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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
聖界編
341/359

願い



 詩織が目を覚ました。

 突然の覚醒に樹流徒はまず驚き、戸惑った。名状しがたい感情に手が震える。

 少し遅れて喜びと安堵感が湧いてきた。「シオリは生きている」というミカエルの言葉を疑っていたわけではない。しかし自分の目で直接事実を確かめたことで、ようやく彼女が生きているという実感が得られたし、心底ほっとした。思わず口元が緩みそうになった。


 が、それも束の間。和みかけた樹流徒の表情はすぐに硬くなる。

 ひとつ忘れてはいけない事があった。樹流徒が詩織の命を奪おうとした事実である。たとえ事情はどうであれ、樹流徒は彼女の命よりも世界滅亡の阻止を選んだのだ。

 それを意識した途端、樹流徒の心に詩織への罪悪感が蘇ってきた。逆に彼女へ伝えようとした言葉は全て頭の中から霧散してゆく。さっきまであんなに声を張り上げて彼女を呼び起こそうとしていたのに、今は言葉が出なかった。


 詩織もすぐには口を開かなかった。覚醒したばかりで意識が不鮮明なのか、それとも何か感慨深いものがあるのか、彼女は少しのあいだ黙って樹流徒の顔をジッと見つめていた。

 無言と無言。二人揃って言葉を忘れた者のように沈黙していた。


 ややあって、先に口を開いたのは詩織のほうだった。

「相馬君……ありがとう。また助けに来てくれて……」

 彼女は微笑と呼ぶにも控え目な微笑を浮かべる。

 樹流徒は数年ぶりに彼女の声を聞いた気がした。実際はそんなに経っていないのに酷く懐かしい感じがする。同時に微かな違和感も覚えた。今の詩織は普段の淡々とした喋り方とは違い、幾分柔らかい口調をしている。弱弱しく疲れた声にも聞こえた。


 ただ、なにはともあれ彼女に話しかけられて、樹流徒はやっと口が利ける状態になる。

 本来なら再会に相応しい台詞の一つでも言うべきなのだろうが、彼は真っ先に詩織の身を案じずにはいられなかった。

「伊佐木さん、大丈夫か?」

「ええ。状況的に大丈夫と言って良いか分からないけれど、体調は悪くないわ」

「そうか……」

 なら良かったと言いたいところだが、それも状況的に難しい。

「相馬君は? アナタこそ大丈夫なの?」

 他人の心配などしている場合ではないのに、彼女は樹流徒の身を案じる。

 龍城寺タワーで詩織と別れてから、樹流徒の外見はすっかり変わってしまった。それにより樹流徒の体に何か良くない変化が起きていないか、詩織は気遣ってくれたのだろう。

「俺も大丈夫だ」

 樹流徒はそう答えておいた。人間としての肉体を捨ててしまった事など、今の詩織に比べれば何でも無いと思った。だから大丈夫というのは本心だった。

 詩織は「そう」とだけ言って簡単に納得する。樹流徒の言葉を額面通り受け取ったか、今は詳しい話を聞いている場合ではないと思ったのだろう。何しろ周囲の雰囲気や様子を見れば、今が切羽詰った状況であることは誰にでも分かる。(こと)に詩織のような勘の鋭い少女ならば気付かないはずがなかった。


 再会の挨拶もそこそこ、詩織は話を進める。

「ところで、色々と大変なことになっているみたいね」

「ああ。それなんだが、状況を簡単に説明すると……」

「必要無いわ。大体分かっているから」

「え」

「私、アナタたちの会話を聞いていたの。今まで神に体の自由を奪われて目を開けることすらできなかったけれど、意識はずっとあったから。だからアナタたちの声は全て聞こえていた。もちろん相馬君が私に言ってくれた言葉も……」

「そうだったのか」

 ならば詩織はこの場で起きた事を概ね把握しているのだろう。そういえば彼女は覚醒したとき樹流徒が目の前にいる事を少しも驚かなかった。既に知っていたからだ。


 苦悩の末、樹流徒が詩織を殺そうとしたことも、彼女は知っているに違いない。

 謝らなければ、と樹流徒は思った。たとえ如何なる事情があろうと、詩織を手にかけようとした事実を彼女に謝罪しなければ、気が済まなかった。

「伊佐木さん。もう知っているだろうけど、俺は君を殺……」

「相馬君。実はアナタに一つお願いしたい事があるの」

 意図的か、無意識か、詩織は樹流徒に最後まで言わせず言葉を被せた。

 何だか話を遮られたような気がしつつ、樹流徒は聞き返す。

「願い?」

「ええ。勝手なお願いだけれど……聞いてくれる?」

「一体、どんな願いだ?」

 些か唐突なタイミングで飛び出した詩織の要望……。果たして彼女がこんな時に何を願うつもりか皆目見当もつかないが、樹流徒は自分にできることならば何でもしてあげたいと思った。


 しかし詩織の口から飛び出した願いは、樹流徒を戸惑わせるものだった。

 彼女はどこか思いつめた表情で言う。

「アナタの手で私を殺して欲しいの」

 樹流徒は我が耳を疑った。一瞬絶句した。

「いきなり何を言い出すんだ」

 やっと搾り出した声は、自分でもはっきり分かるほど動揺を隠しきれていなかった。

 対照的に詩織は普段のような淡々とした調子に戻っている。

「アナタたちの会話は全て聞いたと言ったでしょう。神の宇宙創造を止めるため、いますぐ私を殺して。それが私の、アナタへのお願いよ」

「しかし……」

 樹流徒は一度はそれをすると覚悟した。途中まで実行もした。だが詩織の目を見て、彼女の声を聞いたことで決意が揺らぐ。

 殺したくない。何とか彼女を救いたい。樹流徒は思わず詩織から視線を逸らした。

「辛い役目を押し付けているのは分かっているわ。でも、お願い」

「……」

 樹流徒は首を縦に振れない。

「アナタは今までに何度も私を助けてくれたわ。もしアナタがいなければ、私は既にここに存在していなかった。だから私はアナタになら殺されても構わない」

「助けたなんて、そんなのお互い様だろう」

 樹流徒も今までに何度も詩織に助けられた。彼女がいなければ樹流徒はとっくにこの世にいなかった。


「諦めるな伊佐木さん。君が目覚めたことで何か状況が変わるかもしれないじゃないか」

 詩織は首を横に振った。

「あのルシファーという悪魔が神の力を抑えてくれているから、いま私はこうして会話ができる。でも神が動き出したら私は再び体の自由を奪われるわ。状況は振り出しに戻ってしまう。神と同化している私にはそれが分かるの」

「何か君を救うための手掛かりはないのか?」

「残念だけれど……。きっと私を殺すしか、神を止める方法は無いのでしょうね」

「だけど俺は、一度は諦めようとしたけど、やっぱり君を助けたい。何か良い方法があるはずだ」

 樹流徒が粘り強く説得すると、詩織の眉がはっきりと曇った。

「ならばどんな方法があるというの? それを探しているあいだに時間切れになってしまったらどうするつもり? アナタや私だけの命じゃない、人間も、天使も、悪魔も、宇宙のあらゆる生命が消えてしまうのよ?」

 精一杯感情を押し殺した声で詩織は言う。しかしこんな感情的な彼女を樹流徒は見た事が無かった。

 返す言葉が無い。詩織の主張は正しかった。樹流徒がいくら頭を絞っても彼女を助ける方法は思いつかない。今ここで詩織を殺さなければ、何もかもが終わる。


 本当にもう選択の余地は残されていないのか。彼女の願いを聞き入れるしかないのか。樹流徒が逡巡していると…… 

「キルト。シオリの言う通りにしよう」

 ルシファーが口を挟む。

「シオリの命を止めるのだ。それ以外に神を鎮める方法は無い」

 樹流徒は鋭い視線でルシファーを見た。「勝手に決め付けるな」よほどそう言い返そうと思った。

 それを寸でのことろで思い留まり、喉まで出掛かった言葉を飲み込む。悔しいが、感情まかせに喚いたところで何の解決にもならない。

 怒りは思考の幅を(せば)める。こういう時こそ冷静にならなければいけない。強く瞼を閉じて、樹流徒は熱くなった感情を必死に抑え込む。


 ルシファーの口から思いも寄らない言葉が飛び出したのは直後であった。それは樹流徒だけでなく、おそらくこの場にいる誰もが予想していなかったであろう言葉だった。

「落ち着くのだキルト。私はシオリの命を止めろ言ったが“蘇生不可能な状態にしろ”とは言っていない」

 樹流徒は目を開けてルシファーを見る。

「それは、どういう意味だ?」

「シオリの生命活動を一時的に停止させれば良いという意味だ。そのあいだは神の機能も完全停止する。再生能力も働かないだろう。その内にシオリの体を神の体内から引き剥がし、蘇生させるのだ」

「蘇生……そんなことが可能なのか?」

「可能だ」

 さも当然のようにルシファーは断じる。

 にわかに信じがたい話だった。ただ、それが事実ならば、まだ希望は残されているのだろうか。

「キルトよ。可能な限りシオリの体を傷つけず、心臓を停止させるのだ。それで彼女を救える」

「……」

 樹流徒の視線は自然と当事者である少女に移った。

 詩織は宙の一点を真剣に見つめていた。ルシファーの提案を聞いて何かを考え込んでいる様子だ。


 考え込まなければいけないのは樹流徒も同じだった。

 ルシファーが提案している内容は理解できた。しかしたとえ詩織を蘇生できたとしても、一度は彼女を殺さなければいけない。果たして自分にそれができるのか?

 微かな望みと、新たな悩みが、樹流徒の脳内で渦巻く。


 そんな彼の背中を押したのは、他でもない詩織だった。どこか一点を見つめていた彼女の瞳は、いつの間にか樹流徒のほうを向いていた。そこには決意の光が宿っていた。

「相馬君。さっきは厳しいことを言ってごめんなさい」

「……」

「アナタが言った通り、まだ諦めるのは早いわね。おかげで私も助かる方法が見つかったわ」

 どうやら詩織はルシファーの提案に賛成らしい。

「でも、君は一度死ぬんだぞ? 恐くないのか?」

「まったく恐くないといえば嘘になるけれど、でも生き返れるんでしょう?」

「確かにそうかも知れないが……」

 なぜそんな平然と言えるのか? 樹流徒は今さながら彼女の度胸に驚かされた。


「ねえ相馬君。魔都生誕が起きてから今まで、色々なことがあったわね」

「え。ああ……そうだな」

 本当に色々な事があった。嬉しい事も、悲しい事も、感動したことも、沢山あった。詩織と行動を共にしたこともその内の一つだ。

「けれど、私は今もアナタという人を良く知らない。アナタは私を仲間と呼んでくれたのに、私を何度も助けてくれたのに、アナタがどういう人間なのか、私はほとんど知らない気がする」

 そうかもしれない。樹流徒は詩織を仲間だと思っているが、彼女のことをどこまで深く知っているかと問われれば、あまり良く知らないのだろう。

「でも……。それでも私は……」

「……」

「私はアナタを信じたい。アナタなら私を救ってくれると信じたい」

 詩織は真っ直ぐ澄んだ瞳で樹流徒を見つめる。

「だからアナタも私を信じて」

「……」

 そこまで言われたら、もう覚悟を決めるしかなかった。

 樹流徒も逃げずに彼女の瞳を見返す。


「私が神の力を抑えていられるのも、そろそろ限界だ」

 ルシファーは表情こそ平静さを保っているが、実際は相当苦しいようだ。良く見れば彼の手が微かに揺れていた。その手から放たれる黄金の光も少し弱まっているように見える。

 樹流徒はルシファーに向かって力強く頷き、もう一度詩織を真っ直ぐ見つめた。

「分かった伊佐木さん。俺を信じてくれ。俺も君を信じる」

 決意を伝えると、詩織は微笑を浮かべて頷いた。彼女の肩が微かに震えている。たとえ後で蘇生させてもらうとしても、これから確実に一度は死ぬのだ。いくら彼女に度胸があっても、怖くないはずが無い。


 樹流徒は考えた。詩織の肉体を傷つけず、苦痛を与えず、彼女の心臓を停止させる能力。そのような能力は思いつく限り一つしかなかった。


 樹流徒の手に黒い光が集まる。これはベルゼブブの居城イース・ガリアに出現した邪霊レギオンの力。物理攻撃ではなく、精神に死のイメージを与えることで、強制的に相手を絶命させる能力だ。これならば詩織の体にはかすり傷ひとつつけず、彼女の生命活動を停止させることができる。


 必ず君を神の肉体から取り戻して、生き返らせてみせる。

 そう心の中で誓いながら、樹流徒は黒い光を帯びた手を詩織の肩に置いた。彼女の体の震えが伝わってくる。それでも詩織は強気な眼差しを崩さなかった。

 二人の後ろではラファエルとミカエルが瞬きすらせずに、これから起きる出来事を見届けようとしている。


 黒い光が速いとも遅いとも言えない速度で詩織の全身を巡り、最後に心臓へと集まった。

 光の塊が詩織の体内へと吸い込まれてゆく。彼女の瞳からふっと光が消えた。

「あり……がとう」

 小さな声で言って、詩織の頭が力なくうなだれる。彼女の呼吸が完全に停止した。

 ほとんど同時、ルシファーの手から放たれていた黄金の光が消える。ルシファーはその場で片膝を着いた。悪魔に体力というものは存在しないが相当消耗している様子だ。たぶん精神力を使い果たしたのだろう。


「終わったのか?」

 ラファエルが一歩前に踏み出す。

 ミカエルは茫然としていた。神は微動だにしない。動力源である詩織を失って元の骸に戻ったのだろうか。

 そして樹流徒は炎の爪を振りかざす。一刻も早く詩織を救出し、一刻も早く彼女を蘇らせるために。彼女との約束を守るために。


 今こそ決着の一撃を――


「キルト!」

 ラファエルの叫び声がした。

 樹流徒は一瞬混乱する。

 甚だ信じられないものを見た。あってはならない現実を目の当たりにした。

 神が動き出したのである。確かに詩織の心臓は停止したはずなのに、神の巨躯が不気味に波打つ。


 異形の腕が無闇に暴れ回り、その内の一本が、虫でも追い払うように樹流徒の体を弾き飛ばした。

 完全な不意打ちを食らった格好になった樹流徒は、体勢を立て直す暇も無く地面に叩きつけられる。

 ミカエルは茫然としたままだった。ルシファーでさえも心なしか当惑気味の表情を浮かべている。

「まさか、シオリの命が消えても活動できるというのか?」

 一歩踏み出したラファエルの足が、三歩後退した。


 二十四枚目の翼がおぼろげな光を帯び始める。宇宙を破滅に導く最後の光だ。

 その場にいる全員の体が硬直した。樹流徒も倒れたまま愕然と神を仰ぐことしかできない。

 宇宙創造が始まる。もう誰にも止められない。三つの世界が滅びを向かえる瞬間が訪れた。


 が、どういうわけか、宇宙創造は起こらなかった。それどころか神の翼に宿っていた全ての光が消えてゆく。

 十二の瞳からも光が消えた。ぐらりと異形の体が揺れる。神は受身も取らず静かに寝転ぶように背中から地面に倒れた。


 自分の視界で何が起きているのか、樹流徒はすぐに理解できなかった。

 だが次第に頭の中で謎が解けてくる。神が完全に停止したのだと気付いた。

 おそらく詩織の心臓が止まっても神は僅かな時間だけ動けたのだろう。走行中の自転車がペダルを漕がなくても少しのあいだ走り続けられるようなものだ。


 宇宙の破滅は、今度こそ本当に阻止されたのである。

「主よ……」

 ミカエルは天を仰いだ。その瞳には雫が揺れているように見える。

 彼が何を思い、何を感じているか、余人には分からない。少なくとも同じ境遇の中で生きてきた天使でなければ、想像すら難しい感情であろう。

 ラファエルにはミカエルの気持ちが分かるらしく、悲しげな目で彼の姿を見ていた。


 樹流徒は地面に叩きつけられた体を起こそうとする。その拍子、背中に凄まじい痛みが走って膝を付いた。神の一撃をまともに受けたのだ。この程度で済んだのはむしろ幸運だったと言えるだろう。

 神の動きを止めるため全力を注いだルシファーも、未だ地に膝を着いたままだった。半ば朦朧としているようにも見える。

 宇宙の破滅を止められたという安心感もあったに違いない。このとき四人全員が、痛みや疲労で動けないか、精神的な油断が生じている状態だった。


 その時を見計らったように動き出した者がいた。


 早く詩織の体を取り戻そうと、樹流徒が痛む体を押して歩き出したときである。

 上空から一瞬、殺気が漏れた。四人全員がそれを察知して一斉に空を仰ぐ。

 そのときにはもう、殺気を放つ者が詩織めがけて攻撃を放っていた。


 上空から降り注ぐ青い光の弓。

 まるで流れ星のように美しく一瞬のきらめきを見せたその弓は、詩織の胸を射抜いた。




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