聖魔戦争開幕
かつて龍城寺と呼ばれていた現世の地方都市は、魔界と繋がった日を境に魔都となり、その後悪魔やネビトの破壊行為に曝されて廃都と化した。そして真バベル計画の完了により、遂には魔界と聖界を繋ぐ通路――バベルの塔へと変わり果てたのである。
現在バベルの塔は、幾千万の悪魔で溢れ返っていた。アスファルトの上、建物の中、山林の奥深く、そして海の底にも。彼ら異形の群れは、ほぼ至る場所に散らばっている。その桁外れの戦力を目の当たりにすれば、悪魔やネビトが跳梁し小競り合いをしていた頃の龍城寺市が、まだ安全な場所だったかのように、誰もが錯覚するだろう。
現世に集結した幾千万の悪魔たちは皆、空を見上げていた。白く輝く魔法陣で埋め尽くされた異様な空だ。それは聖界の入り口であり、神の元へと続く道。すなわち、これから悪魔たちが目指す場所である。
ただし彼らがそこへたどり着くには、どうしても越えなければいけない壁があった。壁とは、もちろん天使のことだ。魔法陣の足下で夥しい数の有翼人たちが冷たい目を揃えていた。彼らは悪魔よりも一足早く現世に押し寄せ、迎撃態勢を整えていた。
少し前、聖界では天使ウリエルによる反乱が起きた。その影響で、聖界の戦力は大幅に減っていると見える。上空で待機している天使の数は決して少なくないが、それでも悪魔の数に比べればかなり劣っていた。
かといって悪魔が優勢とは言えない。全ての戦力がこの場に集まっている悪魔に対し、現世にいる天使の群れは聖界の先遣隊に過ぎないからだ。残りの戦力は聖界内で待機しているのだろう。また、ある悪魔の話によれば、聖界の先遣隊は基本的に下級の天使で構成されており、兵士個々の戦闘能力は低いという。ならば今回の戦争は悪魔が聖界に侵入してからが本番と言って良い。
地上と上空でにらみ合う悪魔と天使。彼らの間で一触即発の雰囲気が生まれた。それは双方が発する殺気に触れてすぐに爆発する。
開戦の合図は無かった。果たして誰が最初の雄たけびを上げ、誰が最初の攻撃を放ったか。気がつけば無数の怒号と破壊の音が起こり、異形の群れと群れとの間で色とりどりの閃光が瞬いていた。大小さまざまな影が動き出し、入り乱れて、狂ったようにめまぐるしい光景が展開される。
悪魔と天使による戦争がとうとう始まったのだ。聖界と魔界の争いだけに“聖魔戦争”と呼ぶのがしっくりきそうである。
天空の魔法陣を目指す悪魔と、彼らの進軍を阻止しようとする天使たち。果たして彼らは何を思って聖魔戦争に身を投じたのか。悪魔もしくは天使の一員として種族的な感情を燃やして参戦した者もいるだろう。単に個人の都合や感情に従って自らを突き動かしている者もいるはずだ。その両方を兼ねている者も、たぶん少なくない。
悪魔の中には身を引き裂かれる思いで戦っている者もいるだろう。彼らが敵として倒さなければいけない天使たちは、光の者に偽りの姿と記憶を与えられ意識を操られているだけで、本来は自分たちの仲間なのだから。その真実を知る悪魔が、天使との戦いに抵抗を感じるのは当然だった。しかしそれでも魔界の兵士たちは戦う。光の者の復活を阻止するため。遥か遠い過去の屈辱を晴らすために。
そんな中ただ一人、他の者たちとは明確に別の目的を持って今回の戦いに臨んでいる者がいた。無論、その一人とは相馬樹流徒である。
悪魔ではない樹流徒には光の者に対する憎しみも恨みも無い。本来であれば神の復活を阻止する理由も無かった。しかし復活の儀式に詩織が利用されるとなれば話は変わる。彼女が儀式に利用される前に、樹流徒は全力でミカエルの目的を阻止する必要があった。
魔界には現世と繋がる扉が三つ存在する。一つは愛欲地獄。一つは憤怒地獄。そして残り一つは魔壕に。その三つの扉を通って魔界中の悪魔がバベルの塔に押し寄せた。樹流徒やルシファーも、ケセフの町で行なわれた開戦宣言が済んだ後、間もなく移動を開始し、魔壕の扉を使って現世にやって来た。そのときすでに上空は魔法陣と天使によって埋め尽くされており、前述した通り龍城寺市は最早バベルの塔と呼んだほうが相応しい有様だった。そのため、樹流徒にとっては少し久しぶりの帰郷だったが、懐かしい気分は少しも湧いてこなかった。
戦闘が始まるとすぐ、樹流徒は一緒に行動していた悪魔たちとバラバラに分かれた。リリスも、アスタロトも、それにアスモデウスも皆、別々の方角に散らばって各個に聖界を目指して行動を始めた。おそらく今頃ルシファーは悪魔の先頭に立って戦っているだろう。彼に忠実そうなサルガタナスやルキフゲといった悪魔たちは王の護衛役を務めているかもしれない。
樹流徒は市内北部に位置する住宅地の上空を戦場にした。周囲ではやはり悪魔と天使が大量に入り乱れて命の奪い合いをしている。
空を舞う樹流徒を狙って、一体の天使が掴みかかってきた。簡素な作りの衣を纏った男性型の天使だ。以前龍城寺タワーに出現したエンジェルだろう。エンジェルは天使の中で最も低い階級の天使たちである。樹流徒は突っ込んでくる相手をひらりとかわすと、炎の爪であっさりと反撃を決めた。エンジェルは炎に包まれながら落下してゆく。
エンジェル以外にも、樹流徒はパワー、プリンシパリティ、ドミニオン、そしてヴァーチューといった数種の天使たちと交戦した経験がある。いずれの天使にも一度は苦しめられたが、しかし魔界の旅を終えて戦士として大幅な成長を遂げた今の樹流徒には、いずれの天使も敵ではなくなっていた。迫り来る聖界の戦士たちを易々と退けながら、樹流徒は空へと駆け上ってゆく。
彼とは反対に、天から地へと落下して行く者たちが後を断たなかった。一つどこかで光が起こり、一つどこかで雄叫びや叫び声が上がり……そのたびに悪魔か天使のどちらかが命の光を振り撒きながら流れ星となって地上へ落下してゆく。
そして今また一体の天使が全身から美しい光の粒を放ちながら墜落していった。彼の命を奪ったのは、胸に刺さった一本の矢。その矢を放ったのは身長二メートルを超える大男の悪魔だった。フードつきのローブを身に纏い、頭上に向かって大型の弓を構えたその姿は、闇の狩人といった表現が似合う。
大男は龍城寺タワー付近にそびえ立つビルの屋上を足場にして、上空の天使を次々と弓矢で射落としていた。無駄弾は一切無い。大男の手元から放たれた矢は全て正確無比なコントロールで天使の急所を射抜いていた。まさに必殺必中。魔法の矢である。
「やるじゃんバルバトス」
大男の背後で女性型悪魔サキュバスが興奮していた。彼女がぴょんぴょん飛び跳ねるたびに、ライトブラウンの長い髪と黒い羽が揺れる。
「お前は決して戦闘向きではないのだから、あまり勝手に動き回るなよ」
バルバトスはサキュバスに釘を刺しながら次の矢を放った。魔法の矢は狙い済ましたように数百メートルも離れた天使の額に吸い込まれてゆく。
同じ頃、村雨病院の上空では異形の獣が天使相手に猛威を振るっていた。
獅子の頭部と四枚の白い翼を持つ悪魔――パズズである。樹流徒の直感だとパズズは魔王級の実力を持つ者だ。その憶測は至って正しく、パズズの強さと戦いぶりはまさに魔王級と呼ぶに値するものであった。彼が翼を羽ばたかせれば黒い竜巻が起こり、軽く息を吐けば炎の波が踊る。パズズ一人のために、すでに百の天使が命を散らしていた。下級天使では何体束になっても勝ち目が無い。パズズは引き続き周囲の天使を紙くずでも処分するかのように軽々と葬ってゆく。
そんな彼の凄まじい戦いぶりを、下から冷静に眺めている者がいた。全身を赤茶色の毛に覆わた馬頭人身の悪魔だ。黒いマントと白い手袋、そして革製のブーツを装備している。そのような外見を持つ者はオロバスしかいないだろう。
馬頭悪魔オロバスは村雨病院の屋上に立っていた。かつて樹流徒とバフォメットが死闘を繰り広げたその場所には、純白の羽根が何枚も散らばっている。つい先ほどオロバスと戦い散っていった天使たちの羽根である。
「さすがにパズズは頼りになりますね」
オロバスは、頭上で大暴れしている獣の勇姿を仰ぎ、感心している。
「しかし敵の守りが妙に弱い。ウリエルの反乱が起きた事を考慮しても天使の数が少なく、数が少ない点を考慮しても抵抗が弱い。まるで我々と戦う意思が無い天使が少なからず紛れ込んでいるかのような……」
まさかそんんはハズは無いでしょうが、と付け足しながら、オロバスはどこか浮かない顔付きをした。
同じ違和感を樹流徒も覚え始めていた。戦いながら周囲の様子を観察すると、天使の中に妙な動きをしている者たちがいるのだ。彼らは一見すると必死に動き回って悪魔と交戦しているようだが、その実は自ら積極的に攻撃を仕掛ける気配がまるで無く、極力戦闘を避けている。つまり悪魔の侵攻を止めるつもりなど毛頭無く、ただ自分が生存する事に全力を注いでいる天使がいるらしいのだ。
無論、それが悪いとは言わない。戦争の勝ち負けよりも自分の命を優先させる者がいたとして、どうして彼らを責められようか。
ただ、悪くはないが、奇異ではある。あくまで樹流徒が知る狭い範囲での話だが、天使という生き物は神と聖界のためならば惜しみなく命を投げ出す者たちである。たとえばメギドの火を降らせる儀式を現世で行ったときも、天使たちは誰一人恐れずに戦っていた。
なのに今戦場を見回すと、明らかに逃げ腰の天使がいる。一人や二人だけならまだしも、かなりの数が自身の生存を最優先して動いているのだ。奇異と言うしかないだろう。
そのような現象が起きている原因を考えても、樹流徒には分からない。聖界側の策なのか? と問われれば、とてもそんな風には見えなかった。その証拠に天使の中には味方の不自然な動きに戸惑っている者たちが、少なからず見受けられる。彼らにとっても不測の事態が起きていると見て間違いない。
妙な動きを見せる天使たちの影響も手伝って、魔界の兵は怒涛の進軍を見せる。早くも上空の魔法陣にたどり着く悪魔たちが現れ始めていた。魔法陣を通り抜ければ、その先には聖界がある。
勢いに乗る魔界軍の流れに乗って、やがて樹流徒も魔法陣のすぐ傍まで近付いた。
彼を聖界に行かせまいと、数体の天使が群れをなして迫ってくる。天使たちは抑揚の無い表情とは裏腹に強烈な殺気を放って、それぞれ槍や剣などの武器を手に樹流徒へ飛び掛ってきた。
樹流徒の目には全員の動きがスローに見えた。敵一人一人の動きを完全に見切り、すれ違いざま炎の爪で切りつける。天使たちは傷口から広がった炎に包まれて、頭からまっ逆さまに落ちていった。その体は地上に到達する前に燃え尽き、銀色の光の粒となって消える。
もう樹流徒の行く手を阻むものはいなかった。彼は迷わず、振り返らず、魔法陣の一つに飛び込む。
全身に軽い電流のようなものが走り、視界が白一色に塗り潰された。
直後、樹流徒の視界に映し出されたものは、紛れも無く天使たちの世界であった。