ケセフ宣言
真バベル計画が完了してから二日後。夜空に銀色の月が昇り、満天の星々が煌く時刻。
樹流徒はルシファーら十数名の悪魔と共に“ケセフ”という名の小さな町を訪れていた。
ケセフは魔壕南部に広がる大草原の中心に位置している。美しい大河の上流にひっそりと佇み、大河の源流となっている雄大な山を背負っていた。樹流徒が知る限り魔壕各地に存在する町はどこも洗練された景観を誇り、他の階層とは文明の発達具合に隔世の感がある。また、そこに済む悪魔たちも服装や立ち振る舞いに磨きをかけて、街の雰囲気に馴染んでいた。
それに対してケセフという町は大河に臨む肥沃な大地に石造りの家々を並べただけの、素朴で原始的な雰囲気を持つ土地だった。おそらく魔壕の中では異端と呼べる町である。
ケセフに暮らす悪魔たちの数は百にも満たなかった。ケプトの町(死体人形劇が行なわれていた町)に住む悪魔貴族らとは違い、豪奢な衣装や派手なアクセサリーで着飾っている者は一人もいない。大半の者が生まれたままの姿をしていた。何か身につけている者がいたとしても、人型悪魔が腰に獣の皮を巻いていたりだとか、半獣の悪魔が首に動物の骨で作ったと思しきネックレスを提げていたりだとか、せいぜいその程度のものだった。
そんな特殊な町だけあって、普段この場所を出入りする者はほとんどいない。魔壕の煌びやかな雰囲気に馴染めなくなったはみ出し者がふらりとやって来て町に居つくか、逆に魔界貴族の派手な生活を懐かしんで一度は町に住み着いた者が去ってゆくか。そのどちらかが数年のあいだに一人か二人現われる程度だという。
そのように悪魔の出入りが極端に少ない場所へ樹流徒たちがぞろぞろとやって来たものだから、ケセフの住人が何事かと驚いて集まったのは当然だった。加えて集団の中にかのサタンが含まれていると分かると、住人の騒ぎようはもう大変なものであった。雄たけびや寄生を上げる者あり。狂ったように草原を走り回る者あり、夜空を旋回する者あり。そして謎の踊りを舞い始める者、膝を着いてルシファーに頭を垂れる者など、千差万別と言って良いほど彼らの反応は様々だった。
中には恐る恐るといった様子でルシファーに近付き、こう尋ねる者もいた。
「気高き王サタンよ。遥か長き眠りから覚めし者よ。アナタは何故このような地を訪れたのか?」
彼の疑問はもっともであった。ケセフの住人全員が王の復活と来訪に驚き、狂喜乱舞したのは疑いようもないが、その一方で彼らがルシファー出現の理由を知りたがっているのも間違いない。
ルシファーがこの地を訪れたのには確固たる目的があった。それはケセフの町で“ある儀式”を行なうことである。真バベル計画が完了し聖界に攻め込む準備はほぼ整った。しかしその事実をまだ悪魔たちは知らない。そこでルシファーは儀式を行ない魔界中の悪魔に自分の声を伝えることにしたのだ。己の復活を知らしめ、偽りの創世記を白日の下に晒し、聖界との戦争を宣言するために。ケセフは土地が有する魔力および霊的エネルギーの質や量において、その儀式を行なうのに最も適した場所なのだという。
事情を知ったケセフの住人たちは全てを納得し、改めて興奮した。自分たちの住む土地がこれから魔界の歴史に重大な一ページを刻むことを喜び、感動し、そして少なからず畏れを抱いた。ケセフは魔壕の全体的な空気に馴染めないつまはじき者たちが集まった場所だから、余計自分たちの土地が選ばれたことに喜びと意外感があったのかもしれない。
町の外れには草原の草を乱雑に刈り取っただけの広場がある。上空から見ると六角形の形をしているが、何かを意図してそのような形にしたのではないという。そこで儀式が行なわれる運びとなった。
ケセフの住人は儀式が始まる前に王の復活と来訪を祝す宴を催したいと願い出た。陽はすっかり沈み、闇は深まって、焚き火をたいて晩餐会を開くにはもってこいの風情だったのである。
その申し出をルシファーは丁重に断った。バベルの塔が完成した今、天使もこれから始まる大戦争を察知し、戦いに備えて慌しく動き始めているはずだ。急遽戦争の準備を整えなければいけないのは悪魔も同じである。魔界と聖界どちらにも、持て余す時間など一秒たりともないのだ。宴会を開いている暇も無い。そのためルシファーは可能な限り早い儀式の開始と、その後の展開を望んだ。
彼の考えにケセフの民が反対する理由は無かった。ルシファーの希望に沿い、すぐに儀式の準備が始まった。
悪魔の一団は連れ立って町外れの広場へと向かった。広場の中央にルシファーが立ち、彼を六名の悪魔が囲う。六名の内四名はリリス、アスタロト、ルキフゲ、そしてサルガタナスなど、バベル計画最終段階の儀式を実行した悪魔たちである。そこに美しい青年の姿を持つ悪魔ペイモンと、赤ずくめの悪魔メフィストフェレスが加わった。樹流徒と他の悪魔たちはかなり遠巻きに広場の七名(ルシファーと六名の悪魔)を囲い、暗黙の内に静寂を作って事の成り行きを見守る。
厳かな空気の中、儀式が始まった。
一口に儀式と言っても、これから行なうのは魔界全土にルシファーの声を届けるもの、つまり魔界の中にのみ効果を及ぼす儀式である。したがって異世界同士を繋ぐ扉である魔法陣は必要としない。
手順はバベル計画最終段階と少し似ていた。六名の悪魔のうち一人が呪文を唱え始め、彼が一節を読み終えると隣の一人が別の呪文を詠み始める。それを繰り返して最終敵には六名よる合唱になった。
ただ、その後からがバベル計画の儀式とは異なる。前述した通り魔法陣が不要のため、六名に接する円が出現する事も、光の六芒星が生まれる事もなかった。
儀式を行う悪魔は抑揚に乏しい調子で延々と同じ呪文を繰り返し唱え続け、呪文というよりは段々とお経のように聞こえてきた。これが魔界の歴史に残る重大な儀式でなければケセフ住人の中から欠伸をしたり、焦れたり、はたまた退屈で帰ってしまう者が何人現われてもおかしくない。そのくらいしばらくの時間、呪文は鳴り止まらなかった。単に時間の長さだけで言えば、刻魔殿で行なわれた儀式よりもよほど大掛かりだ。
間断なく続いた呪文ようやくが止まったのは、樹流徒が誰かの呪文の冒頭部分を空で唱えられるほどすっかり覚えてしまった頃であった。
六名の中心に立つルシファーの足下から銀色に輝く三角形の光が浮かび上がり、全ての辺と頂点に謎の文字が一つずつ出現する。その六つの文字もまた眩い銀色の光を帯びていた。
呪文を唱え終えた六名の悪魔はその場で佇んだままルシファーを見つめたり、数歩下がったり、あるいは地面にあぐらをかいたりと、不一致な行動を取り始める。その様子が儀式の完了を告げていた。
もっとも儀式は終わっても本番はこれからである。光り輝く三角形の中心でルシファーは夜空を仰いだ。彼は両手を広げて頭上にかざし、王に相応しき威厳のある声で語り始める。
『愛しき我が友たちよ。私の声が聞こえているだろうか。そして私を覚えているだろうか。我が名はサタン。汝らと共にある者なり』
ルシファーの肉声とは別に、もう一つの彼の声が樹流徒の脳内で反響する。きっといま魔界中の生物が同じ声を聞いているのだろう。
『今、私はケセフの地より、汝ら一人一人の心に呼びかけている。これから私が話すことを良く聞いて欲しい。我々悪魔の真実と未来についての重大な話だ』
そう前置きをしてから、ルシファーは真の創世記と悪魔の歴史を白日の下にさらした。
かつて全知全能の神が光の者と闇の者に分離したこと。悪魔と天使は闇の者が生み出した存在であること。天使は元々悪魔だったこと。悪魔の故郷は聖界ではなく魔界であること。魔界血管をはじめとした魔界中の建造物は先住民が造ったものではなく、闇の者の指示に従って悪魔自身が造ったものであること。ある日、光の者と闇の者の争いが勃発したこと。その戦いの中で、悪魔の三分の二が光の者の力により天使に変えられてしまったこと。闇の者が光の者に敗れたこと。それにより光の者が神となったこと。以上の事実を全て光の者が歪めたこと。しかしルシファーは数年前に真実の記憶を取り戻したこと。
全てが魔界中に伝えられた。
きっと今頃、悪魔は自分たちの真実に驚き、困惑し、そしてルシファーの話が真実かどうか疑念を抱いているだろう。ワケが分からずただ茫然としている者も少なくはないはずだ。話を信じた者の中には、光の者の所業に激怒し、自分たちの悲しき過去に慟哭している者もいるかもしれない。
全ての真実を告げたルシファーは、現在聖界がウリエルの反乱により未曾有の被害に遭っている事実も知らせた。(ウリエル反乱の情報は背信街からケセフへ移動する最中、樹流徒がルシファーに伝えた)その上で、彼は宣言する。
『我が友たちよ。今こそ過去の呪いを断ち切るときだ。天使は光の者を復活させようとしている。それを阻止すべく、これから私は聖界に挑む。どうか汝らの力を私に貸して欲しい。我々一人一人の手で、新たなる創世記の第一歩を踏み出すのだ』
静寂を破ってケセフの住人から割れんばかりの大歓声が起こる。魔界の至る場所から同じ声が聞こえてきそうだった。
そして抑えきれない興奮の中心で、ルシファーは冷静に、しかし力強く最後の言葉を唱える。
『友よ。現世に集え。聖界への扉は現世にある』