエルだが、本当は何か知っているかもしれない。可能性は極めて低いだろうが、それしか樹流徒たちに残された希望はなかった。


 ところがラファエルの手がレミエルの額に触れた瞬間、それは起きた。

 レミエルの口元が微かに歪む。頬の筋肉は笑みとも不快とも付かない形に歪み、急に見開かれた両の目はあらぬ方を向いた。全身が赤い光を帯び、レミエルを中心に強い熱が広がる。


 樹流徒は以前にもこれと似た様な状況に立ち会ったことがあった。あれはたしか現世でブエルという悪魔と対峙したときだった。もっとも、対峙と言っても樹流徒とブエルは直接対決していない。ブエルは獅子の頭部から腕が生えた異形の悪魔で、強い力の持ち主だった。しかし上には上がいる。ブエルは戦場に乱入してきた夜子の圧倒的な戦闘力にねじ伏せられあっさりと気絶した。その上、夜子の能力により儀式に関する情報を引き出されたのである。

 そして目を覚ましたブエルは、樹流徒たちを巻き込んで死のうとした。自爆という攻撃手段を使って……

 強烈な熱と光を放つレミエルは、まさにブエルが自爆する直前と同じ状態だった。


「自爆する気か!」

 ミカエルもそれに気づく。

 彼は急いでレミエルに手を向けた。白い光の線が地面を走りレミエルを囲う正方形を描く。さらに正方形の各角から光が伸びてレミエルの頭上で交わった。それにより光のピラミッドが完成し、レミエルを閉じ込める。


 思った通りレミエルの狙いは自爆攻撃だった。ピラミッドが完成した直後、レミエルの体から放たれる光が輝度を増して赤から白へと変色し、最後に大爆発を起こした。

 ピラミッド型の防壁が爆発の衝撃を受けてビリビリと震える。内側で激しい炎が揺れた。

 幸いそれが防壁の外に飛び出してくる事はなかった。

 やがて炎は鎮まり、光のピラミッドも消滅する。レミエルの体も跡形もなくなって、その場に残ったのは聖魂だけだった。


 ミカエルのおかげで間一髪、樹流徒たちは爆発に巻き込まれずに済んだ。

 ただ物理的な被害は出なかったものの、レミエルの自爆は樹流徒の心に深い傷跡を残した。

 詩織に完全な死を与えた天使が、捨て身の攻撃により自ら命を断ったのである。

 こんな終わり方があっていいのか? 樹流徒は後頭部を思い切り殴られたかのような衝撃を受けた。

 痛みは頭から胴体へと伝わってゆく。

 樹流徒は思わず胸を押さえた。心臓など無いはずなのに、胸が引き裂かれるような痛みが不意に襲ってきた。涙など出ないのに目がかすむ。息が熱かった。体も熱い。全身が蒸発しそうだった。


 ルシファーは回復能力を使い続けているが、詩織の灰化を遅らせることしかできない。

 詩織の体は徐々に、しかし確実に崩壊してゆく。それは誰にも止められなかった。


 樹流徒は拳を震わせ、地面に叩きつける。

 何もできない無力な自分が情けなかった。たとえ千の悪魔と天使を殺すことができても、たった一人の仲間は救えない。メイジも助けられなかった。そして詩織も。本当に守りたいものだけは守れない。これを無力と呼ばずして何と呼べば良いのか。


 情けない自分への怒りと、運命の残酷さに対する憤りを乗せて、樹流徒は何度も何度も拳を地面に叩きつける。

 その姿があまりにも痛々し過ぎて見るに耐えなかったのか、ラファエルが樹流徒の肩にそっと手を置いた。

「もうやめてくれキルト。心が痛む……」

 電池が切れたように樹流徒の手が止まった。途端、彼の全身は途方もない虚脱感に襲われる。

「いくら世界が助かっても、君が死んでしまったら、君は何のために……」

 それ以上言葉が出なかった。樹流徒はその場で(うずくま)る。


 絶望と無力感に打ちひしがれる樹流徒のすぐ近くで、聖魂はふわふわと揺れていた。魂の輝きは間もなく天に昇り始め、そのまま音も無く、初めから何も無かったかのように消えてしまうのだろう。

 神は再び安らかな眠りにつき、詩織は死に、彼女に永遠の死を与えた者は消えてゆく。

 何一つ救いの無い虚しい結末に誰もが言葉を失っていた。


 その果て、最初に動いたのはラファエルだった。

「キルト……」

 彼が声を掛ける。しかし樹流徒にはもう顔を上げる元気は無かった。もう精も魂も完全に尽き果てた。今度こそこのまま朽ちてしまいたい気分だった。

「キルト」

 ルシファーも声を掛けるが、樹流徒は動けない。動けるはずが無い。

「キルト! シオリが……」

 が、ラファエルがやや語気を強めて言うと、樹流徒は異変を察して顔を上げた。


 目の前で信じられないことが起こっていた。

 奇跡の光景を目の当たりにして樹流徒の全身に電流が走る。


 浮かんで消えるだけかと思われた聖魂が、急に向きを変えて詩織の元に集まってゆくのである。それは樹流徒が魔魂を吸収するときと全く同じ現象だった。

 聖魂は次々と詩織の体内に取り込まれてゆく。

「まさか、これは……」


 ――聖魂吸収能力


 樹流徒が魔魂を吸収する力を持つように、詩織は天使の魂を吸収する力を持っていたのである。そう断言しなければ、今、目の前で起きている現象を説明しようが無かった。


 聖魂を吸収した詩織の体が血色を取り戻してゆく。灰化していた彼女の体が瞬時に再生されてゆく。

「灰化現象は完全に消えた。詩織はもう大丈夫だ」

 あのルシファーが若干興奮気味だった。

「信じられない。こんなことが起こるなんて……」

 一千億年に一度の奇跡でも見るような目でラファエルは詩織を見つめる。

 神と死別により希望を失っていたミカエルの瞳にも微かな明かりが灯っていた。


 絶望が晴れ、希望の瞬間が訪れる。

 もう二度と開くことが無いと思われた詩織のまぶたが、ゆっくりと持ち上がっていった。

 彼女の瞳に最初に映ったのは、疲労と安堵と驚きと興奮と喜びと……感情の一切合切が滅茶苦茶に入り混じった樹流徒の表情だった。

「相馬……君?」

 死んでから今まで意識を失っていた詩織は良く状況が飲み込めていないようだ。少しぼうっとした瞳で樹流徒を見つめている。


 彼女には色々と事情を説明しなければいけない。だが今はそれどころではなかった。気が付けば、樹流徒は衝動的に詩織の体をきつく抱きしめていた。

 詩織は驚きに目を見開き、何度か瞬かせる。そのあと少し不思議そうな表情で、すぐ隣にある樹流徒の顔を見た。

 樹流徒の手は小刻みに震えていた。息も微かに震えていた。

 それを見て詩織は瞳を潤ませ、口元に優しい笑みを浮かべる。もう何も聞かなくても、全てを理解したかのように。


 詩織は樹流徒の背中にそっと両手を回す。

 樹流徒の体内で温かい振動が広がった。それは彼自身の脈動ではなく、彼の体に伝わってきた詩織の鼓動――彼女が生きている証であった。


「私、信じていたから……。アナタを、そしてアナタが信じてくれると言った私自身を……」

 互いが今ここにいるという現実を手探りで確かめ合うように、二人はしばらくのあいだ抱き合っていた。




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