罪深きもの
聖界の果てでは樹流徒とラファエルの苦闘が続いていた。
神の肉体から詩織を解放する方法はまだ見付かっていない。このままでは詩織を救えないし、彼女を救わない限り神に対して攻撃が出来ず、宇宙創造も止められない。
神からある程度間合いを取った樹流徒は四つの魔法陣を同時展開する。そこから飛び出したのは夥しい植物のツルだった。全部で千には届かないが確実に五百本以上はあるだろう。以前よりも大幅に数が増えている。しかも一本一本のツルが以前と比べて何倍も太く、見るからに頑丈そうだった。
無限に伸びる数百本のツルは獰猛な生き物となって地上と空中の両方から神に飛びかかる。
地上のツルは神の下半身に巻き付いてあっという間に皮膚の大部分を覆い隠した。空中のツルも六本の腕と二十四枚の翼を捕縛する。神は体を前後に揺らして軽く抵抗したが、巻きついたツルは一本も切れなかった。
詩織への影響を考えると神に傷を与えるのは禁物である。だが身動きを封じるだけならば何も問題は無いはずだ。むしろ神の動きを止めることでラファエルが詩織に接近しやすくなる。
「今だ、ラファエル」
樹流徒が頭上に向かって言ったときにはもう、ラファエルが承知済みとばかり動き出していた。
ラファエルは詩織の元に向かって飛翔する。彼の能力で詩織の記憶を読み取れれば、彼女の生死が判明し、彼女を救う手立てが見つかるかもしれない。現状、それだけが樹流徒たちにとって唯一の希望だった。
ただ、今ほど希望という言葉を遠く感じる時はない。なにしろ相手は不完全な状態とはいえ神である。本来、神とは全知全能であり、生きとし生ける者全ての希望と絶望をも自在に操作できたはずだ。そのような真の怪物を敵に回して、樹流徒たちの希望が簡単に叶う道理は無かった。
神の懐めがけて疾走するラファエルの翼は、最大速度を発揮する前に失速し、停止する。
状況が一変したためだ。いつの間にか神の全身に大きな斑模様の光が浮かんでいた。光は皮膚から弾かれて長く伸び、人間ほどの大きさを持つ剣へと形を変える。それらが神を捕縛していたツルを全て切断してしまった。のみならず数十本に及ぶ光の剣は全て神の体から解き放たれ、樹流徒たちを標的にした。
こうなると詩織に近付くどころではない。ラファエルは後退しながら体を左右に往復させて何とか光の剣をかわした。
樹流徒は急いでミカエルの前に立つ。ミカエルはまだうつ伏せに倒れたままだった。彼には攻撃を回避する意思が無い。理由はどうあれ、大人しく神の裁きを受けるつもりなのだろう。そんな彼を放置しておけば確実に死んでしまう。樹流徒が盾になる必要があった。
しかし強力無比な神の一撃を受け止めるのは楽ではない。守りをどんなに厚くしてもし過ぎることは無かった。樹流徒は大地から氷壁を召喚し、氷の盾を装備する。加えて視神経に力を注いだ。それにより接近してくる光の剣が全てスローに見える。
一本目から三本目の剣が、樹流徒の前に立つ氷壁を突き刺して粉々に破壊した。続く四本目の剣が氷の盾も破壊。樹流徒が展開した二重の守りはあっという間に崩れ去った。
五本目の剣が飛んでくる。樹流徒は二重構造の魔法壁で対応した。たった一撃で外側の防壁を破壊される。内側の壁も続く六本目の剣に貫かれて簡単に砕け散った。
光の剣はまだ残っている。
樹流徒は大地から先端の尖った巨大な岩(ベルゼブブ戦以前は小さな岩だった)を召喚した。本来は攻撃用の能力だが、今回は七本目の剣を防ぐ盾となる。
息つく間もなく八本目が迫ってきた。樹流徒は両手から炎の爪を伸ばして交差し、防御を固める。かろうじて剣の軌道を逸らすことができたものの、爪は全部折れてしまった。
残る剣は三本。最後は全部まとめて飛んできた。樹流徒には氷壁や氷の盾を出現させている暇が無い。魔法壁も張れなかった。そしてミカエルが後ろにいる以上、回避するわけにもいかない。
この絶体絶命の窮地を、樹流徒は咄嗟の閃きで乗り切った。
直径二十メートルはあろうかという氷の玉が出現して、樹流徒とミカエルの体を包む。バアル・ゼブルが使用した水の牢だ。水の牢に飛び込んだ光の剣は、シュレッダーに裁断された紙のように細かくバラバラに分かれて消えた。
何とか急場を凌いだ樹流徒は鋼の肉体に変身して神に再接近する。神の攻撃を自分に引き付けて、ラファエルを少しでも詩織に近づきやすくするためである。光の剣を防御するのに変身能力を使わなかったのも、この時のために力を残しておきたかったからだ。
狙い通り、神の攻撃は大半が樹流徒に集中した。炎が、雷が、吹雪が、そして闇と光が、代わる代わる樹流徒を滅するために襲い来る。変身能力により絶対的な防御力を得た樹流徒は自分に向かってくるモノ全てを受け止め、跳ね返した。
その隙にラファエルは詩織に接近する。ただし神は暴走していても迎撃能力を樹流徒だけに費やすほど愚かではなかった。異形の手に開いた口から雷が放たれ、それはラファエルを狙った。
何かしら攻撃が飛んでくることは予測済みだったのだろう。ラファエルは超反応で近距離からほとばしる雷光の隙間を縫い、詩織の元にたどり着く。ほとんど奇跡とも思える技を難なくやってのけた。
ただ、問題はその後だ。ラファエルが詩織の額に指を近付けると、神は虹色に輝く光の膜を全身に張り巡らせた。先ほどと同じ現象である。
伸ばしたラファエルの手は光の膜に触れると強烈な反発を受けて弾かれた。間髪入れず神の体から衝撃波が広がり、樹流徒とラファエルを吹き飛ばそうとする。それを樹流徒は鋼の体で、ラファエルは魔法壁で耐え凌いだ。
衝撃波が通過すると、ラファエルは再び詩織に手を伸ばす。今度こそ成功させる、という真剣な思いが彼の顔に表れていた。初めて会ったときはあれほど穏やかだった彼の表情が、今は恐いほど別人に見える。
しかしラファエルの決意も空しく、結果はただの繰り返しだった。
神の防御能力は連続使用が可能らしい。異形の巨躯が七色の光に包まれて、またもラファエルの手を弾いた。終わりに強烈な衝撃波が発生するところまで今までの繰り返しである。
丁度衝撃波の発生と同時に変身が解けてしまった樹流徒は、ラファエルと共に遠くまで弾き飛ばされた。
二人が体勢を立て直したときには、神が次弾の発射準備を完了させる。
神の手から丸い発光体が十個ほどこぼれ落ちて、宙に浮かんだまま静止する。それら発光体の中に同じ直径のものは一つも無く、ある個体は卓球ボールくらい、またある個体はバスケットボールくらいの大きさを持っていた。
サイズが不一致な球体はいずれも白い光を明滅させながら何の合図も無く三方向へ飛び散る。三方向とはもちろん樹流徒たち三人がいる方である。
樹流徒は今度もミカエルの盾になるべく、彼の前に立った。氷壁と氷の盾、そして巨大な岩を出現させて何とか攻撃を防ぎきる。神が飛ばした光の玉は威力もスピードもあったが、数は少なく動きは直線的で、ラファエルには回避しやすかっただろう。彼も被弾を免れていた。
とはいえ、神の攻撃をやりすごしているだけでは何の解決にもならない。むしろ時間を浪費している分だけ事態は刻々と悪化していた。早く突破口を見つけなければ、樹流徒たち全員を待っているのは滅びの未来である。
そのとき樹流徒の足下から力ない声がした。
「ソーマキルト……ニンゲンの子よ。もう無意味な真似はしなくていい」
振り返ると、ミカエルがすっかり悟りきったような顔をしていた。
「無意味だと?」
「そうだ。何のつもりか知らないが、汝は先ほどから私を庇っている。だがもうそんなことをする必要はない」
「……」
「断っておくが私は今まで自分が取った行動を間違いだとは思っていない。後悔もしていない。主は我々天使を含めこの世に生きる全ての者たちにとって不可欠な存在だ。主を復活させるためにはいかなる犠牲をも払う必要があった」
「伊佐木さんを生け贄にするのもやむを得なかったと?」
「そうだ。よって私はシオリに対する罪悪感は欠片も持ち合わせていない。彼女を救いに来た汝に対しても同じだ。だから、こんな私をもう汝が守る必要は無い。主が滅びをお望みならば私はそれに従うまでだ」
「お前がそう思うのは勝手だ。でも俺がお前を守るのも勝手だ」
やや強引な樹流徒の理屈に、ミカエルは眉を暗くした。
「今の時代もニンゲンとは理解しがたい生き物だ。ラファエルやガブリエルはその不可解さに惹かれたのかもしれんが、私には不快でしかない」
言って彼は目をそらす。その視線が向かった先には地上に降り立ったラファエルの姿があった。
「ミカエル。君は本当に滅びを受け入れるつもりなのか? それが主の御意思だと信じるのか?」
ラファエルは問うが、ミカエルはもう何も答えなかったし、相手の顔をまともに見ようともしなかった。
「私は認めない。主は今の状況を嘆いておられるはずだ」
ラファエルは宙に舞い、諦めず詩織に接近を試みる。何も神に強烈な一撃を見舞おうというのではなかった。ただ詩織に指一本触れれば良いだけだ。しかしたったそれだけが気の遠くなるほど難しい。ラファエルの手は光の膜に防がれ、体は衝撃波により吹き飛ばされる。
樹流徒も諦めず、何度でも詩織に呼びかけた。彼女に声が届くように、彼女が目を覚ますように、声を張り上げた。が、こちらも効果が無い。高い防御力を誇る光の膜は樹流徒の声までをも遮断しているのか。いくら呼んでも詩織は何の反応も示さなかった。
神の一方的な攻撃が続く。異形の手から漆黒の光が膨らんで射出された。樹流徒とミカエルをまとめて飲み込めそうなほど大きな闇の球体だ。飛行速度はかなりあるが、樹流徒ならば十分に避けられるスピードだった。
それでも樹流徒はミカエルの前から動かない。たとえミカエルから何を言われようと、彼を見捨てる気にはなれなかった。なぜ詩織を利用したミカエルを守るのか? その答えは未だ判然としない。強いて言うならば他者の命を守りたいという気持ちに理論理屈による裏付けは不要というだけだった。
樹流徒は氷壁を召喚して闇の球体を受け止める。球体は爆ぜ、漆黒の光が無数の細かな粒となって広範囲に飛散した。だがそれで終わりではない。飛び散った光の粒は集まって数本の光線へと形を変え樹流徒に襲い掛かってきた。
樹流徒は氷の盾で黒い光線を一つ受け止めるが、別の光線に肩を貫かれる。さらに別の光線には足首の辺りを削られた。人間としての機能をほとんど失った樹流徒の肉体だが、幸か不幸か触覚と痛覚だけは残されている。闇の光線に貫かれた肩が激痛に悲鳴を上げた。
一瞬目の前が真っ白になる。体が大きく揺れた。樹流徒は折れかけた膝をふんばり、歯を食いしばって倒れるのを拒否する。仲間の救出したいという一念が彼の体を強烈に支えていた。
「伊佐木さん。目を開けてくれ」
傷の痛みを堪えながら叫ぶ。
誰かの必死な行為や誠実な行いが、人の心を打ち気持ちを動かすこともある。それはきっと人間だけでなく天使でも悪魔でも同じだった。
神に挑み続ける樹流徒の姿を見て心境の変化でも起きたのか。意外な人物が意外な言葉を漏らした。
「シオリは生きている」
言ったのはミカエルだった。
驚いて樹流徒は思わず彼を振り返る。
ミカエルは床の一点をじっと見つめていた。そして今一度、口を開く。
「シオリは死んではいない。また、主のお体から強引に引き剥がしても彼女自身には何ら影響はない」
「なぜ……。どうしてそれを教えてくれるんだ?」
詩織の救出方法を教えることは、神の命を奪う方法を教えるのと同義である。ミカエルという天使は、樹流徒が知る範囲では神に最も忠実なしもべだ。今の今まで暴走した神に命を捧げようとしていたほどの忠誠心を持っている。そのミカエルが、詩織救出に関する情報を教えてくれたのは甚だ予想外だった。
「……」
樹流徒の疑問にミカエルは答えなかった。代わりに彼は立ち上がり、床に膝を着いて頭を垂れ、神に言葉を捧げる。
「偉大なる主よ。これがアナタに対する最初で最後の背信行為です。罪深きこの私をどうかお許し下さい」
神の背中の翼が第十六の光を灯した。滅びのときは目前に迫っている。




