もう一人の門番
広大無辺な草原をはじめ、森、川、山など豊かな自然に恵まれた第六天。
ガブリエルは今なおこの世界にいた。時間的にはもう樹流徒たちと合流していても良いはずの彼女だが、現在は山間の深い谷底にいる。月の光も届かないそのような場所では、ガブリエルの金髪やコーンフラワーブルーの瞳もあまり映えなかった。
彼女の遠く正面には円柱型の台座が佇んでいる。この世界に二つしかない第七天行きの転送装置だ。乗ればガブリエルは樹流徒たちと合流できるだろう。しかしそれを許さない者がいた。彼女の行く手には一体の天使が立ち塞がっている。
それは人間でいえば三十代後半くらいの厳つい顔をした男だった。身の丈三メートルはあろうかという並外れた巨漢で、筋骨隆々の肉体を、白と青の衣に包んでいる。背には立派な六枚の翼が広がっていた。顔立ちといい、体格といい、見た目の雰囲気は天使サンダルフォンと良く似ている。
彼の名はメタトロンといった。細かい素性は不明だが上級天使なのは間違いない。何しろ第六天は天使でもごく限られた者しか立ち入れない場所である。詩織がミカエルに連れられて神の元へ向ったときもメタトロンは第七天におり、ミカエルと対等に口を利いていた。もしかすると彼は聖界内で神とミカエルに次ぐ権力者なのかもしれない。
その上級天使メタトロンが、たった一人で台座の前に立っている理由は明白だった。樹流徒たちの行く手を阻もうとしたサンダルフォンと同様、彼も台座を守っているのだろう。もし神に近付こうとする侵入者がいれば、メタトロンは力尽くでそれを排除するはずだ。彼の堂々たる体躯が「ここから先へは何人たりとも通さない」と威嚇しているように見えた。
立ち往生するガブリエルに向かって、メタトロンは厳しい表情のまま問う。
「ガブリエルよ。何故汝がこのような場所にいる」
「ミカエルと会い彼を説得するためです」
その答えを聞いてメタトロンはやれやれと言いたげに首を振った。
「汝にも困ったものだ。たかがニンゲンの少女一人のために復活の儀式を妨害したかと思えば、今度は脱獄か。一体どうやってあの牢獄を抜け出した? よもや悪魔に救われたわけでもあるまい」
「私を救ってくれたのはある一人のニンゲンです」
「ニンゲン?」
「はい。そのニンゲンは、アナタが言うたかが一人の少女を救うためにここまでやって来たのです。私は彼の手伝いをします。ですから先へ進ませて下さい」
「ならん!」
大喝一声、メタトロンは眉を吊り上げる。
「主に目覚めて頂くため、誰にもミカエルの邪魔はさせない。それがたとえ汝であろうとも」
「……」
はじめから話し合いで解決する問題ではなかった。ガブリエルは何としても第七天に行く必要があるし、メタトロンは誰も先へ進ませるわけにいかない。双方に引くという選択肢は無いのだ。
不幸な話だが、会話で決着がつかない場合は力による問題解決に移行するのはやむを得ない。暴力を嫌うガブリエルは至極残念そうな顔をした。
「どうしても道を譲って頂けませんか?」
「汝こそ何があっても牢獄へ戻るつもりはないのだろう。ならばこれ以上の対話は無意味だ」
「分かりました。では遺憾ながら少々強引にそこを通らせていただきます」
「好きにすれば良い。だが汝にそれができるのか?」
「アナタの実力は理解しているつもりです。たとえ私が全力で戦ってもアナタが命を落とす心配はないでしょう。ですから私は一切の手加減をしません。どうかお許し下さい」
「こちらこそ汝が相手では手加減などできない。全力で戦った結果、誤って汝を亡き者にしてしまってもお許し願いたい」
そして両者の激突が始まった。
先に仕掛けたのはメタトロン。彼はガブリエルに人差し指を向けた。指先から夜空の星よりも小さな光が煌き一筋の閃光がガブリエルの額に狙いを定めて直線を引く。
撃たれたあとでは回避も防御も間に合わない。ゆえにガブリエルはメタトロンの初動に合わせて防御能力を発動していた。彼女が手を伸ばすと魔法壁の形をした光の盾が出現する。
メタトロンの指から放たれた光線が、ガブリエルの盾に突き刺さった。光は拡散して黄金の飛沫となり消滅し、盾はひび割れ砕け散る。相殺だ。
砕け散った盾の奥でガブリエルは反撃の態勢に入っていた。彼女の手には白い弓が握られている。
ガブリエルは弓を構えると、しなやかな指で弦を弾いた。虚空から光の矢が生まれ宙に放たれる。
矢は射られるとすぐに分裂して何本もの細い光線となり、ある一本は目にも留まらぬ速さで直線を引き、別の一本は緩やかなスピードで弧を描き、千差万別の動きを見せた。しかしいずれの光も最終的にはメタトロンに照準を合わせて正確に飛んでゆく。
ひっきりなしに飛んでくる光の矢をメタトロンはダンスでも踊るように華麗な足さばきで回避した。しかも最後に飛んできた矢を素手で掴んでガブリエルに投げ返す。
ガブリエルは跳躍してかわすと翼を広げてそのまま宙に留まった。彼女が伸ばした手の先に白い空洞が生まれ中から銀色の鎖が何本も飛び出す。
鎖はいとも容易くメタトロンの全身を捕縛した。しかしメタトロンに慌てた様子は微塵も無い。たとえ鎖に捕縛されても容易に脱出できるという自信と確信があったのだろう。その証拠に彼は端から回避する素振りを見せなかった。
メタトロンの全身に変化が起こる。彼の額からつま先まで、全身の皮膚がぼんやりと金色の光を帯びた。菩薩が発する後光の如く神々しい光である。
見る間に黄金の天使と化したメタトロンは驚異的な腕力を発揮して鎖を無理矢理引きちぎる。数本に分断された鎖は死んだ蛇のように大地でとぐろを巻いた。
いともたやすく体の自由を取り戻したメタトロンは即、逆襲に移る。彼の全身に満ちた黄金の光が手に集まり大きな閃光となって放出された。
対するガブリエルは今度も逸早く防御能力を発動していた。彼女が突き出した両手の先に色が異なる魔法陣型の盾が七枚出現し、それらが全て重なって虹色に輝く光の盾になる。
黄金の閃光と虹色の盾がぶつかり合った。先ほどよりも数段激しい光の飛沫がほとばしる。戦いから生じた光とは思えないほど清らかで神秘的な輝きだった。閃光と盾はまたも相殺し、色鮮やかな光の粉を振り撒いて完全に消失した。
息つく間もなく次の攻防が始まる。はらはらとガブリエルの翼から純白の羽根が散った。それらは地面に落ちるとすぐに姿形を変えて宙に舞い戻る。白い羽根が変形したのは蝶だった。ガブリエルの瞳と同じコーンフラワーブルーの、世にも美しい蝶である。
数十匹の蝶は極上の甘い蜜に誘われるようにメタトロンの元へ殺到した。
メタトロンは素早く手を振り払う。その軌道上にいくつもの小さな光の玉が生まれ、散弾となって前方の広範囲へ飛び散った。たった一度の攻撃で大半の蝶を打ち落す。残った蝶はたったの三匹。メタトロンがもう一度手を振り払えばあっけなく全滅する数である。
そう思われたのも束の間。残り三匹だった蝶が六匹、六匹だった蝶が十二匹、十二匹が二十四匹……蝶の数が細胞分裂の如く倍々に増えてゆく。あっという間に元の数よりも多くなってしまった。
メタトロンが再び散弾を飛ばしても、生き残った蝶が倍々に分裂を続けながら彼に接近する。メタトロンが後ろに跳んで距離を取っても無駄だった。蝶はどこまで獲物を追尾する。
このままではきりが無い。蝶を全滅させるには、一度の攻撃で全ての蝶を滅ぼすしか無さそうだ。しかし今さらそれが分かったところで蝶はもう手が終えない数まで増殖していた。
迎撃を諦めたメタトロンは魔法壁を張って防御を固める。魔法壁に接触した蝶は小さな青い炎へと変化して、ギチギチと歯車が軋むような、妙な音を立てながら爆ぜた。それにより大半の蝶は消滅する。
残った数匹は魔法壁の消滅と同時にメタトロンの体に取り付いた。そしてギチギチ、ギチギチと、やはり妙な音を立てて青い爆発を起こす。
炎に焼かれたメタトロンの衣には虫食いのような穴がいくつも開いた。一方、メタトロン自身はほぼ無傷と言って良い。彼の体には軽い火傷跡が残っただけだった。
最小限のダメージで攻撃を受けきったメタトロンは特に苛立つ様子も無く戦闘を続行する。彼が両手を出すと掌の輪郭に沿ってややおぼろげな赤い光が浮かび上がった。その形が段々と鮮明になったかと思われた刹那、メタトロンの手から光が放たれる。それも一つではない。手の形をした赤い光が幾つも連なって射出された。
ガブリエルは横に駆けて、迫り来る手形の光から逃れる。彼女の動きに合わせてメタトロンの両手も動き、そこから放たれる光も彼女を追った。
壁際に追い詰められたガブリエルは跳躍すると岩壁を蹴って宙に跳ね返り、翼を使って上昇した。
その動きは予測済みとばかりにメタトロンは次の手を打つ。彼の掌が帯びた光が赤から金へと変色した。
途端、ガブリエルの背後に光の球体が出現する。大人が両手で抱えられるかどうかという大きさをもつその光球は、音も無く花火のように弾け飛んで谷底の闇をパッと照らした。
細かな光の弾丸が飛散する。ガブリエルの背中にも幾千もの光が襲い掛かった。
ガブリエルは振り返る暇すらない。メタトロンの位置からは確実に攻撃が命中したように見えただろう。
別の位置から見れば、光の弾丸はガブリエルの元に一つも届いていなかった。ガブリエルは後ろの状況を目で確認するまでもなく危険を察知し、自分の背後に魔法陣型の盾を展開していたのである。
飛散する弾丸の中で平然としている彼女を見て、メタトロンも自分の奇襲が通じかなったことに気付く。さすがに彼の眉が少し曇った。
ガブリエルは宙で停止すると両手を重ね、水色に輝く巨大な光の螺旋を放つ。まるで大海の渦潮が空から降ってきたようだった。それをメタトロンは手で受け止める。彼の両手は黄金の輝きを放ち、そこから広がる光の波が防壁となってガブリエルの攻撃を遮断した。
光の渦と波が消えたのは同時だった。
「さすがに一筋縄ではいかんか」
メタトロンは控え目な言い方でガブリエルの実力を称える。
ガブリエルも同じ台詞を頭の中で考えていたかもしれない。メタトロンは一筋縄でいく相手ではないだろう。戦闘開始時よりも険しいガブリエルの顔つきがその事実を雄弁に物語っていた。