サイドストーリー(3)
ケルビエルと呼ばれた天使は、全身のシルエットは人間に近かった。頭があり、胴体があり、四肢もある。ただ体の至る場所から目玉と翼が生えているため、表情も見えなければ皮膚もほとんど隠れていた。その姿は樹流徒が第四天で戦った異形の天使と少し似ている。
ガーゴイル三兄弟が森に身を隠していたのは、このケルビエルを恐れていたからだろう。
「そんな。折角ヤツの追跡から逃れたと思ったのに……」
泣き顔がこの世の終わりみたいな声を発した。
正体を現したケルビエルは折り重なった翼の隙間から炎を吹き出す。激しい火の粉を舞い上がると同時、全身に散らばる数百の目玉がカッと光った。
瞳と同じ数だけの光線がケルビエルを中心に全方位へ飛び散る。その内の一つが泣き顔の頬をかすめて遥か後方に浮かぶイワシ島に突き刺さった。固い岩盤の大地に綺麗な丸い穴が開き、穴の輪郭から大量の煙が立ち上る。もし島ではなく生身の悪魔が光線を食らっていたらどうなったか、説明は不要だろう。
三兄弟は身を翻して一目散に逃げ出した。彼らの飛行速度は通常のガーゴイルを遥かに上回っている。貪欲地獄を旅していた当時の樹流徒に匹敵するスピードだ。なにも言語を操れるだけが取り柄の悪魔ではないのである。
ただ三兄弟にとって不幸だったのは、彼らの数段上の速さをケルビエルが持っていることだった。異形の天使は補足した獲物との距離をあっという間に詰めてくる。
逃走からまだ数百メートルしか進んでいないが、怒り顔は逃げ切れないと悟ったらしい。というより初めから分かり切っている事だった。追いかけっこで勝てるような敵ならば最初からわざわざ森の中に隠れる必要など無いのだから。
腹をくくった怒り顔はその場で急停止して素早く振り返る。合わせて他の兄弟二人も急ブレーキをかけた。
「何してるんだよ。早く逃げないと追いつかれちゃうよ」
泣き顔が悲鳴を上げる。
「どうせヤツからは二度と逃げられない。こうなったらオレは戦う」
と怒り顔。
「戦うって……あんな化物、どうやって倒すんだよ?」
「……」
「ねえ!」
泣き顔の問いに対して、怒り顔は何も答えない。それはケルビエル相手に勝算が無いことを暗に認めているように見えた。
現実的かつ冷徹な判断をするなら、三兄弟が全員バラバラになって逃げれば一人はケルビエルの餌食になるだろうが、残りの二人は生存できるかもしれない。要するに一人を囮にして残り二人が助かる方法である。敵と戦っても勝てないという前提がある以上、その方法が最も合理的と言えた。戦って三人とも殺されるくらいなら、せめて二人だけでも助かったほうがマシというワケである。
最善手とも苦肉の策とも呼べるその方法を、しかし三兄弟は選択しなかった。怒り顔一人をその場に残して逃げるわけにはいかない。兄弟喧嘩をすることはあっても彼らは一心同体なのだろう。生きるも一緒、死ぬも一緒。互いの命を足し算、引き算では考えられないのだ。
怒り顔がケルビエルと戦う覚悟を決めたならば他の二人もそれに付き合う。笑い顔が迎撃体勢を取った。泣き顔も手足を震わせながらその場に留まる。
彼らに向かって怒り顔は「逃げろ」とも「一緒に戦ってくれ」とも言わなかった。
天使ケルビエルは三兄弟から数十メートル離れた場所でぴたりと停止する。その瞬間を狙って怒り顔が口から炎の弾を吐き出した。
攻撃を向けられてもケルビエルは静止状態を保つ。互いの実力差を見せ付けようとするかの如く、飛来する炎を真正面から受け止めた。小さな爆発が起こり火の粉が飛び散る。それでも尚、異形の肉体は微動だにしなかった。
ケルビエルにダメージが認められないと見るや、今度は泣き顔が仕掛ける。彼は魔法陣から剣を取り出すと大きく振りかぶって敵に投擲した。
相当焦っていたのだろう。泣き顔が投げた剣は、本当にケルビエルを狙ったのかと疑わしいほど見当違いな方向に飛んだ。前方を見据えた刃はケルビエルの遥か下を素通りしたあと、眼下に広がる森へ落ちてゆく。その大暴投を笑い顔が腹を抱えてケラケラと笑った。およそ笑い事では済まない状況なのだが、彼の場合は恐怖よりも可笑しさが優先してしまうらしい。
ガーゴイルたちの攻撃が虚しく終わると、ケルビエルの目玉が一斉に輝いた。
また光線を放つつもりだろう。ただし先ほどと同じ攻撃では芸がないとでも考えたか、ケルビエルは意外な行動に出る。光線を放つ瞬間、体をボールのように回転させたのだ。それにより目玉から放たれた光線はミラーボールの光みたく動き回った。
光線の数と動きからして回避は困難である。
「あっ」
誰かの驚く声がした。光線の一つがガーゴイルに命中すべくして命中する。
被弾したのは笑い顔だった。動く光線が彼の胸を貫き、肩口に向かって体を引き裂く。
さすがの笑い顔もこのときばかりはいつもの表情でいられない。彼は目をまん丸に見開き、口をぽっかりと開いて、一驚を喫した顔をした。
胸に風穴を開けられた笑い顔――いや驚き顔は、眼下の森めがけて頭から真っ逆さまに落下する。
その光景を間近で目撃してしまった泣き顔は恐怖のあまり気絶したようだ。彼は直接攻撃を受けたわけでもないのに兄弟の後を追って一緒に森へ墜落していった。
あっという間に怒り顔一人だけその場に取り残される。
「おのれ」
元々怒っていた顔がさらに深い憤怒の形相を露わにした。
ガーゴイルは魔法陣から剣を取り出し、ギャアギャアとガーゴイル特有の奇声を発した。怒りや興奮のあまり我を忘れて放った鳴き声に聞こえる。
左右いっぱいに広がったコウモリの羽が空気を叩きつけた。怒り顔はいちかばちかの接近戦を挑む。
ケルビエルは微動だにしなかった。相手を引き付けてからギリギリで回避するつもりか、反撃を狙っているのか、何とも不気味な静止である。だが怒り顔は臆さず突っ込んだ。天使の頭上から飛びかかり、美しいまでに真っ直ぐ掲げた剣の切っ先に渾身の力を乗せて相手の額に振り下ろす。
パキン、と味気ない音がした。ガーゴイルの腕力とケルビエルの硬い皮膚に耐え切れず、剣の刃が真ん中であっさり折れてしまったのである。
怒り顔の闘志までもが折られたように見えた。
ケルビエルの全身に散らばる目玉がクリクリと動いて感情を悟らせない視線をガーゴイルに注ぐ。瞳の一つ一つが最後の標的に光線を浴びせようと妖しい輝きを帯びた。
蛇に睨まれた蛙のように怒り顔は動けない。彼は観念したように目を閉じた。その刹那、瞼の裏に浮かんだのは決して避けられない己の死か。ケルビエルの光線に全身を満遍なく貫かれて蜂の巣になる自分の姿。ケルビエルの翼から広がる炎に焼かれて灰になる自分の姿。どちらにせよ最終的には全身が崩壊して魔魂と化すのが死にゆく悪魔の運命である。
が、消滅したのは何故かケルビエルのほうだった。
これは奇跡か。運命の悪戯か。突如天から溢れ出した緑色の雲がケルビエルの全身を包み、彼の肉体をドロドロに溶かしたのである。一方、ケルビエルのすぐそばにいた怒り顔は寸でのところで緑の雲に巻き込まれずに済んだ。これが偶然ならば恐るべき強運と言うしかない。
すぐ傍で起きた怪現象を怒り顔は見ていなかった。もう駄目だと観念して目を閉じていたので見ようがなかったのだ。
彼は自分がまだ死んでいないことに気付いて恐る恐る目を開ける。真っ赤な瞳がケルビエルの聖魂を映してキラキラと輝いた。
「何だ? どうなっている?」
死ぬはずだった自分が生きている。逆に死ぬはずのないケルビエルがなぜか聖魂と化している。
怒り顔は状況が全く掴めない様子だった。次第に消滅してゆく聖魂を怪訝な顔で凝視するが、そこに疑問の答えは転がっていない。
と、彼の頭に大きな影が覆い被さった。
怒り顔は反射的に頭上を仰ぐ。茫然とする彼の視線の先には、ケルビエルを葬ったモノの正体が浮かんでいた。
紫色の鱗に覆われた巨大な竜が、堂々とした体躯を天空に浮かべている。
「ガルグユ? オマエ、ガルグユか?」
怒り顔は目をぱちぱちと瞬かせる。
彼の言う通り、天空に出現したドラゴンは、ガーゴイル三兄弟の相棒ガルグユだった。ケルビエルの体を溶かした雲の正体は、ガルグユが吐き出した息だったのである。
「なんでオマエがここにいるんだ?」
魔界に置いてきたはずなのに、と怒り顔はさらに目を瞬かせる。
巨竜ガルグユは一声グオンと雄たけびを上げて答えた。
ガルグユがここにいる理由は兎も角、彼が自分の窮地を救ってくれたことは、怒り顔も何となく察したらしい。彼の表情が、怒り顔というよりは笑い顔のそれに近い形を取る。
おーい、と下から呑気な声が聞こえた。
見れば、笑い顔のガーゴイルが気絶した泣き顔を肩に抱えて上昇してくる。
「おお! オマエ生きていたのか」
ケルビエルの光線に撃たれた兄弟が生きていたことに、怒り顔はますます喜ぶ。
ただし喜びはすぐに心配へと変わった。
「体は大丈夫なのか?」
怒り顔は覗き込むようにして笑い顔の傷口を見る。胸から肩口にかけて裂かれた彼の体からは青い血がとめどなく溢れていた。
「ハハハハ。敵の攻撃が何とか急所を外れて死なずに済んだよ。でも凄い痛い。あはははは」
笑い顔は傷の痛みに朗笑する。
「その調子ならまあ大丈夫か……」
怒り顔はつられてフッと短い笑い声を漏らした。が、直後にはそれを誤魔化すように泣き顔を睨んだ。
「こら、起きろ」
気絶している泣き顔の頬を軽く叩く。
一発では起きなかった。引っぱたく手が五往復すると、ようやくである。ううん、と声がして泣き顔が目を覚ました。
泣き顔は不思議そうに辺りを見回す。今まで自分が気絶していたことも、気絶している間に何が起こったのかも、まったく分からない様子だ。しかし怒り顔から事の顛末を聞いて、彼は全てを理解した。
「良かった。ガルグユが来てくれなかったボクたち全員死んでたよ」
泣き顔は巨竜の体に自分の頬を擦りつけて感謝の意を示す。
「でも、どうしてガルグユがここにいるの? 戦争に巻き込んだら可哀想だから魔界に残してきたのに……」
「きっとコイツ、オレたちが心配で追いかけてきてくれたんだよ。な、そうだろ?」
笑い顔は常に嬉しそうな目を一層緩ませてガルグユの足をポンと叩いた。
彼の言葉を肯定するように、ガルグユは長い遠吠えを轟かせた。
「ねえ。助かったのは良いけど、早く下の階層に戻ろうよ。もうこんな世界はこりごりだよ」
ふと思い出したように泣き顔が言う。
正論に思われた。ガルグユに救われ九死に一生を得た三兄弟だが、いつまでも喜んでいる場合ではない。
「分かっている。これ以上先へ進んでも我々の実力では無駄死にするだけだからな。ケルビエル級の天使に囲まれたら、たとえガルグユが一緒でも危険だ」
「そもそも不意打ちじゃなかったらガルグユがケルビエルに勝てたかどうかも怪しいもんね」
彼らは今度こそ第三天に針路を取る。ガーゴイルたちを背に乗せたガルグイユは、下層行きの台座へ向って羽ばたいた。
「なあ、第三天に到着したらどうする?」
巨竜の背に揺られながら笑い顔が尋ねる。
「第三天の天使も決して弱くないからな。第一天か第二天で味方の援護に回るのが賢明かもしれん」
「現世に戻るのもいいかもね」
と、泣き顔。
「そういえば、今、現世の戦況はどうなっているだろうな?」
誰とはなしに怒り顔が尋ねた。ただの独り言だったのかもしれない。
その頃、現世――
バベルの塔と化した龍城寺市内でも依然として激しい戦闘が続いていた。
天使と悪魔は市内のほぼ全域に散らばっている。市内の北西部に建つヌマハシ電機スタジアムも例外ではなかった。同スタジアムは、約三万九千席のシートを保有する全天候型のスタジアム。以前ベルゼブブの仲間が儀式を行なった場所の一つである。
いま、そのスタジアムは数千の天使と悪魔が入り乱れて暴れ回るコロシアムと化していた。
誰もが目に付いた敵を手当たり次第に攻撃している。両軍共に凄まじい勢いで兵の数を減らしていた。もはや殺伐とした雰囲気を通り越して、狂者たちの宴に見える。
その狂った宴の中で、ひときわ活き活きと躍動する者がいた。
人間の三倍はあろうかという巨人の悪魔だ。皮膚の色は赤茶けているが、頭のてっぺんから足首の上までやけに黒々として見えるのは全身が毛むくじゃらのためだった。下半身には生きた獣から無理矢理剥いだようなボロボロの毛皮を巻きつけている。さび付いた銀色のリストとアンクレットを装備し、手に携えた金属製の棍棒は血を固めて作った物のように赤黒かった。
今、コロシアム内は狂気の渦であると同時に流れ弾の渦でもある。
周囲からひっきりなしに飛んでくる攻撃を巨人は何度も浴びていた。敵の攻撃だけではない。味方が外した攻撃も次々と襲い掛かってくる。多分それら全てが巨人を狙った攻撃ではなく、タダの流れ弾だった。
巨人は全身の数ヶ所に傷を負っている。いずれも深い傷ではないが出血を催していた。それも流れ弾により負った傷だろうか。しかしダメージを気にも留めず巨人は戦場を駆け回る。見るからに重たそうな棍棒を片手で軽々と振り回し、次から次へと天使を叩き殺していた。髭の奥で笑う唇は不敵に歪み罪悪感の欠片も感じさせない。蟻を踏み潰す子供のような純粋な残虐さはそこに無かった。巨人は明らかに暴力を楽しんでいた。
今また一体の天使を棍棒で叩き殺した巨人は、赤い瞳をギョロと動かして次の獲物を物色する。滑る視線は偶然近くにいた一体のドミニオンに照準を合わせた。
相手のドミニオンもたったいま悪魔を討伐して次の敵を捜し求めているところだった。両者の目が合えば対決に発展しない道理がない。
巨人が走り出し、ドミニオンが白銀の魔法陣を展開した。魔法陣から光の弾丸がマシンガンの如く連射される。それを胸で受け止めながら巨人は平然と突進した。ドミニオンに迫ると助走の勢いそのまま無造作に蹴りを繰り出す。
ドミニオンは高く後ろに跳んで避けた。さらに空中で翼を広げて後ろ向きに滑空。魔法壁で流れ弾を防ぎながら無事に着地を決める。
「そうそう。さすがにそれくらいは避けてもらわないと張り合いが無い」
巨人は口の端を持ち上げる。心から嬉しそうな笑みだった。
ドミニオンは虚空に魔法陣を浮かべると、中から美しい装飾が施された剣を取り出す。
対する巨人は握り締めた棍棒を横に寝かせながら駆け出した。
ドミニオンはその場で足を止め迎撃の構えを見せる。相手が振り回した棍棒をかわして素早く反撃の一撃を見舞うつもりだったのだろう。彼の狙いは正確だった。巨人は横に寝かせた棍棒を単純になぎ払って空に一文字を引く。
ただ、ドミニオンは相手の動きを正確に予測しながら、相手の能力を完全に読み違えていた。棍棒の動きは直線的で極めて単純だが不気味に速い。おそらくドミニオンの予想を遥かに超えたスピードだった。
回避も防御も間に合わない。なぎ払われた棍棒はドミニオンの剣と腕をまとめてへし折る。
思い切り払いのけられたドミニオンの体は、何とか地に踏みとどまった。
「化物め……」
たった一撃で飛ぶ力さえも失ったらしい。深手を負ったドミニオンはすぐ近くに佇む客席フェンスに向かって、フラフラとおぼつかない足取りで逃れてゆく。
巨人はゆっくりと後を追った。もう放っておいてもロクに戦えないであろうドミニオンにトドメを刺すべく。まさにその瞬間こそが戦いの醍醐味であり至福の瞬間であるように、機嫌の良い笑い声を上げながら歩いた。
ドミニオンはフェンスに背を預ける。その状態でかろうじて立っていられる様子だった。どう見てもまともに反撃できる状態ではない。逃げ場が無いこの戦場では実質瀕死である。
鼻息を荒くして巨人がにじり寄ってくる。
ドミニオンは冷たい目で相手を見上げた。
「“アエーシュマ”。哀れな悪魔よ。覚えておけ。たとえ私を殺しても、オマエはすぐに滅びるだろう。主の意に背く者は全て消え去る運命にあるのだ」
辞世の句とも取れる言葉を放つ。
それを聞いてアエーシュマと呼ばれた巨人はゲラゲラと大声で笑った。
「主だと? まったくオマエらはおめでたい連中だな」
「なに?」
「哀れなのはオマエたち天使のほうだ。なんせオマエたちが主と仰ぐ存在は、もうこの世にいないンだからな」
「……」
ドミニオンは絶句する。なぜアエーシュマが、なぜ悪魔が、そのようなことを知っているのか、という顔だった。
「ウリエルによる反乱が起きたのが何よりの証拠だ。オマエら天使だって本当は神の不在を疑ってンだろ?」
「黙れ」
さすがに神のこととなるとドミニオンは今まで抑揚の無かった形相を鬼に変えて叫んだ。
「言っとくが、たとえ天使が悪魔の元同胞だろうと、オレはそんなコトに興味はねぇ。天使は皆殺しだ」
「……」
片腕を失ったドミニオンはもう片方の手で魔法陣から新たな剣を取り出す。立っているのがやっとの体に鞭打って、最後の力を振り絞りアエーシュマに立ち向かって行った。
アエーシュマは回避する素振りを見せない。突き出したドミニオンの剣がアエーシュマの腹に突き刺さった。
しかしまるで意に介さぬ顔でアエーシュマは腕を振りぬく。分厚い鉄板のような掌がドミニオンの顔を殴打した。ドミニオンは派手に吹き飛び、フェンスに激突して地面に倒れる。
アエーシュマは腹に刺さった剣を引き抜いて棍棒を振り上げた。それは何の躊躇いもなく振り下ろされ、ドミニオンの胴体を押し潰す。
ドミニオンの肉体が崩壊し聖魂がふわふわと舞った頃には、巨人の瞳はもう次の獲物を探していた。
現世で戦っている聖界の先遣隊は基本的に戦闘力の低い下級の天使で構成されている。彼らの実力ではアエーシュマに到底太刀打ちできなかった。
その後も巨人の悪魔は血色の棍棒を相棒に暴虐の限りを尽くし、コロシアム内を蹂躙した。
天使も相当な数の悪魔を葬った。しかしアエーシュマの活躍が大きな影響を及ぼし、最終的に生き残ったのは魔界の軍勢だった。わずか十数名の悪魔を残して、コロシアムから天使の姿が一人残らず消える。
生き残った悪魔の約半数は勝利の凱歌をあげた。残り半数は元同胞の天使とあまり戦いたくなかったらしく、コロシアムを制圧したにもかかわらず揃って沈痛な面持ちをしている。
「なんだ。もう終わりか? 次の獲物はいないのか?」
そしてアエーシュマ一人だけが物足りなさそうに辺りを眺めていた。
戦闘が終わったコロシアムは、半ば廃墟と化したスタジアムに戻る。
悪魔たちは次の戦場へ向かう前に一息ついて疲弊した精神を休めた。一部血気盛んな者や気が早い者はスタジアムの遥か上空で展開されている戦闘へ身を投じる。
「オレも別の場所で戦うか」
アエーシュマはそう言って、スタジアムを去ろうとした。
すると彼がまだ五歩も進まぬ内である。
「待て。天使の臭いがするぞ。こっちに近付いてくる」
狼の悪魔を持つ半人半獣の悪魔が誰とはなしに言う。
アエーシュマの足が止まった。
「なんだ。まだ獲物が隠れてやがったのか」
彼は舌なめずりをすると、狼の悪魔を睨みつけて尋ねる。
「おい、天使はどっちだ?」
それは「近付いてくる天使はオレの獲物だぞ」という命令でもあった。
この場にいる悪魔の中でアエーシュマは圧倒的な強さを誇る。彼の獲物を横取りしようという命知らずは誰もいなかった。第一アエーシュマほど戦いを楽しんでいる者はこの場にいない。天使を「獲物」などと呼ぶのも、この場では彼だけだろう。
「あっちだ」
狼の悪魔は選手入場用の通路を指差す。そちらから歩いてくる天使がいるらしい。
「相手は一匹か?」
「多分」
狼の頭が縦に揺れる。
「なんだよ。どうせなら百匹くらいまとめてかかってくれば良いものを」
アエーシュマは大いに不服そうだ。
「大体天使の先遣隊など、オレ一人でも全滅させられるンだよ」
などと嘯く始末である。
ややあって、選手入場用通路の奥に天使のシルエットが浮かび上がった。
「馬鹿なヤツ」
誰かが気の毒そうに言った。スタジアム内の天使はとっくに全滅したのに、今さら単身この場に乗り込んでくるなんて。しかもアエーシュマを相手にしなければいけないとは、可哀想な天使だ――そう同情したのだろう。
他の悪魔たちも言葉には出さないが、似た様なことを考えているように見えた。皆顔つきは一様に渋い。アエーシュマだけが殺戮の喜びにニヤニヤしていた。この後に起こる事態を誰も予期していなかったのは明らかである。
通路の奥に浮かび上がった天使のシルエットからパッと星が瞬いた。
かと思えば数百の光線が直進したり、緩やかな放物線やジグザグを描くなど、さまざまな軌道で悪魔たちめがけて飛び込んでくる。
アエーシュマの残酷な殺戮ショーとは対極的な、一種芸術的なまでに美しい光景が広がった。飛び込んできた光線はスタジアム内をところ狭しと動き回り互いに交差して戦場の中に一つの抽象画を描く。その巨大絵画の中でほぼ全ての悪魔が閃光に体を射抜かれ絶命していた。短い悲鳴や驚きの声を上げた者も若干名いたが、大半の者はワケもわからない内に死んだだろう。わずか二、三秒の出来事だった。
アエーシュマも光に額と胸を射抜かれたが、彼だけはまだ生きていた。
ただし先ほどまでの笑顔はもう無い。巨人の形相は驚きと焦りで歪んでいた。戦場で暴れ回っていたときの狂気も、嘯いていた時の余裕も、急になりを潜めてしまっている。
十数体の悪魔をあっさり葬った天使は、選手入場口で立ち止まった。
天から注ぐ水色の光を浴びて、背中に広がる十二枚の翼が露わになる。他の下級天使たちとは明らかに一線を画する風貌であり、異質な存在感を放っていた。
「お前は……なぜオマエがこんな場所にいる?」
アエーシュマはあり得ないものを見た顔をした。
十二枚の翼を持つ天使は、何も答えないし、微かな反応すら見せない。ただ目の前の悪魔を葬るために動いていた。
天使の手中に光の槍が生まれる。
「よせ」
アエーシュマは後ずさるが、命乞いが聞き入れられるはずも無い。
光の槍が天使の手を離れ、アエーシュマの腹に突き刺さった。
光は膨張し、まばゆい輝きの中に巨人の存在を溶かしてゆく。
十二枚の翼を持つ天使は、アエーシュマの最後を見届けない。さっと踵を返すと、遥か頭上で交戦している天使と悪魔の視線を避けるように通路の奥へと消えていった。