第二のウリエル
聖界の第一、第二天が風光明媚な憩いの空間だとすれば、第三天は天使たちの居住区かもしれない。
そこには町があった。土地の名前、人口数、そして棲息する動植物や天候の変化さえ、聖界の外から来た者には何一つ分からない。謎に包まれた天使たちの町である。
遺跡じみた神秘的な町だった。岩の大地が棚田のように美しい段差を幾十にも重ね、遥か遠くまで広がっている。赤茶けた岩盤の上には石で造られた白亜の神殿が整列していた。神殿の大きさはどれも一緒で、人間が住む家と比べて大差ない。外観も統一されており、パルテノン神殿を髣髴とさせる建物がズラリと建ち並ぶその光景は一見すると壮麗だった。
岩盤と神殿に囲まれた町の中心は窪地になっている。そこに円形の広場が作られていた。下は石畳で、中央に三角柱の物体が置かれている。直系三十メートル以上の円いレンズを装着した台座だ。高さは一メートルにも満たない。その特徴的な形からして、例の転送装置と見て間違いないだろう。
象頭悪魔ガネーシャの話によると、上層行きの台座と下層行きの台座とでは形状が異なるらしい。上層へ向かう台座が台形なので、必然的に三角柱の台座は下層と繋がっていることになる。
その下層行きの台座が置かれた広場から、十六本の坂が外側に向かって放射状に走っていた。白い透明な鉱物で造られたその坂は幅が広く、異様に長い。全ての坂が神殿の間を駆け抜け、町の外れまで届いていた。
坂の頂上にはそれぞれ台座が一つずつ設置されている。形はどれも台形。つまり十六個の台座全てが、次の世界に繋がっているのである。すでに悪魔の群れが天使の大軍を相手に転送装置を巡る血生臭い攻防戦を繰り広げていた。
前述の通り、この町は一見すると壮麗な景観を有している。整列した神殿も、棚田のように美しい岩の大地も、見事なモノだ。本来であれば「芸術品」と賛辞を送っても良いほどだった。
しかし、いま町全体を良く見渡せば、内乱の影響を受けて様変わりしている場所が酷く目に付いた。神殿の多くが損傷し、崩れ、中にはほとんど跡形も無く消え去っている建物もある。岩の大地には沢山の亀裂が走り、クレーターのような穴も散在していた。
そうした内戦の傷跡が癒えぬ内に、聖魔戦争が始まったのである。芸術的なまでに美しい町は、滅びに向かって姿を変え続けていた。特に悪魔が固まっている広場の被害は甚大だ。地面に敷き詰められた石のタイルは流れ弾により八割方が剥がれ、さながら蜂の巣みたいになっている。巣の中に散らばった悪魔の血と天使の羽根が傷つき倒れていった戦士の数を示していた。それらの中心に存在しながら全く無傷の台座だけが異質な存在感を放っている。
燃え上がる戦火は陽炎のように空気を歪ませ、大量の灰煙が夜空を不吉な色に塗り変えようとしていた。その光景を目の当たりにして、聖界の住人たちは一体何を思うのだろうか。
長い長い坂の上に設置された十六の台座。その一つを守る天使の内に、美しい女性の姿をした者がいた。腰の辺りまで伸びた金色の髪は前方から吹く風を受けて膨らみ、翡翠の瞳は灰色に侵食されてゆく空を見上げている。
「妙な胸騒ぎがする」
金髪の女性天使は呟いた。
ただの独り言だったのだろう。しかし彼女の隣に立つ天使が反応を示した。人間で言えば見た目三十歳前後の、厳つい顔をした男性天使である。
男は励ますというより諭すような口調で、女性天使に声を掛ける。
「“ヴィクター”よ、心配には及ばない。主のご加護がある限り、我々に敗北は無いのだから」
「ええ。それは、そうなのですが……」
ヴィクターと呼ばれた女は歯切れの悪い返事をする。
それが男は少し気になったようだ。
「まさか我々が悪魔相手に不覚を取るとでも?」
「いえ。私たちが悪魔に屈するとは考えていません。しかし……」
「しかし?」
「果たして敵は悪魔だけなのでしょうか?」
ヴィクターはそのような疑問を口にする。
「どういう意味だ?」
男の天使が真意を尋ねると、ヴィクターはやや躊躇いがちに答える。
「第二のウリエルがいないとも限らない。私にはそう思えてならないのです」
「第二のウリエル……。つまり我々天使の中から新たな裏切り者が出たという意味か?」
「はい。その反逆者はすでに動き出しているかもしれません」
「なぜ、そう思う?」
「悪魔の勢いがあまりにも強過ぎます。彼らがこの第三天に乗り込んでくるまでの時間が予想より遥かに早いですし、数も多い」
ヴィクターの指摘に、男は軽く眉根を寄せた。普段抑揚の無い顔をしている天使だけに、彼らの表情の変化は、見た目以上に大きなものに違いなかった。
やや語気を強めて男は言う。
「悪魔が思いのほか攻勢なのは事実だ。が、まだ想定の範囲内に過ぎない」
「そうでしょうか? 私には現段階で異常に見えます」
「ならば本当に反逆者がいるとでもいうのか? 裏切り者の天使が悪魔と結託して我々に牙を剥いていると……汝はそう考えているのか?」
「……」
「思い違いも甚だしい。いくらなんでも悪魔に与する天使などいるはずがない。数年前に失踪した“サマエル”でさえ、そこまではしないはずだ」
「たしかに悪魔と手を結ぶ天使はいないでしょう。ただ、こうは考えられないでしょうか? 誰かが何らかの手段を使って意図的に聖界の守りを弱体化させ、それが結果的に悪魔を勢いづかせている」
ヴィクターが述べた憶測に、男は口元に笑みを浮かべた。無論、微かな笑みである。その表情はヴィクターを安心させようとしている風にも見えるし、彼女の意見を一笑に伏しているようにも見えた。どちらにせよ、男性天使にはヴィクターの心配がただの杞憂としか思えないのだろう。
「誰かが聖界の守備を弱体化させている? それこそ考えられない話だ。一体誰が? どんな方法で? 何のために?」
「分かりません。しかしそこに反逆者の狙いが隠れているのだとすれば……」
「もう一度言わせてもらおう。汝の思い違いだ」
男は断言した。
「それに百歩譲って汝の言う通り裏切り者がいたとしても、だ。その裏切り者が何を企み、何を実行しようと、結局はウリエルと同じ道を辿るだけであろう」
「そうですね……。きっとアナタの言葉が正しいのでしょう」
ヴィクターは微笑を浮かべたが、彼女の瞳から不安の色は消えなかった。
そんなヴィクターの心中を具現化するように、一つの異変が戦場に起こり始めていた。
町の中心で揺れる戦火が次第に外側へと広がってゆく。転送装置を使って第二天から町の広場にワープしてきた悪魔たちが、坂の頂上を目指して侵攻しているのだ。その中に一ヶ所だけ、凄まじい速さで天使の防衛網を切り開いている部分が存在した。
異変の先頭には樹流徒の姿があった。第一天を突破した彼は、その後第二天もあっというまに通過し、この世界にやって来たのである。
第三天を守る天使たちは前二つの世界にいた天使たちよりも格上の者が多く、個々の戦闘能力が高い。無傷でこの世界にたどり着いた屈強な悪魔の中にも不覚を取る者たちが続出していた。だがその難所をものともせず、樹流徒は道を切り開いている。
天使が束になって襲い掛かっても、彼の足止めにすらならない。誰一人樹流徒に指一本触れられず、逃げられるか、返り討ちにあうか、さもなくば後続の悪魔たち葬られる。樹流徒を止めようと別の場所を守っていた天使が布陣を崩してまで味方の援護に回っても、天使側の被害が拡大し、却って第三天の守備を脆くするばかりだった。
加えてもう一つ、樹流徒の出現とは別に、聖界軍にとって不利な現象が起こっていた。
一部と呼ぶには多い数の天使たちが、一斉に妙な行動を取り始めたのだ。彼らはまるで予め示し合わせていたように、揃って攻撃の手を緩め、防御と回避に徹する。それは樹流徒の活躍や悪魔の猛攻に天使が混乱をきたしたために起きた動きではなかった。明らかに天使たちが前もって計画し意図的に起こした行動である。もしそれを計画したのが第二のウリエルだとすれば、ヴィクターの懸念がまさに的中してしまったと言える。
半ば戦闘を放棄した天使の存在により、町の守りは見かけほど強固ではなくなった。視界に映る天使が十いれば、その内の二か三は、台座の防衛などより保身に全力を注いでいる。敵前逃亡といった露骨な行動を取る者こそいないが、ひたすら戦場の隅を飛び回っている者や、盾を構えてジッとしている者たちが大勢いた。彼らの戦いぶりは極めて消極的である。
これと全く同じ現象を、樹流徒はバベルの塔内でも確認した。天使たちの中で不穏な動き見せる勢力が存在することは、最早確定的だ。
その事実に大半の悪魔が気付いていない。彼らは自分たちの勢いが天使を怯ませたと考えているらしかった。勝気な笑みを浮かべている者や、明らかに気勢を上げている者が、あっちこっちにいる。何も気付いていない者、戦いに夢中で何も考える余裕が無い者も、少なからずいるに違いない。天使の守備が不自然に脆いことを、悪魔たちはほとんど不審に感じていない。
「罠か?」
中には疑念を兆す者も少しはいた。あからさまに守りが弱くなった敵の動きを怪しむ。
だが、それを隣の悪魔が「違う」と否定した。
「天使どもの慌てようを見ろ。アレが演技に見えるか?」
彼の言葉通り、天使たちは浮き足立っていた。半ば戦闘を放棄した味方と、勢いに乗る魔界軍に、軽い混乱をきたしている。それが悪魔たちを罠にかけるための演技だとは到底見えなかった。
だからこそ天使の何割かが見せる奇妙な動きは余計に謎であり不気味なのだが、大半の悪魔がそれに気付かない。敵の罠でないと確信できれば、彼らはそこで安心して思考を止めてしまう。
あるいはそれ以上考えたくないのかもしれない。ややもすれば思考は迷いに繋がるから。迷いが生じれば、悪魔たちが得た勢いもすぐに失いかねないから……
「汝ら、なぜ本気で戦わぬ?」
味方の不可解な行動に疑問を唱える天使がいる。
「臆するな。我々は偉大なる主の戦士なのだぞ」
激を飛ばす者もいる。
しかし聖界軍は明らかに勢いを欠いたまま悪魔のさらなる侵攻を許した。先頭を行く樹流徒はもう台座の真上まで来ている。
台座を守る数百の天使が、頭上の樹流徒に攻撃を集中させた。光、弓矢、氷塊、炎等々が乱れ飛ぶ。
樹流徒は空を高速旋回して攻撃の嵐をかいくぐりながら、自身の周囲に青白い光を浮かべた。その光は以前まで三つしか出現しなかったが、七つに増えている。
樹流徒の周囲に浮かんだ七つの光は次々と弾け、あらゆる物質を凍結させる死の光となって地上に降り注いだ。光の柱は射線上にいた天使を飲み込み、岩の大地を氷土と化す。最後の光が地を突き刺したときには、百に近い天使たちが氷漬けになっていた。
その絶大な威力を目の当たりにしながらも、闘志を燃やす天使たちは抵抗をやめない。ゆえに、樹流徒も自身の命を守るため、そして先へ進むため、戦わざるを得なかった。
樹流徒の体に輝く光の線が赤から紫色に変わる。それにより彼はあらゆる攻撃を跳ね返す鋼の肉体を得た。無敵状態になった樹流徒は、台座に照準を合わせると一発の砲弾となって飛び出した。
天使が集中砲火を浴びせても、身を挺して進路を阻もうとしても、樹流徒は止まらない。鋼の体が全ての攻撃を受け止め、行く手を遮る天使を跳ね飛ばし、落下を続ける。彼が台座に乗り、次の世界に向かうのを天使たちは驚きの目で見送るしかなかった。
樹流徒がこじ開けた道が、後続の活路にもなる。
首狩りに遅れを取るなとばかりに、悪魔の群れが台座めがけてわっと殺到した。彼らは天使の攻撃を浴びても怯まない。たとえ片目や片腕を失っても、たとえ隣を走る者が倒れても、前進する。この機を逃したら敗戦が確定するかのような必死さを持って突き進む。歯を食いしばり、仲間の屍を踏み越え、天使に襲い掛かる。
彼ら一人一人が凄まじい闘志を見せているが、中でも一際目を引くのが、金の鬣と群青色の毛皮を持つ獅子の悪魔だった。両手の爪を狂ったように振り回し、目に付いた天使を手当たり次第に始末してゆく。悪鬼のごとき戦いぶりを見せるその悪魔……名をマルバスといった。
マルバスは以前現世で樹流徒と対戦し、共闘もした、非常に好戦的な悪魔だ。
彼はこの戦場でも喜々として戦っていた。たとえ天使がかつての同胞だとしても、光の者に意識を操られていたとしても、そのような事情はまるで意に介していない様子である。
獰猛な獅子の牙が天使の喉笛に噛み付き、肉を食いちぎる。大きな足が地に倒れた敵の頭蓋を踏み砕く。その凶暴さに周囲の味方でさえ身を震わせ、眉をひそめていた。
「光の者も、ミカエルも、そしてキルトも、倒すのはオレだ。全部オレの獲物だ」
マルバスはけたたましい獣の咆哮を轟かせ、前方を塞ぐ最後の天使を爪で葬る。
坂の上に立つ台座の一つが悪魔の手に落ちた瞬間だった。




