徒手空拳の戦士
次の世界に移動できる転送装置がこの世界のどこかにあるはず。ガネーシャの話によればそれは忘却の大樹にある台座を低くしたような形をしているという。となれば、おそらく薄い台形の物体なのだろう。
台座のありかを求めて、樹流徒は矢の如き速さで聖界の空を切っていた。遠くでは少人数同士の戦闘が起きているが、そこに目当ての物は見当たらない。ならば無駄な戦闘は避けて先を急ぐ。
立ち上る煙と乱れ舞う閃光が見えなくなると、その後はしばらくのあいだ無人かつ同じ景色が延々と続いた。樹流徒はかなり高度を上げて飛行しているが、全方位をしきりに見回しても、天使、悪魔、そして肝心な台座の姿はどれも確認できない。緑の丘陵と薔薇の園がひたすら眼下を流れるばかりだった。
聖界に到着してすぐ戦闘になったため、先ほどはこの世界の風光をじっくり観察する暇は無かったが、改めて見てもこの第一天は美しい。美しいだけでなく、初めて訪れた場所だというのに不思議と懐かしい感じもした。ずっと見ていると、あわや今が戦争中であることを瞬間的とはいえ失念しそうになる。それでも点在する焼け野原が目に留まるたび、樹流徒の心は否応なしに現実へと引き戻された。
やがて前方の地上に動く影が見える。草原の中を立派な白馬が駆けていた。悪魔ではなく、聖界に住む動物だろう。背後から追っ手が迫っているわけでもないのに、白馬はまるで捕食者から逃げるように、脇目も振らず必死に走っていた。
馬が駆け抜けた場所からずっと離れた所には数匹の兎が固まっている。彼らは何かを怯え警戒するように身を屈めていた。その頭上では数羽の鳥が同じ軌道で旋回を続けており、仲間に危険を知らせているかのように見える。
単に樹流徒の主観であったり、彼の見間違いなどではなく、この世界の動物たちは明らかに何かを恐れていた。先に起きた内乱が彼らに拭いがたい恐怖を植えつけたのか。でなければ、今この世界で起きている戦争の気配を動物たちも察知しているのだろう。
夢のような美しい自然と、生々しい破壊の跡と、怯える生き物たち……
幻想と現実が入り混じった奇妙な世界を、樹流徒はその後もひたすら進み続けた。
程経て、空の彼方に黒い雲がうごめいているのが見えてくる。青空と白い雲の中で異彩を放つ暗雲。遠目には大量の黒煙が舞っているようにも見えたが、その正体は異形の影だった。数千という悪魔と天使の一団が狭い範囲で乱戦を繰り広げているのである。
なぜその場所にだけ戦力が固まっているのか。不審に思って、樹流徒は目を凝らす。
目標までの距離が遠すぎて鮮明には分からないが、戦場の中心に何やら大きな物体が佇んでいるように見えた。
もしかするとあれこそガネーシャが言っていた台座かもしれない。だからその周りに悪魔と天使が集まって、台座を巡り乱戦をくり広げているのではないか。
そう憶測した樹流徒は覚悟を決めて戦場に身を投じる。
間もなく彼の接近に気付いた天使がまとめて襲い掛かってきた。バナナのように鮮やかな黄色の肌と顔の四隅についた目玉、そして大きな体が外見的特長のパワーが二体。男性型のドミニオンが三体。加えてヴァーチューが一体。ドミニオンとヴァーチューはどちらも人間に近い姿をした天使たちだ。
前方から迫る敵に気付いて樹流徒は虚空から氷の鎌を取り出した。鎌の形状は以前と何ら変わっていないが、驚くべきはその重量。まるで細い木の棒でも掴んでいるかのように軽かった。樹流徒は片手で楽々と鎌を振り回し、前方から迫ってきた天使たちの命を狩る。敵を切ったときの手ごたえも信じられないほど軽かった。水をかき混ぜる程度の抵抗しか感じない。
最初の襲撃を難なく突破した樹流徒の元へ、すぐに新たな敵がやって来た。今度もパワー、ドミニオン、ヴァーチューの混成部隊だ。数は十前後。彼らは遠目から光の弾丸を飛ばし、手に持った槍を投げてくる。
それらをいとも簡単に避けて樹流徒は敵に接近。氷の鎌を振りかざし電光石火の早業で天使たちを撃破した。最後の一体を倒したときにはもう、戦場の端に差し掛かっていた。周囲を飛び交う流れ弾に注意しながら、地上に置かれた謎の物体に視線を移す。
大量に入り乱れた敵と味方の隙間から、物体の正体が見えた。
やはりそれは目的の物だった。直径三十メートルはあろうかという円形のレンズがはめ込まれた台座が芝生の中に佇んでいる。高さは一メートルにも満たないだろう。予想以上に背の低い台座だが、たしかにガネーシャから聞いた通りの形をしている。
驚くことに台座は激しい戦いの中心にいながら傷一つ負っていなかった。至る方向から飛んでくる流れ弾を浴びても平然としている。ベルゼブブの居城イース・ガリアに匹敵するか、それ以上に頑丈な建材で造られているのだろう。円形のレンズも滑らかな表面を保っており、戦場の姿を冷静に映し出していた。
間違いない。あれがガネーシャの言っていた転送装置だ。台座に乗れば次の世界へ、聖界の第二天へ行ける。樹流徒は自分の憶測が正しかったことを確信した。
ひときわ強烈な殺気を感じたのはそのとき。混沌とした戦場の片隅で鬼神の如き強さを発揮している天使が一人いた。短い銀髪を逆立た男性型の天使で、二メートル超の立派な体躯をしなやかに操り、周囲の悪魔たちを次々と撃破している。ただし目を見張るべきはその外見や強さよりも戦い方だ。銀髪の天使は武器も遠距離攻撃も使わず、己の肉体のみを頼りに戦っていた。徒手空拳の戦士である。
現世で戦う先遣隊と違って、聖界内には強力な天使がいる。その事実を樹流徒は初めて確認した。彼の瞳は自然と銀髪の天使に引き付けられる。
相手も樹流徒の存在を認めたらしかった。両者は周囲の敵を退けながら互いの間合いを縮めてゆく。
気が付けば薄い桃色が混じった白雲が足下を流れていた。
戦場の最も高い位置で樹流徒と銀髪の天使は対峙する。間近で見ると、天使は人間で言えば二十七、八歳くらいの精悍な顔つきをしていた。全身に纏った白い衣は返り血で青にまみれている。
「我が名は“ファヌエル”」
意外と言うべきか、天使のほうから名乗ってきた。
正々堂々とした相手の態度に応えて樹流徒も名乗り返す。
「俺は樹流徒」
「キルト……? はて、聞き覚えの無い名だ。しかし無名の低級悪魔にしては強すぎる」
「悪魔じゃない。人間だ」
相手の目を真っ直ぐ見て樹流徒は答えた。今や樹流徒の体内には血液も無ければ五臓六腑も無く、たぶん涙さえも失っていた。ベルゼブブに勝つために人間の肉体は完全に捨ててしまったのだ。しかし心は以前と何も変わらない自分のまま。ならば自分はあくまで人間・相馬樹流徒を名乗り続けよう。それが今の肉体を手に入れたときに樹流徒が出した結論であり、今後一切揺らぐことの無い決意でもあった。
彼の答えを聞くと、ファヌエルと名乗る天使は急に黙り込む。青い瞳で樹流徒の顔をジッと見つめたあと再び口を開いた。
「なぜニンゲンがそのような力を持ち、悪魔たちに混ざって戦っているのだ?」
「仲間を助けるため」
「仲間?」
ファヌエルの眉間に不可解そうなシワが寄る。樹流徒が何を言っているのか分からない、という反応だ。
「現世から連れ去られた人間の少女が一人、この世界にいるはずだ。俺はその人を助けに来た」
もう少し詳しい説明をすると
「馬鹿な。我々天使がこの聖界にニンゲンを連れ込むはずがない」
ファヌエルは目を丸くした。幾分持ち上がった口の端は苦笑を浮かべているようにも見える。
彼の反応から察するに、天使たちは詩織が聖界内にいることを把握していないのだろう。詩織の身柄は何らかの方法で天使たちに見つからないよう密かに第七天まで運ばれたと考えられる。
「ニンゲンよ。この世界に汝が求めている者は存在しない。大人しく立ち去るがよい」
ファヌエルは樹流徒に警告を与える。それは慈悲とも取れた。今すぐ大人しく去れば命は見逃してくれると言っているのだから。
だが警告だろうと、慈悲だろうと、樹流徒は聞くわけにはいかない。
「俺は何があっても第七天に行く。そちらこそ大人しく立ち去ってくれ。できればもう誰とも戦いたくないんだ。天使とも、悪魔とも」
「聖界の平和とこの世の秩序を守るのが我らの使命。それを乱そうとする者たちに背を向けるわけにはいかない」
ファヌエルは即答する。
お互いに引けない理由があるようだ。この天使ならば話が通じるかもしれない、と樹流徒は微かに期待したのだが、儚い希望だった。ならばもう戦うしかない。
先手を打ったのはファヌエルだった。彼は空気を蹴って樹流徒に飛びかかる。速い。そして力強い飛び出しだ。その動き一つだけで、ファヌエルがこの戦場にいる他の天使や、悪魔よりも数段上の実力者だと樹流徒には実感できた。けれど彼にとってはそれだけの事実に過ぎなかった。
悪魔の血で濡れたファヌエルの拳が樹流徒の頬をかすめて空を切る。逆にその下で交差した樹流徒の拳がファヌエルの胸板を強烈に叩きつけた。
一撃で決着がつく。ファヌエルほどの実力を以ってしても、今の樹流徒とは力量差があり過ぎた。天使の巨体が蹴られたゴム鞠のように吹き飛び、そのまま力なく墜落してゆく。
下級天使ならば絶命してもおかしくない攻撃を見舞ったが、ファヌエルはまだ死んでいない。それは攻撃した樹流徒本人が一番良く分かっていた。しかし彼は、わざわざ相手を追撃してトドメを刺そうとは思わなかった。最優先すべきは次の世界へ向かうことである。
落下するファヌエルの姿を目で追ったのは寸秒。樹流徒はすぐに視線を足下の台座へと移し、そちらめがけて落下する。近寄る敵と流れ弾をかいくぐり、跳ね除け、そして必要とあらば倒しながら、落雷の如き勢いであっという間に円形の足場に降り立った。
台座の表面を覆うレンズから眩い白光が放たれる。光は大きな柱となって伸び、樹流徒の全身を包んで青空へと吸い込まれていった。
次の世界へ樹流徒を行かせまいと天使たちが台座に攻撃を集中させる。それらは樹流徒が回避や防御をするまでもなく、全て光の柱によって阻まれた。
天に昇る光が消えたとき、樹流徒の姿もまた台座の上から消えていた。
目の前が真っ白になり、気が付けば樹流徒は別の台座に立っていた。
第一天とは明らかに異なる景色が彼の視界に飛び込んでくる。作り物のように美しい水色の空は遠く、薄い雲があんなにも高い場所を流れている。足下に目を落とせば透き通った水が広がっていた。台座は表面のレンズを残して全て砂に埋もれ、完全に水没している。
聖界の第二天は不思議な水の世界だった。大人の膝まで届くかどうかという浅瀬が前後左右どこまでも果てしなく続いている。海の中には花が咲き、花びらが色とりどりの体を海面に浮かべていた。その下では花びらに負けず劣らず色鮮やかな美しい魚たちが忙しく動き回っている。
第一天もそうだったが、本来であればこの世界は天使たちの憩いの場所だったのかもしれない。浅瀬に足を浸し、美しき花々や魚たちと戯れる天使の姿が、目に浮かぶようだ。
しかし今は少数の悪魔と天使の大軍がぶつかり合う戦場と化していた。樹流徒よりも早くこの世界にたどり着いた悪魔たちは皆、付近の天使と交戦している。武器を振りかざし、足下から水飛沫を上げ、空を駆け回り、皆、死に物狂いで敵に食らついていた。そして皆、戦いながら同じ場所を目指して移動している。
彼らが目指す先に視線を送ってみると、水平線の彼方に光の柱が上がっているのが見えた。第三天に続く台座がそこにあるのだろう。
頭上から大きな火の玉が降ってきた。戦闘の流れ弾だ。樹流徒は前方に跳んでかわすと空中で漆黒の翼を広げてそのまま飛行体勢に入った。光の柱が見えた場所に向かって移動を開始する。