聖界の記憶
抜けるような青空の中心に白銀の太陽が輝き、うっすらと桃色に染まった雲が遠くに漂っている。
なだらかな起伏が繰り返される緑の大地には赤、青、白、黄色など、色彩豊かな薔薇の花が咲き誇っていた。遥か遠方の丘に見える木々の若葉は眩いほどに明るい。薔薇の園に囲まれた広い泉には透明な水が満ち、わずかな濁りも無かった。泉の頭上では虹の橋が架かり、幻想とばかりにおぼろげな光を浮かべている。
この世界は元々夢のように美しい楽園だったに違いない。草原の中を野生動物が自由に駆け回り、薔薇の園で蝶が踊り、泉のほとりでは天使が優しい歌を奏でている。そんな光景が、現実の出来事のようにはっきりと想像できた。
しかし天使ウリエルの反乱により、現在の聖界には痛々しい戦いの爪跡が残されている。地上を眺め回せばどの方角にも焼け野原と化した部分が点在していた。まるで美しい風景画の上から墨汁を垂らしたような光景が目の及ぶ限り広がっている。
樹流徒が聖界に突入したとき、すでに戦闘が始まっていた。彼よりも一足早くこの世界に到着した悪魔たちが天使と激しい戦闘を繰り広げていたのである。樹流徒のすぐ目の前で発生している戦闘もあるが、遥か地平の彼方と、その反対側の地平でもそれぞれ煙が上がっていた。遠く離れた複数の場所で戦闘が起きている。
どうやらこの世界で悪魔たちは散り散りになってしまったらしい。おそらく入り口に応じて出口が異なるのだろう。現世と聖界を繋ぐ幾つもの魔法陣の内どれに飛び込んだかによって、飛ばされる場所が変わるのだ。つまり今樹流徒の眼前で戦闘を繰り広げている悪魔たちは、樹流徒と同じ魔法陣を通って聖界に侵入した者たちということになる。
樹流徒のすぐ後ろには、白い光を放つ魔法陣があった。これを通れば聖界から現世に戻れるだろう。無論、今は帰り道の心配などする必要は無い。
樹流徒の正面にいる悪魔の数は目算して十体程度。対して天使の数は五十をゆうに超えていた。数で劣る悪魔たちは苦戦を強いられている。
戦況を素早く把握した樹流徒は、即座に手を振り払った。その軌道上に氷の矢が六本出現する。従来であれば氷の矢は普通の弓矢と変わらない大きさだったが、今回出現したのは矢というよりも槍に近い長大な氷塊だった。ベルゼブブとの戦いを経て樹流徒の能力は進化している。
槍のような矢は端から順に発射されると、どれも空中で分離して七、八本の小さな矢となった。計五十本近くの矢が、まるで己の意思を持ったように天使だけを狙って広範囲に飛び散る。
天使は飛んできた矢を回避し、魔法壁で防御し、または被弾した。矢は強烈な冷気を放って捉えた獲物の全身を瞬く間に凍りつかせる。全部で二十体以上の天使が氷像と化し、次々と空から落下してきた。彼らが一斉に緑の大地を転がるその光景は、攻撃を放った樹流徒自身の目から見てもかなり異様だった。付近で戦っていた天使の実に半分近くが、たった一度の攻撃で物言わぬ冷たい物体に変わってしまったのである。
天使たちは当然の如く樹流徒の存在を注意せざるを得なかった。すぐ目の前にいる悪魔を無視してでも樹流徒へ顔を向けた者もいる。悪魔も悪魔で、束の間ここが戦場である事を失念したように樹流徒へ視線を集めた。異形の瞳という瞳が、まるで自分以上の異形でも見るかのような目つきを作る。
彼らの視線を意に介さず樹流徒は攻撃を続ける。彼は今一度腕を振り払い、長大な氷の矢を放出した。
さすがに連続で同じ攻撃が飛んでくれば回避する天使が多かったが、それでも空中にいた三体の天使が新しい氷像となって地面で鈍い音を立てた。未だ数の上では天使が多少優勢だが、戦力では完全に立場が逆転していた。先ほどまで押され気味だった悪魔は勢いづき、程なくして樹流徒たちは付近の敵を全滅させた。
ひとまずその場での戦闘が終わると、生き残った悪魔の集団は一息つく。その中からおもむろに体を反転させて樹流徒に近付いてくる者がいた。背中から白い羽を生やした、体長一メートルはあろうかという蛇の悪魔である。
「アンタ、首狩りキルトだろ? 手配書とは少し外見が違うけど間違いない。今回だけはアンタと味方同士で良かったよ」
宙を浮く蛇の悪魔はガラガラ声でそう言った。彼の言葉はこの場にいる悪魔のおおよそ総意と思われる。数体の悪魔が相槌を打っていた。
「首狩りのおかげで命拾いするなんて、夢にも思わなかった」
少し複雑そうな顔をしている者もいる。
今まで樹流徒に懸賞金をかけていたベルゼブブがいなくなったことで、少なくともカネ目当てに樹流徒を襲う者はいなくなった。他の理由で彼の命を狙っていた悪魔も、戦争が始まった今、それどころではないだろう。
「なぁ。それはそうと、オレたちこれからどこへ行けばいいんだ?」
虎の頭部を持つ半人半獣の悪魔が、おもむろに辺りを見回しながら尋ねる。
付近一帯はほとんど草原と花畑で埋め尽くされている。建物らしきものや、道標になりそうなものは一切見当たらなかった。一体どちらへ向かえば神の元へたどり着けるのか?
あいにく答えを知っている者はこの場に居合わせなかった。誰もがサアと首をかしげ、「知らん」と首を振り、あるいは目で「分からない」と答える。
となれば、この世界をただ闇雲に動き回るしかないだろう。適当にどこかへ向かっていれば、移動中に光の者の所在と、そこまでの距離が分かるかもしれない。
そう樹流徒が前向きに考えたとき。
「キルト」
背後から聞き覚えのある声がした。
名前を呼ばれた樹流徒は反射的に振り返る。するとそこには一体の悪魔が立っていた。水色の長い髪と赤い瞳を持つ、黒いドレス姿の少女である。
彼女を知っている樹流徒は、名を呼び返した。
「ヴェパールか」
少し懐かしい顔だった。ヴェパールは異端地獄の海上都市ムウで出会った悪魔である。今は人の姿をしているが、樹流徒を海底神殿まで送ってくれたときは人魚の姿をしていた。
たった今この場に到着したばかりなのだろう。ヴェパールは笑顔で樹流徒の眼前まで近寄る。
「やっぱりキルトでしたね。以前と見た目が違いますけど雰囲気で分かりました」
嬉しそうにそう言って、しかし彼女はすぐに笑みを消し、戦場に似つかわしい真剣な顔つきになった。
「やはりヴェパールもこの戦争に参加していたんだな」
「はい。光の者の復活を阻止しないといけませんから。空を飛ぶのは苦手ですけど頑張ってここまで来ました」
ヴェパールは胸の前で両の拳を握り締める。その指には以前樹流徒が渡した指輪――海竜ウセレムの形見のつもりであげた宝石が輝いていた。
「それに私、聖界がどんな場所か思い出すためにもこの世界に来たかったんです」
彼女はそう付け加える。
「でもこの世界は悪魔の故郷じゃないんだぞ」
「はい。それについてはルシファーの演説で知りました。まさか魔界が故郷だったなんて……聞いた瞬間はちょっとショックでした」
「だろうな」
「でも聖界が私たち悪魔にとって重要な場所であることには違いありません。ですからどうしてもこの世界について思い出したかったんです」
「実際ここに来て何か思い出せたか?」
「ええ。少しだけ」
ヴェパールは首肯した。
魔界の最下層に閉じ込められていたルシファーは、数年前に自力で過去の記憶を取り戻したという。ならばヴェパールに似たような現象が起きても別段不思議ではなかった。もしかすると聖界の風景を目にしたことで彼女の記憶が一部蘇ったのかもしれない。
「私の記憶に誤りが無ければ、聖界は第一天から第七天という七つの世界に分かれています」
ヴェパールは断言する。
「七つの世界……。魔界が九つの階層に分かれているのと同じか」
そういえばルシファーがこう言っていた。
光の者は聖界と呼ばれる七つの星を、闇の者は魔界と呼ばれる九つの星を、それぞれ創造した……と。
「そうです。多分ここは聖界の最下層、つまり最初の世界である第一天と見て間違いありません」
「ならば第七天が最後の世界か。そこに光の者がいるかもしれないな」
正確には「光の者の遺骸が安置されている」と言うべきだろうか。
樹流徒の憶測に、ヴェパールも同意した。
「きっとそうだと思います」
「じゃあ、第七天に移動するにはどうしたら良い? 聖界にも魔界血管のような各階層を繋ぐ装置があるのか?」
「残念ですが……それは分かりません」
ヴェパールは少し申し訳無さそうな顔でやや俯き加減になる。
二人の会話に耳を傾けていた他の悪魔たちは少しガッカリした様子だった。
「クソ。じゃあ結局何の手掛かりも無くこの世界を走り回るしかないのかよ」
「文句言うんじゃねェ。ヴェパールがいなけりゃ、聖界が七つに分かれてるコトすら知らないままだったんだぜ」
などと、誰かが言い合っている。
「でも次の世界に行く方法が全く分からないってのは面倒だな」
軽い愚痴もこぼれる。
――じゃあボクがもう少し詳しい話を教えてあげるよ。
と、出し抜けに樹流徒たちのすぐ近くから穏やかな声が飛んできた。
全員がそちらを振り返る。
声の主は、象の頭部を持つ半人半獣の悪魔だった。丸い瞳は黒真珠のように艶やかで、牙の片方が折れている。見上げるほど大きな体にエキゾチックな雰囲気漂う金色の衣装を纏っていた。
「ガネーシャ」
樹流徒は彼の名を口にする。
「やあキルト。また一緒に戦うことになったね」
いつの間にかそこにいた象頭悪魔は、機嫌良さそうに長い鼻を揺らした。
ガネーシャは太陽の国の戦士として樹流徒と共に降世祭に出場した悪魔である。飛行能力を持たない彼だが、たぶん味方の力を借りてこの場所まで来たのだろう。良く見ればガネーシャの背後には大きな羽を持つ獣の悪魔と、同じく羽を持つ人間型の悪魔が立っていた。
「アナタは第七天に移動する方法を知っているのですか?」
ヴェパールが問う。
「知っているというより、少しだけ記憶が蘇ったんだ。聖界の風景と、君の話のおかげでね」
と、ガネーシャ。彼といい、ヴェパールといい、何かキッカケさえあれば、悪魔たちは失われた過去の記憶を取り戻せるのかもしれない。開戦前、ルシファーが魔界中に過去の真実を伝えたが、あの演説を聞いた時点で何かを思い出した悪魔がいてもおかしくなかった。
少しだけ記憶が蘇ったというガネーシャに、樹流徒は問う。
「教えてくれ。どうすれば第七天に……光の者がいる場所にたどり着ける?」
「さっきキルトが言ってたけど、聖界にも魔界血管みたく各世界を繋ぐ装置があったはずだよ。と言っても魔界血管とは形状が違うけどね」
「じゃあ、どういう形をしているんですか?」
「たしか台座の形をしていたはずだよ。ホラ、忘却の大樹に転送装置の台座があるだろう。アレをもっと低くしたような形だったはずだ。」
「あ! オレも思い出したぞ。ガネーシャの言う通りだ。たしかにそんな形をしていた。間違いない」
ガネーシャの言葉で急に過去の記憶を取り戻したらしい。悪魔の一人が突然叫び出す。
「なるほど。台座型の転送装置があるのは本当みたいだな。でも、それはどこにあるんだ?」
羽が生えた蛇が問う。改めて辺りを見回しても、ガネーシャが言う台座らしきものは見当たらない。
ガネーシャは若干声のトーンを落とした。
「そこまでは思い出せない。ただ、台座は魔界血管と違ってこの階層に幾つも存在したはずだ。中には一つしかない階層もあったと思うけど……」
「じゃあ適当に遠くを探し回れば、簡単に台座が見付かるんじゃないか?」
ある悪魔が希望的観測を述べる。
彼の言葉に数名が頷くが、完全には納得できない者もいた。
「でもよォ。上の階層に向かう台座と下に向かう台座はどうやって見分ければ良いんだ?」
別の悪魔が指摘する。
この世界は最下層の第一天なので、必然的に上の階層へ向かう台座しか存在しないはずだ。しかし第二天以降は台座を発見しても上と下どちらに転送されるか分からない。或いはエレベーターのように上下両方へ行けるようになっているのだろうか。
「大丈夫。たぶん上層行きと下層行きでは台座の形が違っていたはずだ。具体的にどう違っていたかまでは思い出せないけどね」
曖昧な記憶とは裏腹にガネーシャは自信ありげな調子で言う。
「それだけ分かれば十分ですよ。この第一天には上層行きの台座しかありませんから。同じ形の台座に乗れば、第二天以降も間違わず先へ進めるはずです」
ヴェパールの言葉に、悪魔たちは今度こそ全員納得する。
現金なもので、さっきまで愚痴や文句をこぼしていた彼らは急に明るくなった。
「よし。じゃあその台座とやらを探そうぜ」
誰かの声を号令に、悪魔たちは我先に転送装置を見つけようと四方へ散っていった。
その場はあっという間に樹流徒、ヴェパール、ガネーシャの三人だけになる。
「今更だけど、オマエ、ちょっと見ない内にすっかり雰囲気が変わったね」
ガネーシャが軽く顎を上下させて樹流徒の全身をさっと見た。
「色々あったんだ」
樹流徒は簡単に答えてから、話題を変える。
「それよりガネーシャもこの戦いに参加したんだな」
以前ガネーシャ本人が言っていたが、彼は戦いを好まない性質の悪魔である。ガネーシャが降世祭に参加したのも戦いが好きだからではなく、あくまで報酬が目的だった。そんな彼が聖魔戦争に参戦したのが、樹流徒には少しだけ意外だった。
「ボクは争いや暴力は嫌いだけど、この戦争は一悪魔としてどうしても参加せざるを得なかったんだ。同じ思いの悪魔は多いんじゃないかなあ」
「この戦争に参加していない悪魔は多分いないと思いますよ」
ガネーシャとヴェパールが立て続けに言う。
「そうか……」
彼らの言葉から判断する限り、およそ全ての悪魔がこの戦争に参加しているのだろう。ならば樹流徒と顔見知りの悪魔も、今頃どこかで戦っているはずだ。中にはおよそ戦闘向きとは思えない悪魔もいたが、彼らも命懸けで天使に立ち向かっているはず。それを想像すると、樹流徒は何とも言えない気分になった。
ただ、状況がどうであれ彼がすべきことは決まっている。一刻も早く神の復活を阻止し、詩織を救出することだ。それにより戦争自体をも早く終結させられる。
そんな風に考えた途端、樹流徒はこの場に止まっている時間が急に惜しくなった。
「ヴェパール、ガネーシャ。何があっても死ぬなよ」
それだけ言って彼は素早く踵を返す。
「キルトも無事に帰ってきて下さい」
ヴェパールの声を背に、樹流徒は大地を蹴った。
彼の姿は大空へ飛び立ち、ヴェパールとガネーシャの瞳の中であっという間に小さくなり、そして消えた。
樹流徒の姿を見送った後、ヴェパールは真剣な目でガネーシャを見上げる。
「私も台座を探しに行きます」
「じゃあボクも一緒に行こう。聖界内には強い天使いるから二人で行動した方が安全だ。協力して戦えば互いの生存率がちょっとは上がるんじゃないかな」
言葉を交わし終えると、二人は揃って駆け出した。




